元奴隷・元スパイ ハリエット・タブマンの勝利人生 | 北村はじめの『ちょっと立ち読み』

 

スパイとして私たちが描くモデルとしては、ジェームズ・ボンド、ロバート・ラドラムの小説『暗殺者』、およびマット・デイモン主演の映画『ボーン・アイデンティティー』に登場する架空の人物、ジェイソン・ボーンとか、トム・クランシーの小説の主人公、ジャック・ライアンなどが最も有名なものだろう。実世界では、時折、不意にカーテンが引かれて、表舞台に登場することもある。今回は、スパイを経て奴隷解放運動家になった異色の元奴隷「タブマン将軍」をご紹介しよう。

 

 

ハリエット・タブマン

 

ハリエット・タブマンは、秘密結社「地下鉄道」を使って、何百人もの奴隷を自由にさせたことで有名だ。「地下鉄道」とは、十九世紀アメリカの黒人奴隷たちが、奴隷制が認められていた南部諸州から、奴隷制の廃止されていた北部諸州、ときにはカナダまで亡命することを手助けした奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たちの秘密結社だ。

タブマンは、一八四九年に奴隷制度から逃れた。一八五一~一八六〇年に、彼女は、およそ三百人を奴隷から解放するために、十九回も救出活動を繰り返した。

しかし、タブマンはスパイでもあった。 南北戦争の間、彼女はコックと看護婦として、ヴァージニア州のフォート・モンローでボランティア活動をした。

南北戦争の激烈な戦いが三年目に突入した一八六三年一月一日。エイブラハム・リンカーン大統領は奴隷解放宣言に署名すると、ボストン、ニューヨーク、ワシントンDCなど各地で大歓迎され、合衆国に公然と反旗を翻す州の奴隷解放に効果があった。南北戦争は、全アメリカ人に自由を浸透させる大義ともなった。直近に解放された奴隷たちの多くが連邦軍や海軍に加わり、他の奴隷のために勇敢に闘った。 

ハリエット・タブマン歴史学会によると、一八六三年の奴隷解放宣言後、タブマンは北部連合軍の公職に就き、奴隷の脱出ルートを作る責任あるスカウトとスパイになった。その年、タブマンはジェームス・モンゴメリー大佐と共に百五十人の黒人兵士を率いて、サウスカロライナ州コンバヒー川沿いの稲作農園を急襲した。建物に火を放ち、橋を壊し、農園にいた七百五十人の奴隷を解放した。

 

 

奴隷の解放 

タブマンがアメリカ北部諸州の黒人兵士と共に船でやってくるのを見た奴隷たちは、奴隷監視人の制止を振り切り、船を目指して走った。 このときのタブマンの話が残っている。 「こんな光景を、私はみたことがない。私たちは、声を出して笑った。笑った。そして笑った。頭の上にバケツを乗せた婦人がいた。バケツの中の米は火事場から持ってきたので、煙が立っていた。幼子を後ろに背負い、頭の前の方に抱えたもうひとりの子は米の中に手を突っ込んで必死に食べていた。他に彼女の服につながれた子が二~三人歩き、その上豚が一匹入ったバッグも背中にかついでいた。一人の婦人は二匹の豚を持ってきた。白豚と黒豚だった。私たちは全部を受け入れた。白豚にボールガード(北村註:アメリカ南北戦争時の南軍の将軍の名前と思われる)、黒豚にジェフ・デイヴィス(北村註:南北戦争の際に分離独立したアメリカ連合国の唯一の大統領で、ジェファーソン・デイヴィスを指すと思われる)と名付けた。ある婦人たちは首の周りにぶら下げるようにした双子を抱えてやって来た。梨のように見えた。私の人生で、こんなに多くの双子をみたことがない。(後略)」
(出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Raid_at_Combahee_Ferry)

『ハリエット・タブマン、シークレット・エージェント』(出典:著者トーマス・B・アアレン著)には、あるエピソードが紹介されている。一八六三年のコンバヒー川襲撃のさい、近付いてきたタブマンの船に向かって、老いた奴隷が走り出した。八十一歳にもなってここを逃げ去るべきかどうか、彼は一瞬迷ったという。だが、それもほんの一瞬だった。
のちに、老人はこう振り返った。
「隷従の地を捨てるのに、老いすぎることなどない」。
(出典:http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/042500151/?ST=m_news)


元奴隷をスパイとして使うという作戦は極秘のうちに進められ、エイブラハム・リンカーン大統領は陸軍長官や海軍長官にさえ知らせていなかった。秘密のスパイ組織を統括したのはウィリアム・スワード国務長官だ。彼の自宅が地下鉄道の「停車場」(隠れ家)だったとき、タブマンに会っていた。

タブマンら元奴隷たちがスパイとして力を発揮できたのは、奴隷制存続を掲げる南部連合が彼らの知性を見くびっていたからだ。それが、元奴隷に北部諸州のスパイをさせるという作戦の土台になった。
(出典:前出の著者トーマス・アレン氏)

南北戦争中には南軍陣地や南部連合の支配地域に潜り込んだスパイは、奴隷たちから南部の作戦情報を集めた。例えば、南軍は北軍の船を爆破しようと、樽に火薬を詰めた機雷を使っていたが、川のどこに敷設したのか、奴隷たちがスパイに教えていた。(出典:前出のアレン氏)。こうしたスパイ情報は、「黒い速報」として知られた。

 

 

他の人たちも自由になってほしい!

 

誰であれ、元奴隷が南部連合の支配地域に足を踏み入れるのは勇気のいることだった。彼らは法的にはまだ「自由」ではなく、逃亡者とされていた。とりわけ、奴隷制廃止論者として有名になっていたタブマンにとっては危険が大きかった。 「タブマンは勇敢な女性だった。自由になりたい、他の人たちにも自由になってほしいと願っていた。そうでなければ、命を危険にさらすことはなかっただろう」。
(メリーランド州・ソールズベリー大学のクレア・スモール元歴史学教授)

しかし宣言が現実となるには、さらに多くの戦闘を必要とした。一八六五年に南北戦争が終結するまでに、ほぼ二十万人にのぼるアフリカ系アメリカ人が連邦軍の戦闘に連なった。同年十二月、合衆国憲法が修正され、アメリカ全土の全奴隷が自由の身となった。合衆国憲法修正十三条は、奴隷解放宣言が端緒となったその作業を完結させ、アメリカのすべての奴隷制度は終焉を遂げた。

 

 

タブマンの出生

 

タブマンは奴隷の父ベン・ロスと母ハリエット・グリーンとの間に九人兄弟姉妹の五番目の子供として生まれた。生まれた年は一八二二年ごろとされているが、定かではない。生まれたときの名前はアラミンタであったが、成長してからは母親の名前ハリエットを名乗った。母はメリー・ブロデス、父は木材農園経営者のアンソニー・トンプソンと違った人に所有されていたため、一緒に暮らすことができず、タブマンは母親の手で育てられた。後に子供のうち三人はブロデス家の手で売却されるなど家族関係は不安定だった。

タブマンは五歳から働きに出され、働きが悪いとしてしばしば鞭で打たれた。肉体的暴力は、タブマンとその家族にとって日常茶飯事だった。タブマンは、朝食前に五回も鞭うちに遭った日もあったという。

彼女は若い頃にもっとひどい暴力を受けた。十二歳のときに雑貨屋にお遣いに出されたさいに、許可なく農場を抜けだした奴隷に出会った。男の監督は、タブマンに逃亡者を捕まえろと指示した。タブマンが拒否すると、奴隷を捕えようとして監督が投げた錘がタブマンの頭を直撃し、タブマンは頭蓋骨骨折、意識不明の重体となる。何とか一命を取り留めたが、癲癇性の発作は彼女を生涯悩ませた。

一八四四年にタブマンは自由な身分の黒人ジョン・タブマンと結婚した。一八四九年、ブロデス家の当主エドワードが亡くなり、病気がちだったタブマンは売られる可能性が高まったと感じ、脱走を決めた。

 

 

自分は売られるーという予感

 

タブマンは、家族のさらなる離散と、経済価値の低い病気の奴隷として自分の運命を恐れた。一八四九年九月十七日に、彼女はベンとヘンリーの2人の兄弟とともに、まずメリーランドを離れた。三人を捕まえた者には三百ドルの報酬を与える、とお触れが出された。しかし、兄弟二人の気が変わり、農園に戻った。奴隷を続けていく気持ちはさらさらなかったタブマンは、兄弟が無事に家に戻ったのを見届けると、一人で、奴隷逃亡の支援網「地下鉄道」の助けで、すぐペンシルバニアに向けて出発した。

タブマンは、フィラデルフィアまでの九十マイルを、地下鉄道のネットワークを利用した。彼女は安心と恐怖がないまぜになって、自由州ペンシルバニアに入った。 「私が州境の線を越えたとわかったとき、私がその前と同じ人であったかどうかを確かめるために自分の手をみつめた。すべての物が輝いてみえた」。

一八五〇年逃亡奴隷法が成立し、北部にいる逃亡奴隷が発見されると、逮捕されて元の所有者に送り返さなければならなくなり、タブマンの身も安全ではなくなった。

しかしながら、北部の安全地帯にいるよりはむしろ、タブマンは奴隷として生きている自分の家族や他の人を救うことを自分の使命にした。一八五〇年十二月に、タブマンに、姪のケシアートと二人の幼児が身売りされそうだという連絡が入った。ケシアートの夫、ジョン・バウリーは自由な黒人で、ボルチモアでの競売で、自分の妻を落札した。その後、タブマンは全家族のフィラデルフィアへの脱出を支援した。これはタブマンによる多くの救出行の最初のものだった。

タブマンは、十一年間にわたりメリーランドに十三度も密かに潜入し、七十人弱の奴隷の逃亡をカナダへと導いた。この間、彼女は両親、数人の兄弟の他、およそ六十人を自由の天地へ導いた。この救出行を断ったのは、家族でタブマンの夫ジョンだけだった。夫は、新しい妻とメリーランドにとどまることを選んだ。

奴隷解放運動家ウィリアム・ロイド・ギャリソンは、イスラエルの民のエジプト脱出を導いたモーゼに例えて、タブマンを「彼女の仲間たちのモーゼ」と呼んだ。彼女自身一度も捕まることはなく、彼女が手引きした奴隷も一人として途中で捕まらなかったことを誇りにした。彼女は秘密のルートを生涯明かさなかったのでどのルートを使用したのかは明らかとはなっていない。

彼女は、少なくとも十九回南部に戻り、地下鉄道を通して家族や何百人もの奴隷を自由に導いた。生まれつきの知性と尽きることのない勇気で、捕獲の報酬を求めていた報奨金稼ぎらを巧みにかわした。タブマンは「救出行」成功のために知恵を使った。例えば、脱出の第一段階として奴隷所有者の馬と乳母車を使うことだった。土曜日の夜に逃げれば、脱走者の知らせは、月曜日の朝まで新聞に掲載されなかった。奴隷ハンターの可能性があれば、向きを変えて南へ向かう。もし赤ちゃんが泣いて、逃亡者が危険な状態におかれれば、赤ちゃん用の薬を使う…といった具合だ。

 

 

スパイとして活躍

 

タブマンは、南北戦争中も活動を続けた。コックと看護婦として連盟軍のために働いて、タブマンは武装したスカウトとスパイになった。戦争で武装兵士を率いた初の女性として、彼女はコンバビー川急襲作戦を行い、サウスカロライナで七百人以上の奴隷を解放した。

結局、彼女の賞金は四万ドルにまで高騰した。彼女は逃亡者を奪われることはしなかったし、また逃亡者が戻るのも許さなかった。

タブマンは、一八五九年、後にリンカーン政権の国務長官となるウィリアム・シウォードからニューヨーク州オーバンに土地を購入し、親類縁者のための居を構えた。

また南北戦争時には、連邦軍を支援するためサウスカロライナ州に赴き、傷病兵の看護のほか、スパイとして情報の提供、農園の奴隷解放作戦への参加などに活躍した。
「彼女は南北戦争で屈指の女傑だった。しかし、その功績は戦後ずっと評価されなかった」。
(前出の著者アレン氏)

タブマンは戦後三十年以上経った一八九九年まで年金を受給していなかった。また、南北戦争で働いたスパイとしての報酬も支払われていなかった。これらの奉仕に対して政府からは適正な報酬の支払いや顕彰は行われなかった。政府から支給を受けた恩給は南北戦争に従軍した夫に対するものであった。

後に彼女はその報酬の支払いを政府にもとめて、アメリカ議会の年金委員会は、月々二十ドルを支払うことで最終的に合意した。

しかし、戦後、タブマンは、オーバンに戻り、さまざまな仕事をしながら親戚縁者の生活を支えた。一八六九年にはタブマンの家に寄宿していた二十歳年下のネルソン・デイビスと結婚し、一八七四年に養女をもらった。タブマンの生活は困窮を極め、見かねた奴隷解放運動家のサラ・ホプキンス・ブラッドフォードは彼女の自叙伝を出版し、原稿料をタブマンに寄付するほどであった。この頃から女性参政権運動の指導者とも交流が始まり、彼女もその支援のため各地へ講演旅行した。一八九〇年代には若い頃受けた頭部への傷が原因で癲癇の発作や睡眠障害がひどくなり、本人の志願で南北戦争中の兵士のように麻酔なしで銃弾を噛んで開頭手術を受けたという。

二十世紀に入り、タブマンは自分の土地の一部を寄付し、一九〇八年に貧しい黒人の高齢者のためのハリエット・タブマン老人ホームを開設した。体力が衰えていったタブマンも一九一一年に老人ホームに入居。二年後に亡くなったときにはほぼ無一文だったという。 (出典:http://usnp.exblog.jp/17674562/)


彼女を支えた二つのもの、それは銃と神への信仰だった。タブマンは逃亡者らが極度の疲労で心変わりし引き返すことを決めれば、「自由になりたいか、死ぬか」と、携帯していた銃で逃亡者に警告した。それは、奴隷に「死んだ黒人は、口をきかない」ことを教えるためのシンボルでもあった。彼女に背信行為をした者は誰もいなかった。彼女は、声明の中で神への信仰を確認した。「私はいつも、神を誘惑します。私はあなたをいつも信じています。このことはあなたもお見通しでしょう」と。

 

 

ハブマンに新たな歴史

 

奴隷を解放させた女性が、新たな黒人の歴史を作った。二〇一六年四月、アメリカ財務省が、故ハリエット・タブマン氏が、二〇二〇年に発行予定の二十ドル札の表を飾る、と発表した。アメリカ紙幣の表を、アフリカ系アメリカ人が飾るのは初めてだ。

奴隷制廃止論者であり、北軍のスパイでもあったタブマン。現在二十ドル札の表になっている、奴隷所有者だった第七代大統領アンドリュー・ジャクソン氏は、裏側にまわるのは皮肉といえば皮肉だ。新デザインは二〇二〇年に発表される。

 

おわりに!

 

超人的な活躍を見せた彼女が生まれ育った地域は、二〇一三年三月二十五日オバマ大統領が署名した大統領令により三百九十九番目の国立公園ユニットとして指定された。

 

 

表示した以外の参考文献
『ハリエットの道』 日本キリスト教団出版局、二〇一四年
『アメリカは歌う。―歌に秘められた、アメリカの謎』 東理夫、作品社、二〇一〇年。 キャロル・ボストン・ウェザフォード文、カディール・ネルソン:絵、さくま ゆみこ:訳
米紙幣に初の黒人 元奴隷女性のH・タブマン、新20ドル札に ウェイバックマシン(二〇一六年四月二十一日) AFP BB NEWS

 


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