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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


日本の城物語(3/4回)

23/01/2015


 

今も皇居の北桔橋門近くに残る天守台。そこに、一六五七年の明暦の大火で炎上した天守閣を、現存する「建地割図」(城の断面図)を基に、江戸城の天守閣を木造で再建しようという計画が進められている。
十万人以上の犠牲者を出した明暦の大火で江戸城が焼け落ちて、今年で約三百六十年。復興に待ったがかかった江戸城天守の再建はなるのか?

 

 

 

江戸城の始まりは…

十一世紀に秩父平氏(ちちぶへいし)一族の江戸氏が建てたと言われる館を、一四五七年に本格的な城にしたのは太田道灌だった。

「太田ドカンと破裂して、山からさいふがコロンブス、さいふの中はナイチンゲール、お山の鐘がリンカーン、お猿のおけつはマッカーサー」という言葉遊び歌があり、かつてはコロンブスらと並び称されたあの太田道灌だ。

太田道灌は主君に暗殺され、その後江戸城には関東管領(註)上杉氏の一族が入ったが、前回「山中城」で書いた後北条氏に攻め取られた。小田原の後北条氏が一五九〇年に豊臣秀吉に滅ぼされると、駿河の駿府城から徳川家康がやってきた。(註:かんとうかんれいは、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐するために設置した役職)

徳川家康が入った江戸城は、太田道灌以来の江戸城の場所だったと言われ、現在の皇居東御苑の本丸あたり。家康が天下を取ってから江戸城は大拡張工事を行い、現在の皇居を含む千代田区と中央区のほぼ全域が江戸城域だった。 江戸城の造りとは?

天守や大奥、将軍の御殿があった本丸が中心で、その東にお世継ぎなどが住んだ二の丸、その東に三の丸と、今は大部分が皇居東御苑になっている。本丸の西にご隠居の大御所が住んだ西の丸、吹上があり、今は西の丸に宮内庁と宮殿、吹上には天皇陛下のお住まいがある。西の丸の前の西の丸下が皇居前広場であり、ここまでが内堀で囲まれた内郭で、その外側に惣構えの外堀がある。

惣構えとは、城下町や家臣の屋敷なども含めた城の一番外側の防衛線だ。ここから中が城だ。江戸城では神田川、四谷、赤坂見附、虎ノ門、新橋を結ぶ線で、戦後までここには延々と外堀が続いていた。江戸城の東は隅田川で、江戸時代の初期には橋は架けられてもいなかった。

 

 

 

江戸城の造りとは?

十一世紀に秩父平氏(ちちぶへいし)一族の江戸氏が建てたと言われる館を、一四五七年に本格的な城にしたのは太田道灌だった。

「太田ドカンと破裂して、山からさいふがコロンブス、さいふの中はナイチンゲール、お山の鐘がリンカーン、お猿のおけつはマッカーサー」という言葉遊び歌があり、かつてはコロンブスらと並び称されたあの太田道灌だ。

太田道灌は主君に暗殺され、その後江戸城には関東管領(註)上杉氏の一族が入ったが、前回「山中城」で書いた後北条氏に攻め取られた。小田原の後北条氏が一五九〇年に豊臣秀吉に滅ぼされると、駿河の駿府城から徳川家康がやってきた。(註:かんとうかんれいは、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐するために設置した役職)

徳川家康が入った江戸城は、太田道灌以来の江戸城の場所だったと言われ、現在の皇居東御苑の本丸あたり。家康が天下を取ってから江戸城は大拡張工事を行い、現在の皇居を含む千代田区と中央区のほぼ全域が江戸城域だった。

江戸城惣構えの図

 

 

 

江戸城の天守とは?

徳川家康が造った慶長度天守、それを壊して二代将軍秀忠が造った元和度天守、さらにそれを壊して三代将軍家光が造った寛永度天守の三つの天守が造られた。これらの天守は、江戸時代二百六十年の最初の五十年間、江戸の空に聳(そび)えていた。

一六三八年(寛永十五年)に徳川家光公がつくった「寛永度の天守」については、設計図の基になる一枚の「建地割図」が遺されている。それによると、寛永度天守の高さは四十五メートル、天守台の高さは十四メートルなので、合わせて五十九メートル、現在の二十階建てのビルに相当する巨大さだった。豊臣秀吉の大阪城天守は三十メートルほど、現存する姫路城天守が三十一メートルほどの高さで、天守の面積となると、寛永度天守は、姫路城の約二倍、体積は約三倍という圧倒的な大きさだった。

木造建築でこれ以上の高さの天守は不可能と言う江戸城寛永度天守は、日本の城郭建築の最高到達点であり、時代を画した江戸芸術文化の全作品の中でも、最高傑作のひとつだったという見方もある。

寛永度天守は一六三八年(寛永十五年)に江戸城建設工事の総仕上げとして造られたが、一六五七年(明暦三年)の明暦の大火で焼失し、江戸市街の大部分も焼け落ち、江戸の総人口五十万人のうち十万人が死亡したとも言われる。

焼失後すぐに再建に取りかかり、天守台の石垣は加賀藩前田家の寄進で造られた。その台座がいまも残されている。しかし天守の再建は当時の将軍後見役で、家光の異母弟、会津藩主の保科正之が「被災した人たちの救済と江戸の街の再建が先であり、いまは天守再建の時にあらず」と宣言して、築城工事が見送られた。保科正之は、「すでに戦国の世は遠く、もはや天守によって幕府が天下を威嚇する時代ではない」と判断したのだろう。

江府御天守図(寛永度天守図面)

 

 

 

江戸城にある江戸時代のもの

まず現存する内郭の石垣は殆どが江戸時代のままだ。櫓は三重の富士見櫓、二重の伏見櫓と巽櫓が残存する。いずれも小さなお城の天守ほどの大きさだ。門は田安門、清水門、桜田門が江戸時代のままで国の重要文化財に指定されている。ほかにも平河門、桔梗門(内桜田門)、坂下門、大手門、半蔵門などは門の建物が全部または一部残っている。石垣だけであれば赤坂見附門、四谷門、牛込門など外堀の門でも一部が残り、その他建物や土塁、石垣は多数残って今でも目にすることができる。

現在の建築基準法では木造建築は三階建てまでしか認められないので、特別許可が必要になる。果たして、目標の夏期東京オリンピック開催の二〇二〇年までに、江戸城寛永度天守の再建は実現するのか。賛否両論あるが、設計図の元が残っているので、私は賛成に回りたい。

 

 

 

 

豊臣秀吉が天下統一の拠点として築城した初代大坂城は、「三国無双の城」と讃えられる豪壮華麗な城であったと伝えられる。しかし、一六一五年の大坂夏の陣で豊臣方が敗れた後、徳川幕府により豊臣大坂城を覆い隠すように徳川大坂城が築かれて以来、初代大坂城は今も地下に眠り続けている。

 

 

 

豊臣大坂城誕生へ

織田信長亡き後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、一五八三年に賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦でライバル柴田勝家を滅ぼし、信長の後継者としての地位を固めた。そこで秀吉は、信長の後継者にふさわしい大城郭の建設に着手した。それが豊臣大坂城だ。

大坂城の普請中に秀吉に案内された大友宗麟(坊主でキリシタンで生臭という豊後の武将)は、大坂城を三国無双(さんごくぶそう=日本・中国・インドの三つの国を通じて並ぶものがないこと)と称えた。

石山本願寺跡の台地に石垣を積んで築かれた本丸部分は二年程でほぼ完成し、巧妙な防衛機能が施された。ルイス・フロイスというポルトガル人宣教師の記録には「最初は二~三万人の労働者をもって工事を始めたが、完成を急ぎ月々五万ほどの人が工事に従事した」と残されており、かなりの大規模工事であったことが想像される。

外観は五重(内部は九階)の総瓦葺き、壁面の下半分が板張りの黒漆塗り、上半分が灰墨を混ぜた鼠漆喰(ねずみしっくい)だった。全体的に黒っぽい建物にしたのは、飾り付けた金箔を引き立たせるためともいわれる。
秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、惣構えが建設され、三重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は、絵画史料では外観五層で、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに用いた姿で描かれている。

(左)大坂冬の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城天守の簡略模写

(右)大坂夏の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城天守

 

秀吉の大坂城は、その後も二の丸、三の丸(惣構え)と一五九八年に亡くなるまで拡張された。

つゆと落ち つゆときへにし わが身かな
なにわの事も ゆめのまたゆめ


(豊臣秀吉辞世の句)

 

 

 

徳川大坂城誕生へ

関ヶ原の合戦(一六〇〇年)で天下を手にした徳川家康が、一六〇三年(慶長八年)に江戸に徳川幕府を開いた後も、秀吉の遺児秀頼が難攻不落の大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していた。そして淀君もいた。

家康の挑発に乗り挙兵した豊臣方は、豊臣秀頼とその母・淀殿をリーダーとし、現役の大名こそ誰も味方しなかったが、所領を失った大名や浪人を集め大坂城に立て籠った。一六一四年(慶長十九年)の大坂冬の陣だ。その数、およそ十万人。この戦いでは大坂城があまりに堅固で勝敗がつかず講和に至ったが、徳川家の謀略で大坂城の堀はほとんど埋められてしまう。その講和で、惣構え・三の丸・二の丸の完全取り壊しが取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされた。ところが、秀頼が試みた堀の再建が講和条件破棄とみなされ、冬の陣から四ヵ月後の一六一五年(慶長二十年)、大坂夏の陣で大坂城は落城。豊臣氏は滅亡し、秀吉の大坂城は燃え落ちた。

一六二〇年、大坂城は徳川家の直轄地となり、城の大~~大改修が始まった。足掛け十一年で一六三〇年に完成した。

徳川の力を見せつけ、城のカタチを変えたのは豊臣の封印であり、徳川が如何に秀吉大坂城のイメージを払拭するか、これが、徳川大坂城築城の大テーマであった。

 

■日本一の高石垣

総奉行には、築城の名手・藤堂高虎を任じ、高虎得意の高石垣で、曲輪をくるむことと、本丸に盛り土をし、豊臣期の本丸をすべて覆い隠し、埋めてしまう。まさに…破城そのものだ。

そして、豊臣大坂城の石垣の高さを二倍に、濠の深さも二倍にし、拡張された。数ある城の中で、大坂城の高石垣の高さは江戸城すら凌駕した。徳川大坂城の石垣では、巨石も使用して、石垣技術もみせつけた。

 

■漆黒の天守から白亜の天守へ

加えて、北東隅にあった天守は、北西に独立天守台を設け、石垣含めて高さ五十八メートルにも達する天守へと姿を変えた。高さ五十九メートルの江戸城寛永度天守並にし、高さ四十メートル弱の豊臣大坂城天守をはるかにしのいでいる。

天守外観は、徳川天守の定番の五層五階の層塔型で、ここまで大きくできたのは、やはり藤堂高虎発案の層塔型天守に負う所が大きい。

豊臣時代の大坂城はすべて埋め立てられ、今までより小高くなった城地に石垣を積み上げ、秀吉の築いた天守よりもさらに高い天守を築きあげた。

城の建設には、西日本の諸大名が「お手伝い」としてかりだされた。家来として築城に参加し、大きな石を積み上げたり難工事現場を請け負って、幕府にポイント稼ぎをした。

この城が現在の大坂城だが、天守は一六六五年に落雷で焼失した。江戸時代には再建されることはなかった。

現在の大坂城には、ほとんど秀吉時代の遺構が残っていない。一九五〇年(昭和三十五年)の掘削調査でその事実が明らかになったが、秀吉の大坂城は、現在の大坂城の下、つまり地中深くに埋まっていた。

来年は大坂夏の陣から四〇〇年。掘削で確認できた地下に眠る太閤秀吉はんの大坂城の石垣の片りんを覗きに来る人も増えそうだ。

徳川天守閣と豊臣天守閣の比較図

 

 

 

 

小説家の司馬遼太郎が紀行文集『街道をゆく - 北のまほろば』で、「日本七名城のひとつ」と紹介した弘前城。江戸時代には弘前藩津軽氏四万七千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭から構成された梯郭式平山城(ていかくしきひらやまじろ)である。平山城とは平野の中にある山、丘陵等に築城された城のことである。

 

 

 

安土桃山時代の歴史

一五九〇年(天正十八年)、南部氏(「なんぶし」は陸奥の武家)に臣従していた大浦為信は、小田原征伐の際に豊臣秀吉から南部氏に先駆けて四万五千石の所領安堵の朱印状を受ける。そして大浦を津軽と改姓した。津軽為信(ためのぶ)は、江戸時代前期にかけての武将、大名。陸奥弘前藩初代藩主である。

一五九四年(文禄三年)、為信、堀越城(弘前市堀越)を築き大浦城より移る。しかし、軍事に不向きとして新城の候補地を鷹岡(現在の弘前城の地)に選定した。

一六〇九年(慶長十四年)には先代より整備が始まっていた鷹岡城(別名高岡城。のちに城名が弘前城となる)築城の正式許可が下りる。これを受け、五万石に満たない大名としては破格の五層の大天守を持つ城郭を、着工から一年二ヵ月という早さで一六一一年(慶長十六年)構築した。これは、幕府が北辺警備の都合も考慮して大城郭築城を許可したともいわれる。

津軽統一を成し遂げた津軽氏が完成させた弘前城は、津軽氏の居城として廃藩に到るまでの約二百六十年間、津軽藩政の中心地として使用された。三層の天守を初めとする城門、櫓(やぐら)など江戸時代当時の建造物が今も数多く残り、城域もほぼ往事の範囲で保存される貴重な遺構である。

 

 

 

初代天守とは…

最初の天守は、弘前藩二代藩主の津軽信枚(のぶひら)により一六〇九年(慶長十四年)頃に本丸南西隅に建てられた五重の建物だ。内部六階と推定される建築は東北地方では若松城天守に次ぐものであった。

しかし一六二七年(寛永四年)九月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して(四重目に吊るされていた釣鐘が落下して下層に収納してあった火薬に引火したとも伝えられる)大爆発を起こし、本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。天守は再建されることなく、今でも天守台を支えていた石垣は本丸南西隅に聳えている。

なおこの天守火災は当時、藩主・信枚の伯母で、横内城城主で南部氏一族の夫・堤禅正左衛門から離縁され失意の内に病没した、初代津軽為信の正室・阿保良の姉の祟りだと信じられていた。

 

 

 

二回目の天守(御三階櫓)

本丸唯一の現存建築である天守は層塔型三重三階の建物だ。現在は独立式だが、往時は北側に多聞櫓が付いた複合式であった。この多聞櫓は明治二十九年(一八九六年)ごろまでに破却された。天守の高さは約十四・四メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い。

一六二七年(寛永四年)に焼失した五重天守の代用として、またロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられ、一八一一年(文化八年)に竣工した。

往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持つ。昭和二十四年(一九四九年)に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する現存天守でもある。

弘前城 冬の御三階櫓

 

 

 

天守の“お引っ越し”でござりまする

約二六〇〇本の桜の木が、毎年鮮やかに咲きそろう弘前公園。その桜の名所に立つ弘前城は、全国十二ヵ所の現存天守のうち、関東以北では唯一の天守を持つ。その天守が〝お引っ越し〟をする。

弘前城の櫻

 

弘前城は津軽地方では唯一の石垣を使った本格的な近世城郭だが、石垣が外側に膨らむ「はらみ」が目立ち、大地震などが発生した場合の崩落の危険性が指摘されてきた。天守台南面約十メートル、東面約百メートルの範囲で石垣修理を行う。

来年夏頃に曳家(ひきや)工法で、現在の天守の位置から北西に七十メートル移動が始まる。再び元の場所に戻るのは、早くて五年後だ。天守の曳家は、石垣が崩落した明治末~大正初め以来となり、今回はまさに百年ぶりの大修理だ。

曳家とは、建築物をそのままの状態で移動する建築工法で、曳舞ともいう。建物に希少性がある場合に限られる。二〇一一年に築城四百年祭を盛大に祝った弘前城天守の移動に、市側も、天守が移動する先が岩木山が背景となるよう工夫を凝らす。

十六年からは本格的な石垣の解体修理工事に入るが、配置通りに石垣を組み直す根気の要る修理工事は十年前後の長期となる。

東北地方で唯一の現存天守の移動と石垣の解体・修理は、現代を生きるわれわれには、「今世」でしか見ることのできない貴重な機会となる。(了)

弘前城天守引っ越し曳屋工事

 

 

主な参考・引用文献

『群雲、賤ヶ岳へ』岳宏一郎 光文社文庫
『江戸幕府事典』 竹内誠編 東京堂出版 2003 但し異説もある
宮上茂隆 「徳川家康創建江戸城天守の復元」 日本建築学会 1990年
http://npo-edojo.org/edo_castle/ques.php
『江戸城史-増補 東京城史-』 伴三千雄著 名著出版 1974
平井聖・松岡俊郎ほか執筆『江戸城』学習研究社 1995年
『大坂城』学習研究社、1994年
『復元大系日本の城5 近畿』ぎょうせい、1992年
中村博司『天下統一の城 大坂城』新泉社、2008年
『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年、10-12頁
大坂城豊臣石垣公開プロジェクト ホームページ

 


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