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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


日本の城物語(2/4回)

23/01/2015


 

はじめに

熊本県にある熊本城の「武者返しの石垣」。一見、容易に登れそうですが、上に行くほど反り返るため現実には困難でしょう。その石垣は、加藤清正が近江国から連れてきた石工集団に造らせたとされます。
約六年かけた〝難攻不落の名城〟の完成から二百七十年を経た一八七七年の西南戦争。官軍が立てこもる熊本城を薩摩軍が三日にわたって総攻撃するも、一兵たりとも入ることができず、籠城戦は官軍の勝利で終わります。
今回ご紹介するのは、難攻不落のはずだったが、たった半日で落城。しかも、即、廃城となった静岡県三島市の箱根山の山中城をご紹介します。

 

 

 

城のあらまし

史跡山中城は、小田原に本城を置いた後北条氏が、永禄年間(一五六〇年代)小田原防備のために創城した中世末期最後の山城です。

山中城が築かれた場所は、箱根道から韮山城への道への分岐点という要衝であり、城内に道路を取り込んだ曲輪(くるわ=城の周りに築いた土や石の囲いなどのこと)の配置は、足柄城とともに街道を封鎖する関所の役割を担っていたに違いありません。

箱根山西麓の標高五百八十メートル。自然の要害に囲まれた山城。後北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要でした。築城時は武田との戦さに備えたと言われますが、勢力を伸ばす豊臣秀吉の上洛要請に従わない北条氏政との間に緊張が高まりました。

上洛(じょうらく)とは、江戸時代以前の日本では京都に入ることです。かつて京都は、中国の都であった洛陽になぞらえて、京都へ上ることを「上洛」と言い、現在の「上京」と同じ意味で使われました。

やがて、豊臣秀吉の小田原城攻めに備え、急ぎ西ノ丸や出丸(でまる=本城から張り出した出城〔でじろ〕のこと)などの増築が始まり、戦国時代末期の天正十八年(一五九〇年)三月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したという悲劇の山城です。

 

 

 

後北条とは

後北条氏(ごほうじょうじ)というのは、北条早雲(伊勢盛時)を祖とする関東一帯を席巻した戦国大名。また居城のあった小田原の地名から小田原北条氏とも呼びます。戦国時代、伊勢新九郎長氏を初代とする小田原北条氏五代を、鎌倉時代の執権北条氏と区別して「後北条氏」と呼んでいます。小田原城に本拠を置く後北条氏は、関東を支配下に置く過程でたくさんの城を築きました。ちなみに鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは直接の関係はありません。

 

 

 

後北条流築城術の特徴

豊臣秀吉の小田原攻めの前哨戦として、天正十八年(一五九〇年)三月二十九日、山中城への総攻撃が実施され、攻撃開始からわずか半日で落城します。山中城は決して中途半端な城ではなく、後北条氏によって、本城の小田原城西方を守備する国境警備の城として築城されました。ゆえに、土地と結びついた領民や領主のいる城とは訳が違います。極めて軍事色の強い山城です。むしろ国境警備の「最後の砦」として、後北条氏の五代百年に亘る軍事知識と築城技術の粋を集めて作られた、最高水準の防御性を誇ったと言われる城です。
山中城の全体構成の中で目を引くのは、現在の国道1号線と同様に、かつての東海道がこの三の丸を縦貫していることです。いかに国境警備の城とはいえ、幹線道路が城内の中央部を貫通している城郭は稀有です。
三島市が昭和四十八年から始めた全曲輪の全面発掘の結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、曲輪の全容、山城の規模、構造が明らかになりました。曲輪相互の連絡道などの自然の地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸など山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点など、学術的にも貴重な資料であり、後北条流築城術の特徴を示すものです。

山城としての山中城の曲輪の特徴をいくつかをみてみましょう。

 

広大な岱崎出丸

箱根旧街道の薄暗い石畳から斜面を登ると、広大な緑地、岱崎(だいさき)出丸に出ます。すり鉢曲輪、御馬場曲輪を備えた岱崎出丸。歴史上有名な戦いとなった天正十八年(一五九〇年)三月、七万ともいわれる圧倒的な兵力を有する豊臣軍に対し、わずか四千人で応じた城主松田康長の北条軍の古戦場です。 山中城の南西に造られたこの出丸は、総延長五百メートル、面積二万平方メートルにおよぶ長大で広大な曲輪です。東海道から見上げるとそれはもう城ではなく、「壁」です。天正十七年(一五八八年)、豊臣秀吉の小田原征伐に備え急ぎ増築されたのですが間に合わず、未完成部分があります。壁のような出丸の先端には「擂鉢(すりばち)曲輪」と呼ばれる塹壕のような一角があり、ここは間宮康俊(やすとし)率いる二百人の決死部隊が、眼下の東海道に向かってひっきりなしに銃撃をかましました。この岱崎出丸で山中城の副将、間宮康俊が壮絶死したと言われます。

さらに出丸西側には、出丸と街道をさえぎるように全長約百五十メートルもの一ノ堀の畝堀(うねぼり)が、口を開けています。その規模は、いかに北条側が豊臣軍に脅威を感じていたかの証しでしょう。

岱崎出丸(右の土塁下には一ノ堀)

 

敵の戦意をくじく大規模な畝堀

戦闘を前提に築いた山中城は、山田川・来光川の源流が作ったV字渓谷を利用し、東西の尾根は多くの堀で分断し防御されています。特に西からの脅威(豊臣勢)に備えた岱崎出丸の一ノ堀や西の丸・西櫓の畝堀は、見応えがあります。堀は、ひとつひとつの曲輪の周りを、敵の攻撃から守るために掘ったもの。土塁や石垣と並ぶ城の基本的な防御施設です。  西櫓(にしやぐら)の畝堀は空堀(からぼり)の中に高さ約一・八メートルの〝畝(うね)〟を掘り残し、空堀全体を十区画に区切っています。
・堀底=およそ二メートル×五メートル・堀の深さ=約九メートル・傾斜=約五十五度
今では遺構保護のために芝が張られていますが、往時は粘土質で滑りやすいローム層がむき出しの土壁になっていました。武装した兵が、とてもひとりで登りきれるものではありません。さらに水をまいたり米をまいたりしてもっと滑りやすくした、などと言い伝えられています。

尾根を利用した、急峻な西櫓の畝堀

 

後北条築城術の粋を集めた「障子堀」!

もうひとつ山中城跡を有名にしたのは、巧みな防御の仕掛けである障子堀(しょうじぼり)です。その典型が西ノ丸堀です。幅の広い中央畝から両側に向かって直角に畝を掘り残したもの。それが障子の桟(さん)に似ていることから、障子堀と呼ばれています。畝が複雑になった分、敵の動きが制御されます。急斜面に挟まれた見事に美しい幾何学模様の障子堀が目を引きます。
『渡辺水庵覚書書』によると、本丸を固めていた二百人余りの北条側の兵と、一番乗りを果たした渡辺勘兵衛を初めとする豊臣勢が激戦を繰り広げ、敵味方が入り交り、障子堀になだれ落ちたと記されています。天正十八年(一五九〇年)の秀吉の攻撃に備え増強を図った山中城は、石を使わない北条氏の築城技術の頂点ともいえます。

美しい陰影を見せる、西ノ丸の障子堀

 

山城の生命線〝水の確保〟もしっかり

尾根にある山城は水の確保が大変困難です。山中城には「田尻の池」と「箱井戸」というふたつの池があり、箱井戸は城兵用の飲料水用、田尻の池は洗い場・馬用として使われていたとみられます。
箱井戸と田尻の池の間は土塁によって分離され、排水溝によってつながれていました。これは湧水量が多く一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための智慧と考えられます。箱根山の地形を巧みに取り入れた水の確保にも、築城術の高さがうかがえます。

箱井戸

 

山城の生命は堀と土塁に!

完成度の高い堀で囲まれた山中城。掘ることで出た大量の土は、曲輪内の平坦化と土塁を築くために使われました。山中城の土塁の配置は、敵の攻撃が想定される方向を正面に、曲輪の三方を囲むコの字型が基本。敵の侵入と射撃を防ぎ、視界を遮る役目をします。

本丸北側には底幅十五メートル、高さ四・五メートルという大規模な土塁が、南を除く三方に築かれています。さすがに本丸の防御、他とはその規模が違います。西櫓にも、西からの攻撃に備えきれいなコの字型の土塁が見られますが、実際に歩いてみると、土塁からの攻撃がいかに脅威か実感できます。

 

【北の丸堀】

山城の生命は、堀と土塁にあります。堀が深く、幅が広いほど曲輪に作られる土塁が高く堅固なものとなります。 北の丸を囲むこの堀は豪快です。四百年の歳月は堀底を二メートル以上埋めていますので、築城時は今よりさらに要害を誇っていたでしょう。

城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水の無い空堀です。石垣を使えば塀の両岸はより急峻になりますが、石を使わずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとです。

北の丸堀

 

【土塁】

山中城のどの曲輪も土塁で囲まれています。石垣を使う以前の戦国時代の城は、すべて堀と土塁が築城のポイントであり、城内の何を隠すか(人・馬・槍など)で土塁の構築が考えられました。
土塁の傾斜は堀に対して急で、内部には緩やかです。このように自然の谷が眼下に迫っている所は、土塁も重厚なものではなく、土留め程度のものです。

▲土塁

 

 

 

武将・渡辺勘兵衛が書き残した史料

天正十八年(一五九〇年)三月二十九日、山中城への総攻撃では、豊臣軍は箱根街道から岱崎出丸へ突入する部隊(中村一氏隊、山内一豊隊、一柳直末隊)と、北側の鎌倉古道から西櫓を攻める部隊(家康率いる徳川勢)に分かれて一気に攻めたてました。攻撃開始からわずか半日で落城した時の様子を克明に伝える史料があります。

「渡辺水庵覚書」という書物に、驚くほど詳細な記録が出てきます。渡辺水庵は、「渡辺勘兵衛」という名の方が知られているかもしれません。一五八二年に豊臣秀吉に仕え、糠山城攻めで功があり、羽柴秀勝の家臣となり二千石を与えられました。そして四国征伐などで戦功を立てましたが、秀勝が亡くなったため、中村一氏の家臣となり三千石を与えられます。勘兵衛の名前を高めたのは、中村一氏時代の山中城攻めです。勘兵衛は、山中城の出丸の守りが弱いことに気づき、一氏に攻めを願いでます。最初はしぶった一氏でしたが、最後は根負けして勘兵衛に攻撃を任せたところ、勘兵衛は堀を越え、塀をよじ登って出丸を攻め、ついには本丸を陥落させてしまいました。山中城で一番乗りを果たしたものの、中村一氏が秀吉に勘兵衛の戦功を報告しなかったため怒って中村氏を去り、高野山に登った人です。
「…大杉によじ登ってみたら、東向きの屋形が見えて、二百人くらいの兵が槍をかかえて待機していた。あれが本丸だろうと、そちらに向かい、本丸の西側にある櫓の上と下とで槍の突き合いをしながら、大将らしき武将二人の首を捕ろうとしていたところに、搦手から来た大勢の軍勢が一気に櫓に攻めかかって、櫓を守っていた百人くらいの人間が、櫓の北と西にある角堀に押し出され、敵味方一緒になって堀に転がり込んでしまった。これでこの戦は終わってしまった。」(出典:山中城のお話)

 

 

 

山中城の落城の原因は?

半日で落城した最大の要因は、城兵四千人に対して攻城軍七万人という圧倒的な兵力差でしょう。小田原に詰めていた兵力をもう少しだけ山中、韮山といった前線に割いていれば、と後北条は悔やんだはずです。

 

多勢を誇る豊臣軍は、岱崎出丸に力攻めの攻撃を仕掛け、一方で徳川軍を駆使して山中城の真の生命線である西の丸と角馬出しを攻めさせます。勘兵衛が岱崎出丸に登った時には相手の兵が「たいしたことがない」との記載が見られますが、出丸の兵の多くが猛攻を受けた擂鉢曲輪(すりばちくるわ)の加勢に行き、出丸全体の兵力が出丸の先端に偏りすぎたと思われます。

 

岱崎出丸の陥落後、攻城軍は間髪を入れず三の丸にも猛攻を仕掛けますが、ここで攻城軍の大将格の一人、一柳直末が戦死します。しかしやがて西の丸が陥落すると、攻城軍有利へと展開します。三番目の原因は、この西の丸の陥落で、総大将・北条氏勝が城外に脱出したことです。北条氏勝は軍事上の要衝である玉縄城(たまなわじょうは相模国鎌倉郡玉縄村=現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻=にあった平山城)を死守する使命を負っていました。この大将の脱出が致命的な士気の低下を招き、落城を早める結果となりました。

 

しかし、日本の主要な攻城戦史上、稀に見る短期決着に至った敗因は、この城の根本的な構造的弱点があったとみます。敵の攻撃から城を守るには、高い城壁を築くか、深い溝を掘るかです。石で築いた城壁が石垣、土で築けば土塁、溝が堀となります。

中世(鎌倉・室町時代)の城郭は、大部分が山城でしたので、堀は水のない空堀でした。『堀切(ほりきり)』は、山上での敵の移動を阻むために、山の尾根筋を横にV字型に掘って分断した空堀です。『竪堀(たてぼり)』は、山中での移動を阻むために、山の斜面に沿って竪に掘った堀です。

四番目の原因は、北条軍が地形の険しさに依存しすぎて、竪堀をひとつも設けていなかったことです。城の東側の斜面には竪堀がなく、岱崎出丸で勘兵衛が実行できたように、敵にこの方向から侵入される可能性が高いのです。縦長の曲輪は、「防御に寄与することは少ない」ことを証明したと考えます。

(左)右の大きな墓碑が城主松田康永の墓。左三つのうち右が副将

(右)豊臣軍の先鋒一柳直末の墓

 

 

 

あとがき

山中城は、渡辺勘兵衛の記録で、鮮明にその最期の姿を辿ることができます。勘兵衛の記録に出てくる「大将と思しき人物」は、恐らく実質的な城将・松田康長その人でしょう。三の丸跡の宗閑寺境内には、岱崎出丸で戦死した北条軍の松田康長(やすなが。今の大井松田(神奈川県)近辺に根拠を持つ後北条氏の筆頭家老の松田一族)をはじめ、副将の間宮康俊(やすとし。横浜市内の笹下近辺に根拠を構えた武将)、豊臣軍の一柳直末(いちやなぎなおすえ)など両軍の武将が、それぞれの無念を秘めて眠っていることでありましょう。

 

 

 

【参考・引用文献】

■三島市教育委員会編『史跡 山中城跡』1985年(昭和60年)刊
■日本百名城 歴史と伝統をあるくガイドブック (朝日文庫) 中山 良昭
■日本100名城公式ガイドブック(歴史群像シリーズ)学研マーケティング 福代徹, 日本城郭協会
■ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり! [単行本] 大野 信長 (著), 加唐 亜紀 (著), 有沢 重雄 (著)
■知識ゼロからの日本の城入門 著者 小和田 哲男 株式会社 幻冬舎刊
■引用:山中城のお話 http://shiroyaru.web.fc2.com

 


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