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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


鉄道王雨敬

31/10/2015


 

 

はじめに

 

♬汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として

 

日本に鉄道が開設されたのは、明治五年十月十四日。新橋~横浜間である。雨宮敬次郎が故郷・甲州から横浜に出た翌年である。建設技術はすべて英国人に頼ったのだが、わずか二十九キロに二年以上もかかった。横浜の英字紙は「インドより工事が遅いのはどうしたわけだ?」と、噛みついた。この十月十四日が日本の鉄道記念日となった。 十月十二日には、天皇の行幸を仰いで、盛大な開業式が新橋と横浜駅で行われた。明治天皇は横浜駅での式典で次のような勅語を下賜されている。

 

「今般(こんぱん)、我が国鉄道の首線工竣(な=終わる)るを告(つ)ぐ。朕(ちん)親(みずか)ら開行し其(その)便利を欣(よろこ)ぶ。嗚呼(ああ)汝(なんじ)百官(ひゃっかんー多くの役人)此(この)盛業(せいぎょう=盛大な事業)を百事(ひゃくじ=万事の事)維新の初めに起こし、此(この)鴻利(こうり)を万民永享(ばんみんえいきょう)の後に恵(めぐ)まんとす。(中略) 朕(ちん)我国の富盛(ふせい)を期し、百官万民の為(ため)之(これ)を祝す。朕更に此業を拡張し此線をして全国に蔓布(まんぷ)せしめんことを庶幾(しょき=こいねがう)す。東京横浜間の鉄道、朕(ちん)親(みずか)ら開行(かいぎょう)す。自今(じこん=以後)此(この)便利により貿易愈(いよいよ)繁昌庶民益(ますます)富盛(ふせい)に至らんことを望む」

 

/>新聞報道された天皇のお言葉から、これからの日本の文明開化の鍵は鉄道交通にありと確信したのが、二十七才の青年雨宮敬次郎であった。雨宮は初めて見る陸(おか)蒸気(汽車)に驚きの目を見張った。一八七六(明治九)年には、三十一才でアメリカ大陸横断の鉄道の旅に出て、日本の文明を開くのは鉄道であることを胸に秘め、鉄道起業に夢をかけた。

 

 

 

 

 

雨宮敬次郎は一八四六(弘化三)年、甲斐国山梨郡牛奥村(現・甲州市)の名主の家に生れる。

十四歳のとき、商人を志して行商生活に入り、成年になるまでに一財産を築いたという。甲州財閥の一翼を担った実業家。行商から身を起こし、両替商など各種の事業で成功をおさめる。

地元よりも江戸や開港後の横浜に注目し、一八七二(明治五)年頃に横浜に転居。一八七六年から欧米を外遊し、近代国家が投資すべき産業は、鉄道、製鉄、水道といった社会基盤だと認識を深める。

一八七九(明治十二)年、東京深川で興した蒸気力による製粉工場が成功。一八八八(明治二十一)年に甲武鉄道の取締役となる。以後、川越鉄道(現・西武国分寺線)の取締役、一八九三(明治二十六)年、北海道炭礦鉄道の取締役に就任、大師電気鉄道(後の京浜急行電鉄)の発起人となる。

以下の略暦は割愛する。

一九一一(明治四十四)年に六十四歳で逝去。

 

 

 

雨宮が最初に乗り出した鉄道経営が、一八八七年に設立された甲武鉄道。翌年の一八八八(明治二十一)年に甲武鉄道に出資し、筆頭株主として実権を握った。

この甲武鉄道構想は、羽村(はむら=羽村・日原は石灰岩の産地。日原の鍾乳洞は石灰岩の中にできた鍾乳洞)から青梅に至り、多摩や山梨などからの、丸太や石灰石などの特産物を東京に輸送する役割を持って開業された路線と、砂川(立川)で分岐して八王子に至る線であった。

甲斐国(現・山梨県)と武蔵国(現・東京都)を結ぶ目的で計画されたので、国名の頭文字を取って「甲武鉄道」といかめしい名前となった。

当初、羽村(当時・神奈川県西多摩郡)から四谷大木戸(現・新宿区)間を玉川上水通船に代わって「甲武馬車鉄道」として馬車を走らせる計画を立てていた。玉川上水沿いなら整地済みで、路線工事が容易だったからであるが、江戸庶民の家庭用水路沿いが「不潔になる」と、不許可となった。

申請から三年後の、明治十九年十一月十日付けで認可を得たが、その路線は内藤新宿から八王子の間であった。日本で初めて鉄道条例ができて、民間に鉄道を許可した年だった。一八八九(明治二十二)年四月に新宿~立川、八月には立川~八王子を開業した。

 

 

 

数多くの地方鉄道を育てたのも、雨宮らしい社会事業家としての揺るがぬ信念に基づくもので、国のため世のためという、雨宮独特のスローガンで鉄道会社を興していった。

雨宮が起こした鉄道網は北海道から九州に及び、明治の鉄道交通史の中でも、軽便鉄道王としての偉大な業績が光を放っている。その鉄道敷設は並々ならぬものであった。地方鉄道沿線の殆どがひなびた農山村であり、煤煙による農作物への公害などによる反対や妨害はすさまじいものがあったが、雨宮はこれらの人々に百年後の繁栄と夢を口説き約束した。

「貧乏百姓をしなくても、きっと豊かな生活ができる町に一変する。土地は値上がりして百姓大尽になれる」と説得した。

しかし、雨宮が手掛けた甲武鉄道の中央沿線も、枝線の川越鉄道、青梅鉄道から全国の軽便鉄道にしても住民の心配は共通するものがあった。

●汽車が通るようになると、汽車の火の粉が飛んで藁ぶき屋根は火事になる。
●桑畑に煤煙がかかると蚕に害になり、或いは黒い繭ができる。
●汽車を見に行ったら子供が轢かれる。
●沿線の畑仕事は、汽車を見るのが楽しくて仕事ができない。

これらの反対意見が鉄道建設反対運動につながったが、その説得に雨宮は大変苦労した。

手を焼いた甲武鉄道は、「路線はどこを通ってもいいから、とにかく何が何でも敷設しろ」と、別のルートを模索したりもした。社内の空気も、「青梅街道や甲州街道以外の場所に陸蒸気(おかじょうき)を走らせてもお客はない、キツネやタヌキは蒸気には乗らない」…と冷淡だった。

業を煮やした工事担当の鉄道局技師・仙石貢(せんごくみつぐ 後の鉄道大臣)は、中野~立川間の地図上に、「エイー」とばかりに『赤い線』を一気に引っ張って(旧国鉄の伝承話)、現在の中野~立川間を一直線に走る線路ができたと言われる。

しかし、特に雨宮が鉄道建設した全国の各市町村は駅を中心に大きく発展し、北は北海道から南の九州に至るまで、雨宮敬次郎によって富んだ都市は数知れない。雨宮の残した鉄道の偉業は日本中を股にかけた社会事業として実行された。

 

 

 

こんな雨宮の回顧談を引用しておこう。(『過去六十年事蹟』)

其の後、新宿から八王子までではどうも宜しくないので、今の大久保駅から市ヶ谷の監獄署前を通り、市谷門から陸軍の野原だった三崎町へも敷こうという考えを起こして、これを言い出したところ中々株主が承知しない。

時に、桂太郎、川上操六の両将軍が私の開墾地ヘ来て泊まって、ある夜火鉢にあたって種々の話をしていった。ところで、私が、「三崎町の錬兵場を貸して下さいませんか」と言うと、川上さんが
「お前は何処を通す積もりだ」と言うから「市ケ谷の監獄署の前から市ケ谷見附へ付けて、土手を通って来て彼方へやる考えです」と言った。
ところが、川上さんの言うには、「それは、行かぬ。それよりか東京には今軍事停車場というものが無い。戦争の時の停車場で私は困っている。ついては、青山の錬兵場、あそこへ新宿から持って来れば、陸軍省は十分保護してやるがどうする」とこう言うことを川上さんが言われた。
「それは損です。(中略)谷町を通って架ければ片方が四谷で一方が牛込、其の間を通るんだから、乗客が多くて金が余計取れる。青山へ廻れば大変な損になるから…(後略)」と言った。


そもそも鉄道の都心乗り入れ構想の震源地は陸軍だった。
当時、神田区三崎町には東京砲兵工廠という兵器工場があり、陸軍の大山巌が新宿~東京砲兵工廠までの線路を日本鉄道に依頼したが、日本鉄道がこれを断わった。

この情報を掴んだ甲武鉄道は都心乗り入れに渡りに船とばかりに新宿~東京砲兵工廠路線を構想し、終着駅を東京砲兵工廠のある三崎町としたのが、甲武鉄道・新宿~三崎町間市街線計画の始まりだった。

しかし、突然大きな問題がふりかかった。
陸軍は、突如一八九〇(明治二十三)年の三崎町錬兵場を三菱財閥岩崎家に払い下げてしまった。

この後、三崎町陸軍錬兵場(錬兵場とは軍隊を訓練する場所)が、丸の内錬兵場とともに払い下げられると、三崎町および周辺は三崎町ニュータウンとして開発された。明治、大正を通じた人気の〝三崎座〟〝川上座〟〝東京座〟の「三崎三座」と呼ばれる芝居小屋もでき、街も芝居小屋も活況を呈した。 そこへ起きたのが一九二三(大正十二)年九月一日の関東大震災。三崎町も東京砲兵工廠も甚大な被害を受け、翌大正十三年、三菱財閥は土地売却を決定。東京砲兵工廠も一九三五年小倉工廠へ移転。因みに、東京砲兵工廠跡地は「小石川植物園」「東京ドーム」「ドームホテル」などになった。

終着駅予定であった三崎町の陸軍錬兵場がなくなり、甲武鉄道の終点のない迷走路線と化した。さらに一八九二(明治二十五)年六月二十一日に制定された「鉄道施設法」施行で、有力な私鉄経営企業として認められた一方で、「終着駅がなくなったことを理由に」軽々に計画を中止できない重い責任を負わされてしまった。

ここで感心するのは、半官半民の日本鉄道でさえ、当時の都心中心部(銀座・日本橋・浅草界隈)をさけて渋谷、新宿という田園地帯にやむなく路線を敷設した時代に、日本鉄道の傘下で弱小私鉄の甲武鉄道が都心乗り入れを画策していたことと、その発案が、新宿~八王子間開通以前だったとことから、如何に甲武鉄道の野望が大きかったかを我々は知るのである。

実際に一八八九(明治二十二)年八月、新宿-八王子全通の二ヵ月前に、新宿-神田区三崎町(現・千代区神田三崎町)間の免許を申請していた。

 

 

 

 

二進も三進もいかない甲武鉄道は、陸軍参謀次長・川上操六に相談を持ちかけた。その川上の回答に対する雨宮の回顧談だ。(『過去六十年事蹟』)

そこで、また川上さんの言われるには、「君の方でもそれは損だろう。けれども幾らか君も国家という思想のある人間ならば、損得には拘わらず国家有事の場合を思い、軍事停車場にしておいた方が宜しかろう」。
とこういう訳で、そういうことならまあ測量をしてみて決心しようと、そこで測量をさせてみたところが、線路が丁度赤坂御所と学習院へぶつかった。これは良い抜け道ができた。川上さんの方へ謝罪するにも良い口実が出来たと思って、早速出掛けて行って、「御意見通りに致しますと、どうしても御所の下か学習院の下へ墜道を作らなければなりませぬ。それでは仕様がないだろうと思います。良い考えがありますなら」と言った。
すると、川上さんが「そういうことなら、宜しい。きっと架けさせてやる」と言うので、御上にお願いしてとうとうそれで以て御所の一部分へ墜道(トンネル)を架けることになった。


つまり、陸軍は三崎錬兵場の代替地としての青山錬兵場(現・国立競技場周辺)に路線を引く意向を伝えたのである。

 

 

 

 

この青山錬兵場の地は青山常盤介忠成の屋敷があった場所で、明治になって屋敷跡の大半は青山墓地となったが、残りの草地の一部に明治十九年、日比谷錬兵場に代わる新錬兵場として近衛・第一両師団に所属する部隊の教連場となる青山錬兵場が作られた。 あの三菱に払い下げられた丸の内軍用地の一部である日比谷練兵場は後に日比谷公園、駒場錬兵場は現・東大教養学部、代々木練兵場は現・代々木公園となる。

当時の記述にこの青山錬兵場の位置が「赤坂区の西北隅に在りて、東は青山御所に沿ひ、西は四谷霞岳町と豊多摩郡原宿村に連なり、南は青山北町に接し、北は甲武鉄道線路」とある。

地図を見ればたしかに青山家の北の本家が錬兵場に、南の分家が青山墓地となったことが判る。

航空写真は、現在の信濃町駅と千駄ヶ谷駅周辺を撮ったもので、現在の中央線が走っているので、慶応義塾大学病院の病院棟の位置もわかる。この慶應病院も元々は青山軍用地の一部だった。このような歴史を後世に残した青山錬兵場に鉄道を通すことで、軍部は利便性を図った。

川上操六も、青山錬兵場に線路を通したい一方で、終点三崎町の約束を反古にした後ろめたさもあって、硬軟両様の作戦に出た。

甲武鉄道も、都心乗り入れと終着駅の確保という一石二鳥の構想の実現が可能になると考え、新宿から南回りの青山錬兵場経由終着駅三崎町というルート案が計画され、一八九二(明治二十五)年三月「路線一部変更願」が提出された。
こうして迷走・甲武鉄道問題は「一件落着」した。

雨宮率いる甲武鉄道は新宿からの開業を予定より早く果たしたが、一八九四(明治二十七)年八月一日の清との宣戦布告(日清戦争)に先立ち青山錬兵場に甲武鉄道乗り入れを図るため、現在の千駄ヶ谷駅と信濃町駅の間の神宮外苑辺りに突貫作業で一八九四年九月十七日青山軍用停車場を開業させ九月二十三日から軍隊輸送を開始したためだった。

紆余曲折あって、一八九四年十月九日、信濃町駅、四ッ谷駅、牛込駅が、東京駅より百二十年も早く開業し、新宿-牛込間の開通で、甲武鉄道の都心乗り入れの野望の第一歩が記された。

 

 

 

 

明治三十六年に中央線が甲府まで開通したさいに、雨宮が地元まで鉄道を引くことを約束したと言われ、事実、八王子から西への中央本線はほぼ甲州街道(国道二十号線)に沿って走るが、甲斐大和駅から急に甲州街道を離れ北上し甲州市を通って再び石和温泉駅周辺で甲州街道付近に戻り甲府に向っているのは、この雨宮の政治力と言われている。

 

 

 

明治の実業界を動かし、中央線に鉄道を走らせた雨宮敬次郎。「天下の雨敬」とよばれ、「政治の伊藤博文、金の安田善次郎」とともに「事業の雨宮敬次郎」として明治の三傑にあげられた。

雨宮が、結核の療養のために訪れた熱海。東海道線国府津からの人力車道が、病人には相当な辛苦な道であったことから熱海への鉄道の敷設を考える。「事業」の裏には、いつも「人のため」があった。
〝自分のやった事業が末代まで続けば、魂がとどまるから、自分は永久に死なない〟と(『鉄道王 雨宮敬次郎 ど根性一代』東洋出版)。 今日も明日も、雨宮鉄道は、日本全国を走る。(おわり)

 

 

引用文献:

鉄道王 雨宮敬次郎 ど根性一代 小林和夫著 東洋出版(株) 参考文献:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E5%AE%AE%E6%95%AC%E6%AC%A1%E9%83%8E http://ktymtskz.my.coocan.jp/amamiya/amemiya.htm
過去六十年事蹟
http://www.suginamigaku.org/2014/10/1.html
幻の東京赤煉瓦駅 (平凡社新書) – 中西 隆紀 (著)
過去六十年事蹟 (昭和14年) – 雨宮 敬次郎 (著)
中村建治 『中央線誕生 - 甲武鉄道の開業に賭けた挑戦者たち』 本の風景社、2003年8月。ISBN 978-4-925187-31-2。
『近代を耕した明治の起業家・雨宮敬次郎』 三輪正弘 編、信毎書籍出版センター、2003年。ISBN 4-88411-025-0。


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