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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


キリシタンの夢を叶え続けた

29/10/2016


 

いま、確実な鼓動を感じる世界遺産登録への動きが出てきた。この九月一日に新しい名称にして、平成三十年に世界遺産への登録を目指す「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」だ。国の文化審議会で国内候補として推薦が決まった。来年一月には、政府の閣議了解を得て、ユネスコに推薦書を提出する。これを受けて、来年九月か十月には、ユネスコ世界遺産委員会諮問機関のイコモスによる現地調査が行われる。これが実現すれば、足かけ十年を超す努力と夢が実ることになる。


長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成資産のトップには、本誌特集日本の城シリーズで、小生が取り上げた原城がトップに入っている。


1 原城跡
2 平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
3 平戸の聖地と集落(中江ノ島)
4 天草の﨑津集落
5 外海の出津集落
6 外海の大野集落
7 野崎島の集落跡
8 頭ヶ島の集落
9 奈留島の江上集落
10 久賀島の集落
11 黒島の集落

 

12 大浦天主堂


文化庁の最新の宗教年鑑によると、都道府県別にみたキリスト教会の数では、東京の八百六十六堂がトップ、長崎は十八位で百二十一堂である。しかし、都道府県ごとのキリスト教信者数の一位は東京都(八十六万六千七百二十一人)だが、これは人口が多いから。二位には、長崎県(五万九千六百四十五人)が上がってくる。


鉄川 与助(てつかわ よすけ)は、長崎県を中心に多くのカトリックの教会堂建築を手がけた、長崎県南松浦郡魚目村(現新上五島町)出身の棟梁であり、建築家である。


一八七九年(明治十二年)、長崎県五島列島の中通島で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれた鉄川与助は、有川高等小学校卒業後、家業を手伝う。十七歳で一人前の大工となるが、知識欲、吸収力ともに旺盛で、当時外国人宣教師指導のもとに長崎の各地に建てられていた教会堂建築に強い興味をいだく。長崎のキリシタン事情を紹介すれば、鉄川が活躍した時代背景が理解できる。

 

 

 

 五島潜伏キリシタン弾圧小史 

 

フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した翌年の一五五〇年(天文十九年)に、肥前の平戸で布教が開始された。一五六三年(永禄六年)に、最初のキリシタン大名が誕生すると、五島列島にキリスト教が伝えられ、一五六七年(永禄十年)に、後に五島藩主となった宇久純尭(すみたか)も洗礼を受けキリシタンとな


しかし、キリスト教に対する幕府の手は緩められることはなかった。一六三三年の第一次鎖国令の後、一六三九年(寛永十六年)の第五次鎖国令で鎖国体制を完成させた。宗門改めもいっそう制度化され、一六七一年(寛文十一年)には「宗門人別改め帳」の作成を布達し、一六八七年(貞享四年)には「キリシタン類族令」を布達した。


幕府によるキリスト教包囲網が完成してくると、キリシタンの取る道は「殉教」か「隠れキリシタン」として生きるかのどちらかとなる。大村藩の農民が五島の福江島へ集団移住した一七七二年(安永元年)を皮切りに、その後二回行われた


一七九七年(寛政九年)には五島藩主の五島盛運(もりゆき)が大村領の領民を土地開拓者として移住させるようにと大村藩主・大村純鎮(もりやす)に要請し、外海(そとめ)地方から百八人が楠原などに移住した。移住者には開拓地が与えられることが分かると、その後も移住者が続き、その数は三千人に達したという。そのほとんどは潜伏キリシタンであったと言われる。海の向こうの五島が、自由な信仰と希望のある生活場所と見えたのかもしれない。


十八世紀後半に大村から五島へ移住が繰り返されたのは、「隠れキリシタン」として生きることにも危険が出てきたからだった。「五島へ五島へ皆行きたがる。五島やさしや土地までも」と謳われた五島だが、いざ暮らした憧れの土地は「五島極楽行ってみて地獄、二度と行くまいあの島へ」と歌詞が変わったほど、厳しい生活を強いられた。


「長崎本土の大村藩外海地方から五島列島(五島藩)に移住したキリシタンは、多くが地百姓(農家)であったといわる。五島に移住しても漁業権をもらえなかったので、生業は農業になる。厳しい斜面地を開墾して段畑を造り、そこで主には甘藷(さつまいも)を作っていた。キリシタンたちの主食はこの「イモ」であったと考えている」
(取材協力:新上五島町教育委員会 文化財課 (世界遺産推進室) 高橋弘一 係長


天領の浦上村(現・長崎市)で一七九〇年に起きた「浦上崩れ」は、一八五六年までに三回に及んだ。「崩れ」とは検挙のことだが、このキリシタンへの弾圧事件は、密告によって引き起こされた。住み慣れた場所で生活し続けることは危険と隣り合わせになった。こうして、五島への移住を選んでも、表立った信仰生活は不可能で、仏教徒を装って静かに暮らさねばならなかった。


江戸時代末期の慶応三年(一八六七年十一月九日)に江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上した政治事件が大政奉還である。これで江戸幕府が瓦解すると、新政府の方針として一八六八年四月に「五榜(ごぼう)の立札」が発表され、第三札には「キリシタン邪宗門の禁止」が定められていた。


五島の久賀島では二百人余りが「牢屋の搾」と呼ばれる迫害を受け、四十二名が殉教したのも、明治元年だった。一畳に十七人という過酷な状態で八ヵ月も立ったまま閉じ込められ幼い子供も犠牲になった。これが「五島崩れ」と呼ばれる迫害の発端になった。鉄川が生まれる九年前の一八七〇年(明治三年)には、中通島の鯛ノ浦で「六人切り事件」が起きた。


各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議した。一方、日本国内では森有礼のように禁教政策継続の難しさを訴える人もでたが、政府内の保守派は「神道が国教である以上、異国の宗教を排除するのは当然である」と主張し、禁教令撤廃に強硬に反対する人たちもいた。しかし、日本政府は、諸外国との友好関係を優先させ、一八七三年(明治六年)、キリシタン禁制の高札は撤去され、浦上四番崩れで流罪となった人たちはようやく釈放されて、浦上に帰り、一八七九年(明治十二年)には浦上教会堂を建てた。この間、流罪とされた人の数は三千三百九十四名であり、そのうち六百六十二名が命を落とした。

 

 

 師となる人との出会い 

 

こういう背景の中に、鉄川が、一八七九年(明治十二年)、五島列島の中通島で生を受けたの


明治政府が信仰の自由を認めると、五島にも宣教師たちが来島してきた。福江市奥浦町の堂崎教会は、来島したフランス人宣教師マルマン神父が明 治十二年木製の仮聖堂を建てた。その後、着任したアルベール・シャルル・アルセーヌ・ペリュー神父が明治四十一年に建て替え、五島最古の洋風建設として昭和四十九年有形文化財に指定された。


一八九九年(明治三十二年)、二十歳の時に魚目村に曽根教会堂が建設された際、鉄川は野原棟梁と出会う。野原はペリュー神父の指導のもとで、当時数少ない教会堂建築を手掛ける大工であった。鉄川にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積んだ。また、ペリュー神父から非凡な建築能力を認められた。鉄川の心が躍っていくのがわかる。その頃の五島列島は、信者たちが教会堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、鉄川は教会堂建築に傾斜していく。
鉄川はペリュー神父から西洋建築の手ほどきを受けて、田平教会のリブ・ヴォールト(Rib vault)天井の建築方法を学び、幾何学についての教えを受け、野原棟梁のもとで教会堂を建築していくなか、一九〇六年(明治三十九年)二十七歳のときに家業を相続し鉄川組を編成した。

 

 

 リブ・ヴォールト 

 

鉄川が学び取ったリブ・ヴォールト天井とは、それぞれの柱が上に伸び、肋骨のような構造で天井を支えるという様式。教会にふさわしい荘厳な雰囲気がつくられる。


リブとは、板などの強度を増すための補強材のこと。リブ・ヴォールトは、横断アーチとその対角線のアーチをリブ(写真左の赤矢印)とし、天井部分の軽量化が可能で、後期ロマネスク建築で使用が認められるが、特にゴシック建築で決定的な空間の特徴のひとつとなった。


二十八歳で鉄川は初めて自分自身の設計施行で、五島の冷水(ひやみず)教会(木造)を建て


高等小学校しか出ていない鉄川は、日本建築学会主催の講習会には欠かさず上京して参加、会場の受付担当者からは「いつも一番乗りの長崎の人」と顔を覚えられる熱心さだった。微積分も独学で修め、帝大出のエリートたちに交じって二十九歳で同学会の会員に推挙された。

 

 

 

 鉄川与助の二人目の師匠との巡り合い 

 

三十代半ばに大浦教会堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)神父と出会う。この人が、鉄川の二人目の師匠といえる。以来、教会建築に関する全般的な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。


ド・ロ神父は、一八四〇年(天保十一年)、フランス・ノルマンディ地方で生まれる。一八六〇年(安政七年)、神学校を卒業後にパリ大学に進み、一八六五年(岩司二年)、司祭に叙階された。


一八六八年(慶応四年)六月、司祭のベルナール・ブティジャンが帰国中に印刷技術を持った宣教師を募集したのに応じて来日した。長崎県西彼杵郡外海(そとめ)地方(現・長崎市外海地区)で、キリスト教の布教活動をする傍ら、貧困に苦しむ人たちのため、社会福祉活動に尽力した。その後、一八七一年(明治四年)に横浜へ転属し、日本最初の石版印刷を始め『聖務日課』、『教会暦』などを刊行した。

 

 

 ド・ロ神父の生涯 

 

一八七三年(明治六年)、浦上の信徒らが浦上四番崩れによる流刑から釈放されたのを機会に長崎に戻り、印刷物を発行した。貴族の家に生まれたド・ロ神父は、施設建設や事業のために私財を惜しみなく投じ、フランスで身につけた農業・印刷・医療・土木・建築・工業・養蚕業などの広範な分野に渡る技術を外海(とめ)の人々に教えた。長崎港外の伊王島で発生した赤痢が、流罪で衰弱していた浦上信徒に蔓延したため、ド・ロ神父は毎日患者の家まで薬箱を下げて通い、予防方法等について説いて巡回した。


ド・ロ神父は、さらに、孤児院を開設したり、救助院(黒崎村女子救助院)を設立して授産活動を開始した。また、住民を伝染病から救済するため「ド・ロ診療所」を開設し、社会福祉事業に挺身した。


「ド・ロ様」と呼ばれ親しまれ、外海地区の住民たちに伝えた製麺技術は「ド・ロ様そうめん」として現在に至るも愛用されているが、ド・ロは二十世紀初頭の西洋と長崎の文化的掛け橋となるとともに、あらゆる分野でその功績を残している。


 ド・ロ神父が設計・建築に携わった数々の教会堂は、ゴシック建築を踏襲しながらも、扉を引き戸にして大工の技術を生かしたり、木造建築ならではの柱と梁の配置としたりするなど、日本の伝統文化を重んじた建築様式が特徴である。当時の厳しい環境下において実現したこれら建築物には一見の価値がある。


一九一四年(大正三年)十一月六日、 ド・ロ神父は大浦司教館(旧長崎大司教館)の建築現場で足場から転落、それがもとで持病が悪化し、翌日の十一月七日に死去した。遺骸は出津に運ばれ、小高い丘陵の共同墓地に埋葬された。

 

 

 

「鉄川与助」を考える

 

鉄川は非常に誠実そのものであった。貧しい人々から集まった浄財を基に教会を建てるために「いかに美しく、いかに頑丈に」といつも心がけていたという。そういう質素で堅牢を旨とした鉄川の建築哲学は、大工道具からも窺えるという。


二十八歳で初めて設計・施工をした木造教会を皮切りに、煉瓦造、石造、鉄筋コンクリート造、また内部空間でより高い天井をめざしてリブ・ヴォールト天井や折上天井などの工法を極めるなど、一歩一歩技術を高めながら五島を中心に九州各地で次々と教会を完成させた。


鉄川が建てた教会は長崎県を中心に三十ヵ所以上にもなるというが、それは、教会建築は鉄川に…という大きな信頼を築きあげていた証拠にほかならない。
多くのカトリック教会を建設した鉄川だが、彼自身は生涯仏教徒であった。彼の胸中で知りたいことがある。鉄川は仏教徒でありながら、何故、数多くの教会を造り続けることができたのか?


ペリュー神父やド・ロ神父のもとには「仏教徒に教会を建てさせるな」と、一部信者からの声も寄せられていたらしい。信頼を置いたド・ロ神父が何度か鉄川に入信を勧めたようだが、「鉄川は丁重に断ったようです」(新上五島町教育委員会文化財課・高橋係長の話)という通り、生涯を仏教徒で通した。この謎に迫ることは難しい。


入信して教会建築に携わることで、鉄川は教会の仕事を多く貰ったと、他人から後ろ指をさされるのを嫌悪したという見方もある。そういう矜持が与助の心に働いたとも考えられる。また、狭い土地で、長男の与助が代々の菩提寺から抜けて宗旨替えすることも困難だったに違いない。


否、むしろ、仏教徒、キリスト教徒の境界を越えて、建築家・鉄川には、建築の師と仰ぐ父親鉄川与四郎や、大先輩の棟梁野原与吉、二人のフランス人神父らに応え人に尽くしていこうという燃える心があったに違いない。師弟の絆の強さというものは、地理的な距離や上下関係で決まるものではない。


「師弟関係を貫いているのは、師匠から受け継いできたものを自分の代で途絶えさせてはならないという使命感だ。まだ見ぬ将来の人に伝え残したいという使命感、責任感が、個人の潜在能力を開花させるのは間違いない」(内田樹(たつる)神戸女学院大学名誉教授)が、鉄川与助に当てはまる。


長崎には全国の一割以上を占める教会がある。五島列島にいけば、棟梁建築家として惜しみない情熱を燃やし続けた鉄川による教会建築の軌跡が見られる。禁教の時代を乗り越え、明治から昭和にかけて建築された多くの教会は、隠れキリシタンの存在と同じように決して華やかな場所に建っているわけではない。戦前のものだけでもおよそ三十棟の教会を建て、うち五棟もの作品が国指定重要文化財となった類い稀な才能をもった設計者でもあった。


鉄川は一九五九年に黄綬褒章、一九六七年には勲五等瑞宝章を授与されている。没後四十二年に当たる平成三十年には、国家による個人表彰を越えて、鉄川の建築物を中心に、キリシタンが外海地区から持ち込んだ生活文化を含む集落に世界遺産として、より高くより輝かしい評価が与助たちに下されそうだ。(おわり)

  

 

【取材協力】
長崎県新上五島町教育委員会文化財課(世界遺産推進室)
髙橋弘一係長、副参事
【写真提供】
教会外観の写真
髙橋弘一係長、副参事
【主な引用及び参考文献】
●ふるさと外海(そとめ)から祈りの島へ
高橋弘一著
●上五島が生んだ努力の建築家
高橋弘一著
●五島都平戸の旅(2)
聖書センター センター長
雨宮慧神父著
●横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)

 

 


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