不毛の大地を潤した日本人水利技師 八田 與一 台南の民衆福祉に捧げ抜いた男 | 北村はじめの『ちょっと立ち読み』

 

はじめに

 

日清戦争で日本が清国に勝利し、一八九五年四月十七日に下関で日清講和条約が調印された。この通称「下関条約」で、台湾が日本に割譲された。日本の領土となって十五年目、ひとりの優秀な若い水利技師が台湾に渡った。

 

八田與一(よいち)。一八八六年、金沢市に生まれ、東大・土木科を卒業後、二十四歳のとき(一九一〇年)、台湾総督府内務局土木課技手として就職。最初の仕事が、台北近郊の桃園地区に水路を張り巡らせ、二万二千ヘクタールの水田をつくる「桃園大圳(とうえんだいしゅう)」の設計・監督だった。時に八田は二十八歳。一任された桃園大圳の水利工事を成功させ、八田は高い評価を受けた。

 

 

 

八田に白羽の矢

 

台湾総督府は台湾中部の嘉義から台南にかけての台湾一広大な嘉南平原に大水利工事を施すことを決定し、その設計・監督で若干三十歳の八田與一に白羽の矢をたてた。

 

大事業を拝命した八田與一は、研究に研究を重ねた結果、ダムの堤防を、「セミ・ハイドロリック・フィル」工法で築く決断をした。ダムの規模は、長さ千二百七十三メートル、高さ五十六メートル、堰堤(えんてい)上の幅は九メートル、底の幅は三百三メートル。巨大ダム工事では、東洋でも例のない工法だった。

 

これは、ダムの基礎を岩盤まで掘削し、底部中心部にコンクリートのコアを造り、堰堤を築造する地点の両側に玉石、栗石、砂利、小砂、粘土の混合した土壌を盛土し、中央を河水を導き入れるための溝にする。その溝の河水を四百五十馬力の巨大ポンプで、両側の盛土に向かって射水する。すると玉石はそのまま残り、栗石、砂利、小砂、粘土の順に中央部へと流され、その中央の部分には濁り水が流れて、粘土が中心部のハガネ層を造り上げる、という独特な工法だった。

 

この工法の先進国アメリカでさえも、これほど大規模の工事には採用されていなかった。八田與一の綿密な研究に花開く時がきた。

 

 

 

八田は先を見通していた!

 

八田は建設作業に、あり余る労働力があるのを理解していたが、大型土木機械を導入した。当然多くの反対があった。

 

「これだけの工事を人海戦術でいくなら二十年でも完成しない。工事が長引けば十五万ヘクタールの土地は不毛のままだ。完成が早ければ、それだけ早く金を生む。機械は、その後も別の工事で使える」と、八田は主張。

 

八田がアメリカから買い付けた土木機械は、パワーショベル七台、エアーダンプカー百台、ジャイアントポンプ五台、機関車十二台、コンクリートミキサー車四台などだった。この機械導入にダム工事・トンネル工事予算の四分の一を当てた。これは大変な決断だったはずだ。八田は先を見抜いていた。ダム建設で「人」が育ち、「物」や「金」を生むのだ、と持論を主張し、事実、それらが台湾の発展に寄与した。

 

大型機械導入、地域整備など思い切ったことができたのは、若手の八田與一を信頼した直属の上司山形土木課長、最高責任者の下村海南民政長官の度量があったからこそだ。空中より俯瞰すれば、まるで蒼い珊瑚礁のように見えるため、「珊瑚潭」と名付けたのも長官だった。

 

『台湾を愛した日本人土木技師:八田與一の生涯』の著者、古川勝三氏は、三十四歳の若さで七千億円もの巨大工事ができた理由に、八田技師の才能と信念を信じる上司がいた点をあげている。

 

 

 

痛恨の参事が、八田を襲った!

 

一八二二(大正十一)年十二月、工事初期、トンネルを九十メートルほど掘り進んだところでガスが噴き出し、機械からの引火でガス爆発が起こり、思わぬ死亡事故が発生した。安全と生命第一を考える八田にはこの惨事は堪(こた)えた。

 

八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲者の遺族の見舞いに奔走した。八田はいつもの作業着姿で犠牲者宅の棟割り長屋を一軒一軒訪れ丁寧にお詫びをした。同時に、工事の続行が危ぶまれた。うちひしがれた八田を、遺族は逆に励まし工事の続行を懇願したと伝えられている。

 

 

この「嘉南大圳」工事の十年間で、犠牲者は百三十四名(台湾人九十二人、日本人四十一人)にも上った。完成後に殉工碑が建てられた。碑の正面には八田の慰霊文があり、他の三面には台湾人、日本人の区別なく死亡順に名前が刻まれた。八田の分け隔てのない仲間意識が伺われる。

 

 

 

もうひとつの難が八田を襲った!

 

翌十二年九月、関東大震災が起こった。死者十万余、全壊家屋十二万八千戸という大惨事に、台湾総督府は年間予算の三十パーセントを復興支援の財政援助として申し出た。その結果、烏山頭ダム工事への補助金は大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解雇せざるを得なくなった。

 

なんと八田は優秀な職員から辞めさせた。「優秀な者は再就職が簡単だ。しかし他の者はここを去ると仕事がなく生活ができなくなる。実務には優秀な少数の人間より、平凡な多数の者が必要である」という識見を持っていた。三年間苦楽を共にした仲間の解雇は、八田にとって身を切る思いであった。退職者ひとり一人を所長室に呼んで、涙を流しながら賞与金を手渡した。周囲の人々が初めて見る八田の涙だった。八田は解雇者の再就職先を探すために、率先して台湾中を駆け回ったという。

 

見つけた斡旋先には、工事が再開されれば、優先して再雇用するという条件をつけ、辞めていった人たちを烏山頭に呼び戻すチャンスを待った。実際たくさんの人を呼び戻した。嘉南の人々に今も語り継がれているエピソードである。

 

 

安心して働ける環境を

 

「よい仕事は安心して働ける環境から」という八田の哲学。工事関連施設はもとより、家族が一緒に住める宿舎、共同浴場、病院、学校、店舗、娯楽クラブ、テニスコート、弓道場、公園などの地域整備・街づくりをしてきた。そこで二千有余の工事関係者・家族が生活をし、仕事に励んだ。八田の子供たちが通った小学校は、今も健在だ。

 

八田の優れたところは、施設の運用でも職員や家族の生活を大事に考え、映画上映、運動会、芝居観劇、盆踊り、祭り、など娯楽を取り入れたことだ。自分自身も倶楽部で毎日のように職員と交わり、「オヤジ」と慕われて麻雀・囲碁・将棋などに興じた。

 

物を造り、命を吹き込み魂を入れる…明治大正人の精神の典型だった。

 

 

世界一のダムが完成した!

 

危機を乗り越えて、海抜四百六十八メートルの烏山嶺に位置する烏山頭ダムが完成したのは、一九三〇(昭和五)年四月であった。八田が期待に応え、一九一八年から、研究・調査・計画・測量に二年、建設で十年の歳月が流れていた。貯水量一億六千万トンの水を入れるのに、直径九メートル近いトンネルでも四十日あまりかかった。

 

水力発電設備を持つ烏山頭ダムの竣工を祝う盛大な祝賀会が、五月十日から、三日間に渡って盛大に開かれた。夜は花火が打ち上げられ、提灯行列まで繰り出された。

 

洪水、干ばつ、塩害の三重苦に悩まされていた嘉南平野の不毛の地を見事な大穀倉地帯に変貌させた。ダムの誕生で、農民の敵だった洪水、干ばつ、塩害は、見事に消え去った。

 

アメリカの土木学会からは「八田式工法」に関する論文を求められ、学会誌に掲載された。アメリカ土木学会は、「烏山頭ダム」を「八田ダム」と呼び、八田の独創的な技術を評価した。アメリカのフーバー・ダムが完成するまでは世界最大のダムだった。

 

満水貯水量の一億六千万トンは、黒部ダムの七十五パーセント。水路の全長一万六千キロは、万里の長城の六倍でもあった。しかし、世界一とはいっても、「ダムの水で灌漑できる畑の面積は五万ヘクタールだけ」と、八田にはダムの限界がわかっていた。

 

そこで八田は「三年輪作法」を考えついた。これは、一年目には稲を栽培。二年目には水の量をさほど必要としないサトウキビ。三年目には水をまったく必要としない雑穀類の栽培をするという輪作農法だ。これで十五万ヘクタールの耕地の灌漑ができ、台湾南部は大穀倉地帯となった。米栽培、砂糖栽培が飛躍的に成長し、李登輝元総統が、「八田さんの本当の大きな貢献は三年輪作です」と話しているように、水田は三十倍に、ダム完成から七年後の一九三七年には生産額は工事前の十一倍に、サトウキビ類は四倍となり、台湾経済を大きく支えてきた。

 

その業績は、日本の国民中学の教科書『社会2・農業の発展』に詳しく記載され、また現代台湾の中学校の歴史教科書『認識台湾』には、八田技師の農業土木事業の貢献が記されている。

 

日本の土木学会は、二〇〇九年に日本人の土木技師が海外で手掛けた建造物外国の施設として初めて、烏山頭ダムを選奨土木遺産に選定した。最近では世界遺産登録を目指す署名運動も台湾で進められている。

 

この工法の凄いところは、他の工法のダムが土砂の堆積などで寿命が五十年で終わる中、ダム内に土砂が溜まりにくい構造の烏頭山ダムは築造八十七年後の今もなお嘉南平野を潤していることだ。

 

 

 

八田與一像を守った人がいた

 

下の写真の銅像は、工事仲間が八田を会長として作った親睦会、「烏山頭交友会」が、ダム完成後に八田の許可を得て作ったものだ。特別な存在になることを嫌った八田は銅像作りを頑なに固辞した。しかし、八田に心服し苦労してダムを造りあげてきた面々も、引き下がらなかった。「働いていた全員のために作りたいのです」には、八田も逆らえず条件を付けた。

 

「偉そうに、高い台の上で威張っているようなものにはしないでほしい」「ダムが見下ろせる場所の地面にじかに置いてほしい」と。

 

交友会は八田の故郷金沢の彫刻家・吉田三郎氏に製作を依頼し、八田が考え事をしている時の姿が復元された。地面に腰をおろし、作業着、ゲートルを巻き、左足を投げ出し、立てた右膝の上に右肘を置き、右指は髪の毛をさわっている姿だ。

 

ある時はゆっくり、ある時は気ぜわしく右手で髪をさわるのが、八田の癖だった。「ゆっくり」は機嫌良し、「気ぜわしく」は機嫌悪し、髪の毛を引き抜くときは最悪。気ぜわしく右手が動き出すと、現場職員は八田のそばから逃げだしたという。

 

銅像らしくない銅像は、ダム完成一年後の一九三一年(昭和六年)に、八田の願い通り、湖面を見降ろす地面に置かれた。

 

そこへ、戦争末期(一九四四年)日本軍による金属供出命令が出され、烏山頭ダムを見降ろす場所から八田像は姿を消した。嘉南平野六十万人の命を守ってくれた男の像も、人命を奪う武器に使われることを、多くの人が恐れた。

 

ところが、溶かされたはずの銅像が、終戦を迎えた一九四五年の或る日、ある場所で発見された。八田記念館の資料では、「終戦早々に職員が偶然に隆田(りゅうでん)の倉庫で発見し買い戻した。再安置する前の盗難や破壊を恐れて、鋳型を新たに造り保管した」という。隆田の倉庫とは現在の台鉄隆田駅の倉庫の事で金属回収で高雄に運ばれる予定のものが、〝心ある人たち〟の意図で運ばれなかったのだろう。

 

日本統治時代に建てられたたくさんの日本の軍人、政治家の銅像は戦後、国民党政府に撤去された。しかし、戦後三十五年を経た一九八一年(昭和五十六)一月一日、地元有志の手で八田像は湖面を見降ろす元の位置に戻された。しかし、嘉南の人々は、こんどは八田像にささやかな台座を付けて。

 

 

 

 

八田夫妻の死

 

「烏山頭ダム」と「嘉南大圳」を完成させた八田は台湾総督府へ復帰した。一九三九(昭和十四)年には、技師として最高の勅任技師の待遇を与えられた。

 

その八田に陸軍省から南方開発派遣要員として命が下った。フィリピンの綿作灌漑用のダム建設地の調査任務だった。八田と部下三人を乗せて広島の宇品港を出航した貨客船「大洋丸」は、一九四二(昭和十七)年五月八日午後七時四十五分、五島列島沖を航海中、米潜水艦の雷撃を受け沈没。八田與一は東シナ海で五十六歳の生涯を閉じた。

 

一ヵ月後の六月十三日、遺骸は偶然にも山口県萩市沖合で漁をしていた山口県の漁船の網にかかり、七月十六日、故郷金沢で総督府葬として荼毘に付された。

 

遺骨は八田が愛した台湾で待つ外代樹夫人と八人の子供たちの元へ戻った。嘉南平野が大きな悲しみに包まれた。葬儀は嘉南平野の沢山の農民が珊瑚湖畔に集まり、八田像前でしめやかに農民葬が執り行なわれた。総督府でも八田の偉業を称え盛大な葬儀を行った。

 

そして…敗戦から二週間ほどした九月一日未明、妻の外代樹は黒の喪服に白足袋という出で立ちで、烏山頭ダムの放水口に身を投げ、夫の後を追った。

 

「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らしてください」という遺書が机の上に残されていた。享年四十五歳。

 

 

おしまいに

 

八田の墓前祭は、毎年五月八日の命日に、報恩の心熱き台湾の方々により、今も続けられている。「八田さんの頭の中には、いつも嘉南の農民がいました。私たちが長い間苦しんできた三重苦(洪水、干ばつ、塩害)を八田技師が取り除いてくれただけでなく、土木事業で暮らしを豊かにしてくれた恩に感謝するのは当たり前のことでしょう」と、一農民。

 

かつての嘉南平野では、干ばつで、米は年に二回ほどしか食べられなかったということを知れば、台湾農民の大きな喜びが分かるだろうか。

 

ダム築造をもって終わりとせず、土木事業完成後にも、農民のために心を砕き「三年輪作給水法」による道筋を付けたことは、八田の恩師・東京大学廣井勇先生の「土木事業は民衆のための福祉である」という薫陶を忠実に実践したからに他ならなかった。

 

一見ダムと思えないほど堰堤が自然と溶け込んでいる八田ダムは、今も、台南の人々の命の水を満々と湛えている。心の奥深いダムだ。(おわり)

 

 

 

主な引用・参考文献
『台湾の恩人・八田技師(この人の事を知ってほしい)』
邱永漢 、文藝春秋、1959年、252-260頁
『街道をゆく 40 台湾紀行(八田與一のこと)、(珊瑚潭のほとり)』
司馬遼太郎、朝日新聞社、1994年、281-293頁、295-306頁
『よいっつぁん夢は大きく‐台湾の「ダムの父」・八田與一』
まつだしょういち、たにうちまさと、北國新聞社出版局、2007年
『植民地台湾を語るということ—八田與一の「物語」を読み解く』
胎中千鶴、風響社、2007年
『台湾を愛した日本人(改訂版) -土木技師 八田與一の生涯』
古川勝三、創風社出版、2009年
『日台の架け橋・百年ダムを造った男』
斎藤充功、時事通信出版局、2009年
『台湾に生きている「日本」』
片倉佳史、祥伝社、2009年
『伝説のニッポン人』
話題の達人倶楽部編、青春文庫、2004年
『海外の建設工事に活躍した技術者たち』
かこさとし、瑞雲舎、2005年

 


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