豪州と日本に見るドイツ人捕虜 第一次世界大戦 | 北村はじめの『ちょっと立ち読み』

 

北村はじめのちょっと立ち読み第二部②

 

第一次世界大戦は、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景として一九一四年から一九一八年にかけてヨーロッパを主戦場として戦われた人類史上最初の世界大戦であった。同盟側にはトルコ・ブルガリアなどが、協商側には同盟を脱退したイタリアのほかベルギー・日本・アメリカ・中国などが参加した。結果は、ドイツが敗戦に追いやられ、ドイツ人捕虜は、オーストラリアまで送られてきた。捕虜到着から百年目の一昨年、サザン・ハイランドのべリマにドイツ人捕虜を偲ぶ遊歩道ができた。

 

 ベリマ捕虜収容所 

 

一九一五年三月に、捕虜の最初のグループ八十九人が、モスベイル駅から徒歩でべリマに到着した。一九〇〇年代初期から使われていないべリマの古い刑務所の住人が、犯罪人から、ドイツ人とオーストリア人の男性の捕虜収容所になった。

大多数は、戦争勃発でオーストラリア各港で接収されたドイツ商船の乗組員たちと、一九一四年十一月にマリアナ諸島のココス島沖でオーストラリアの軍艦HMASシドニーに拿捕・撃沈されたドイツの軽巡洋艦SMSエムデンの乗組員だ。

べリマ収容所とトライアル・ベイ収容所は、リバプール近くのオーストラリア最大のホールズワージー収容所(最大五千人の捕虜収容)の支所だった。

送りこまれた捕虜と警備員で、べリマの人口は一夜にして倍になった。べリマ刑務所は一八六九年の改築で収容人員は百四十人だったが、一九一八年には、捕虜人口は三百人超へと膨れあがった。

 

 

 ベリマの暮らし 

 

捕虜たちの荷物は届かず、旧刑務所の捕虜収容所には、家具は一切なかった。彼らには寝泊りに必要な最小限のものが支給された。おまけに、捕虜には自炊の必要もあった。男たちが、収容所を『不吉な予感の館』と呼んだ。ベトナム戦争時のアメリカ兵捕虜が、ハノイの刑務所をハノイ・ヒルトンと自虐的名前をつけたことを思い出す。

朝の六時の点呼後(上記写真)は、べリマ村を二マイルの圏内で、自由に闊歩できた。そして、午後六時半の点呼を受け、捕虜たちは〝幽閉〟された。捕虜たちはオーストラリア政府の寛大な措置で、行動の自由が許されたので、べリマの村人たちは一日目から彼らをよく知るようになった。新参者の捕虜が外国アクセントと外国文化を振りまきながら歩くので、村にカルチャー・ショックが走った。

ドイツ人を中心とした捕虜を好まない者が村人の三分の一、どちらつかずが三分の一、好意を持っている者が三分の一だったという。本来なら、捕虜に怒りと敵意が生まれたかもしれないのだが、外国航路を背景にもつ大部分の捕虜が、英語で話せたこと、知識層であったことと、礼儀正しく行儀が良かったで、村人も、捕虜収容の状況を最大限に理解して、外国人を受け入れた。脱走者は一人も出なかったという。

その後、ドイツ・オーストラリア航路の船会社の捕虜には、自社からのベッドが届いた。裕福な捕虜は業者にベッドを注文したが、大多数の捕虜は、森の中で切り出した材木で家具作りをした。冬の独房は凍える寒さであったが、夏は涼しかった。そんな独房も、捕虜の積極的な価値創造で、少しずつ快適さが増していった。二パーセントのアルコールを含むリキュール製造も認められ、失敗を重ねた末ハインリッヒ・バルテルスがブラックベリー・ワイン作りに成功した。

収容所の広い庭からは、多種多様な果物と野菜が収穫された。それは、一人の有能な農業・園芸家が捕虜にいたからだ。フリードリッヒ・マチョッカという名前で、アメリカ生まれの移民だ。彼は、ドイツ系の名前であったのと、船員でもないのに船員の帽子をかぶっていたために、べリマ送りになったという冤罪を受けた。彼はくさらず、指導力を発揮して、野菜作りを教え、捕虜たちの健康を足下から支えた功労者だ。野菜、果物などは捕虜たちの食卓を潤しただけでなく、村人たちも競って購入した。村人のほとんどが強制的『来客』に尊敬と友好を抱いた陰に、マチョッカの計り知れない尽力があった。

そして、捕虜は地元の店から大量のパン、肉など食料を買った。中には、近くで生活するようになった家族のために、借家をする捕虜もいた。

地元の人々と捕虜が良好な関係を保てたのは、捕虜による経済のおかげだけではなかった。捕虜らの友好の気持ち、長けた実務能力、勤勉さに、村民が尊敬と感謝の気持ちを抱いていたからであった。村人の家に蛇が入り込むと、村の女性はきまって捕虜に蛇退治を頼みこんだ。山火事からべリマの学校を救ったのも捕虜たちだった。

 

 

 暮らしを楽しむ捕虜たち 

 

もちろん、まったく騒動がなかったわけではない。よそ者がやってきて、闘いをふっかけて、トラブルを引き起こしたこともあった。

トライアル・ベイ収容所で死んだ四人の捕虜の慰霊碑が、本国送還の直前に荒らされたというニュースがべリマ収容所に伝わり、捕虜たちが変節した。小屋やカヌーなど残していくものか、小屋を燃き、カヌーは沈めると…心に誓ったこともあったという。

どこにいても生活を楽しもうという姿勢が自分たちを救う。彼らは抑留生活を〝充実〟するために購入した小型の手漕ぎボートの船着場や係留設備付きの素朴な小屋を川の土手に建てるなど、生活に豊かさを加える態勢作りを着々と進めた。

捕虜たちは、遊園地らしき物も作り、船員が多かったために、ウィンゲカリビー川にカヌー船団を作って遊んだ。彼らの昼間の活動は、水泳とボート、体操から、農作業、木彫りと言語教室など多岐にわたった。

音楽は彼らの生活で大事な部分を占めた。フル・オーケストラ、女装をしたバイオリニストの入ったコメディー・カルテット、ブラスバンド。さらには人気の高かった合唱団が毎週日曜日に、戸外の「円形劇場」で定期公演をした。フリッツ・リティゲという有能なバイオリニストの指導で収容所のフル・オーケストラが生まれ、捕虜仲間のみならず、地元住民のためにも演奏した。

乏しい材料で建てた芝居小屋では、捕虜が俳優となり、同胞のためにドラマも喜劇も制作して演じた。彼らの心の中では、音楽も演劇も楽しめるべリマを、さながら「小ウィーン」に見立てていたのではないか。

最初は、川岸に沿って建てた捕虜の小屋は単純な芝吹き小屋だったが、後には、なかなかレベルの高い木造家屋や手の込んだ住宅も出現した。

材料が手に入りさえすれば、軍艦、潜水艦、帆船、そして浮かぶツェッペリンの模型まで作ってしまった。ツェッペリンとは、二十世紀初頭、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が開発した飛行船の一種だ。捕虜たちが行う水上パレードは、ドイツ皇帝と皇太子の誕生日など重要な記念日にはドイツ・フェスティバルの中核をなした。

捕虜の中には村に住む妻や子供を持つ人もいたし、シドニーなどから友人が訪ねる場合もあり、珍しい水上カーニバルだけでなく、工夫を凝らした橋、小屋、住宅と庭などべリマ収容所の生活様式が口コミで各地に伝わり、ドイツ人見たさでやってくる訪問者が増えた。戦争の最中に、敵国の捕虜がべリマを観光地にしたことは皮肉だった。

 

 

 

 学ばすは卑し 

 

収容所内にいくつかのクラスができた。収容所から手紙は英文が必須で、検閲があり、英語教室は人気だった。他には、演劇、音楽、大工仕事、指物師(建具師)の技術、速記、写真撮影、スケッチ・絵画といった教室があった。戦後の資格認定試験合格をにらんだナビゲーションと海事技術のクラスは、教師は船長だった。

無線教室も、単純な鉱石ラジオが地元のラジオ局の放送を受信できたので人気だった。だから、捕虜の方が村人より先に最新の世界ニュースを知っていた。

 

 

 収容所委員会 

 

ベリマ収容所はオーストラリア軍の正式な管理下にあったが、船長、高級船員と下級船員からなる収容所委員会が、日々自主管理した。

体操、レスリング、フットボール、水泳などの運動が、健康と体力増進のために行われたが、作業隊は運動用地と菜園の整備を行った。

その資金は、営利活動が認められた収容所食堂のあがりから賄えた。捕虜たちは、シドニーで売っているドイツの食材を買うために食堂を経営した。おかげで、野菜のタネの購入や、穀物栽培用の借地もできた。それだけでなく、収容所オーケストラの楽器や、子供たちへのクリスマス・プレゼントを作るための材料まで購入できた。また、所属の会社から賃金を受け取れなかった仲間の救済にも、その利益は使われた。

捕虜たちは、収容所内のインフラ整備にも力を入れた。川の水を水道として導入し、村に電気が通る前に発電機を設置した。これは、芝居小屋担当者が舞台照明のレベルを上げるためであった。

捕虜が建築した最初の重要な建造物のひとつはハンザ橋で、完成は一九一五年だった。ハンザとは「商人の仲間」の意味であり、中世ドイツに、北海・バルト海沿岸にできた都市同盟に由来している。この橋は、捕虜が作った運動場と三つのテニスコートへの近道となる利用度の高いものだった。

 

 

 

 

 キャンプの閉鎖 

 

同盟国の支えを失ったドイツは敗北を受け入れ、一九一八年十一月に休戦協定が結ばれた。捕虜たちは、数週間もすれば帰国の途につけると思ったが、パリ講和会議でベルサイユ条約が成立し、戦争が正式に終わったのが一九一九年六月だった。

一九一九年八月十二日に、捕虜たちが集合した。べリマ警備隊が列の先頭と後尾に付き、音楽隊が『Muss i’ denn, muss i’ denn aus Städlein(いざ、この小さき町から出発だ)』という曲を演奏した。サーヴェイヤー・ジェネラル・ホテルで行進の列は止り、男たちが万歳を三唱し、モス・ヴェイル駅まで行進した。捕虜たちは村に異文化や活気ももたらしただけに、多くの村人の心の中に悲喜こもごもの思いが宿った。

 

 

 

徳島県・板東俘虜収容所では

 

では、日本にいたドイツ人捕虜が日本に何を残したかに焦点を当ててみたい。日本では、当時、捕虜のことを俘虜(ふりょ)と呼んだ。
日本は日英同盟に基づいて、一九一四年八月二十三日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦した。日本帝国陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略。日本の実質的戦闘行為は、青島攻防をめぐる日独戦争にほぼ限られ、わずか一ヵ月半ほどで終結した。その結果、約四千七百名のドイツ兵捕虜が日本各地十六ヵ所の収容所に五年余りにわたって収容された。

 

 

 日本でも揉め事があった 

 

一九一五年十一月十五日、久留米収容所で真崎甚三郎所長が捕虜の将校を殴打するという日本でも稀な事件が起こった。大正天皇即位の大典に、捕虜にビール一本とリンゴ二個が特別支給されたが、日独両国が交戦中であることを理由に二人の将校が拒否すると、怒った真崎所長が頬を殴打した。捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に、捕虜たちは所長の行為に激しく抗議し、当時中立国だったアメリカの大使館員派遣を要求する大問題に発展した。真崎所長は収容所長を罷免された。

 

 

 音楽が日独の垣根を外した 

 

一九一四年、中国の青島から三百二十四名のドイツ兵俘虜が、香川県丸亀俘虜収容所に送られてきた。その中で、音楽的才能が高いエンゲルという音楽家を中心に収容所に楽団が編成され、音楽活動が行われるようになった。 楽器の調達にも大変な苦労が伴った時代に、収容所閉鎖までの二年五ヵ月の間に通算二十六回もの演奏会が開かれた。また、エンゲル楽団は収容期間中に丸亀高等女学校で演奏を行って地域貢献も果たした。

この丸亀俘虜収容所のドイツ兵俘虜が、一九一七年徳島の板東俘虜収容所に送られた。人口約五百人の町に合計で千人のドイツ兵たちがやってきた。新設の収容所に、朝夕、ラッパの音が響き始めた。

板東俘虜収容所の所長になった松江豊寿大佐(当時四十四歳)は、戊辰戦争に敗れた会津藩士の子で、降伏した者の屈辱を目の当たりにして育った苦労人のエリート将校だった。

「武士の情けを根幹として俘虜を取り扱いたい」…ドイツ兵捕虜を収容所に迎える前日、松江は部下にそう伝え、捕虜を犯罪者の如く扱うことを固く禁じた。
その所長のもとで、エンゲルを中心に楽団が結成され、音楽活動がさらに盛んになった。一九一八年六月一日に徳島県鳴門市の板東俘虜収容所で、ドイツ兵俘虜による全曲演奏されたのが、日本における第九の初演となった。

一九一九年六月二十三日、ドイツは、連合国とヴェルサイユ講和条約に調印した。
松江所長は言った。「すでに諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わず惨めなものである。(中略)それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。…どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭に置いて、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。…本日ただ今より、諸君の外出はまったく自由である。すなわち諸君は自由人となったのである!」。

通訳が訳し終わると、拍手と歓声に変わった。別れの日が近くなり、町の人と捕虜との繋がりはさらに太くなった。

 

 

 

 ドイツ人の置き土産 

 

終戦後も、日本に残った捕虜は百七十人という。ドイツ人捕虜が日本に残したものは、べートーベンの『第九』だけではない。

敷島製パンは、製粉会社だった敷島がドイツ人捕虜の指導でパン作りを学び、製パン業へ進出した。

カール・ユーハイムは日本で初めてバームクーヘンを作り、終戦後も日本に残ってユーハイム社を設立した。

ハム・ソーセージのローマイヤ社も捕虜のアウグスト・ローマイヤが一九二一年に本場ドイツのハム・ソーセージの製法を伝えた。

二等砲兵で捕虜となったヘルマン・ヴォルシュケは、大戦終結後も日本に残り、ソーセージ製造に携わった。

明治屋は、ヴォルシュケをソーセージ製造主任、カール・ユーハイム(似島収容所)を製菓部主任、ヴァン・ホーテンは喫茶部支配人として雇用し、銀座に新規開店した「カフェ・ユーロップ」に配属した。ヴォルシュケは関東大震災後、神戸に移り、一九三四年、アメリカのプロ野球チームが来日したとき、甲子園球場でホットドッグを販売した。 後世に残すためと、ドイツ人捕虜が三千個の石を積み上げて作った橋が完成したのは一九一九年七月二十七日。後に「ドイツ橋」と呼ばれ、二〇〇四年に徳島県文化財史跡になった。

 

 

 

まとめの一言

 

捕虜はどの国に送られても、厳しい環境下に置かれる。べリマの捕虜が多種の勉強の機会や音楽、演劇で楽しみを作り、インフラを整備し、能動的にクリエイティブな生活をして希望に繋いでいった。べリマの捕虜も、板東俘虜収容所の捕虜も、共に川に橋を架けた。友情の橋、平和の橋ともいえよう。両地とも、音楽で、自分たちと地元の人を鼓舞した。楽観主義は生きる希望を紡ぎだし、心身の健康を作り出すための最強の心理資源だということを教えてくれた捕虜収容所生活だったと、べリマの遊歩道を歩きながら思った。

 

 

取材協力:
Berrima District Museum(写真提供)
●Mr. Yeo Philip●Mr. John Willson
写真提供:
浄土宗本願寺派 本願寺塩谷別院
参考文献:
Diary of Berrima Internment Camp (by Lieutenant Edmond Samuels)
Prisoners in Arcady (Berrima district Museum)
http://www.newsdigest.de/newsde/features/6907-kriegsgefangenenlager-bando.html 3月20日アクセス
「似島の口伝と史実」〔1〕島の成り立ちと歩み 平成10年12月〔1998〕 似島連合町内会 郷土史編纂委員会
https://ja.wikipedia.org 3月21日アクセス

 

 


ページトップへ