日本のウィスキーの父と母 竹鶴政孝・リタ夫婦の勝利の物語 | 北村はじめの『ちょっと立ち読み』

 

今や世界の頂上を走り続ける日本のウィスキー。シングルモルトやブレンデッド・ウィスキーが世界一に選ばれるまでに至ったニッカウヰスキー。その創業者である竹鶴政孝さんとリタさんのウィスキー造りにかけた人生をとりあげる

ウィスキーの父、竹鶴政孝の生家、竹鶴酒造は広島竹原市にある。竹原市は兵庫と並んで江戸時代から続く酒造りの街。多くの蔵元が最高の日本酒を造るため、酒造技術を磨いていった。そんな町で育ったためか、竹原市の酒造り精神は政孝のウィスキーづくりに少なからず影響を与えていた。

 

 

 

酒の世界・めざめの時


 

竹鶴政孝は、生まれながらにして酒の世界に身を包まれていた。一八九四(明治二十七)、広島県の造り酒屋の三男に生まれ、「酒は、作る人の心が移るもんじゃ。酒は、一度死んだ米を、また生き返らせてつくるのだ」と口癖のように言う父の傍らで、醸し出される酒の泡、酒造りの厳しさが、政孝の血や肉となっていった。

政孝は、暴れん坊で生傷が絶えず、八歳の時、階段から落ちて鼻を強打し、七針も縫う大怪我をしたが、人が感じない「匂い」を感じるようになり、これが後に酒類の芳香を人一倍きき分けられる、ブレンダーとしての研ぎ澄まされた感覚となった。

忠海中学(忠海高校)に進学した頃は猛者で、柔道部に席を置き、「こわい感じの寮長(後輩の元首相・池田勇人氏談)も勤めた。二人の兄は家業を嫌い、政孝が家を継ぐことになり、大阪高等工業(大阪大学)に進み、醸造学の権威・坪井仙太郎博士のもとで学んだが、次第に洋酒に興味を持つに至った。政孝は、卒業後の四月から徴兵検査を受ける十二月までの間、幸い家業の酒造りは暇なので、この期間に、洋酒造りの仕事を実際にしてみようと思うようになった。

 

 

酒造時代・胎動の時


 

大正初期、洋酒メーカーの筆頭は大阪の摂津酒造だった。政孝は、摂津酒造の常務をしている先輩に会いに行くと、阿部喜兵衛社長の部屋に連れて行かれた。

十二月に徴兵検査を受け、除隊後に家業を継ぐこと、その前に洋酒造りを経験したいと話すと、入社を許された。当時の洋酒はブドウ酒以外はイミテーションだったが、政孝は蒸溜のベテランにうるさがられるほどに、何でも吸収し無我夢中で研究したため、入社間もなく洋酒関係の主任に抜擢された。この時に、寿屋(サントリーの前身)ワイン製造を担当したことから、社長の鳥井信次郎や、日本製壜の山本為三郎(後の朝日麦酒社長〉を知るようになった。

政孝は、摂津酒造での洋酒造りは十二月の徴兵検査までという考えだったが、徴兵検査の時、兵役を免除された。ある日、政孝は社長に呼ばれ、「スコットランドに行って、モルトウィスキーの勉強をしてくる気はないか…留学して技術を習得してきてほしい」と告げられた。

ウィスキーの勉強が本場でできるという喜びと、社長の自分への信頼に、政孝は感動した。しかし、両親は悲しみ、「政孝が帰ってくるのを楽しみに今まで酒を造ってきたのに」と落胆した。

阿部社長は熱心に説得し、両親も社長の熱意に納得し、やむなく、家業を親類の酒屋に譲ることにした。

 

 

スコットランド留学・出会いの時


 

政孝は、一九一八(大正七)年七月、神戸港からサンフランシスコに向かい、二ヵ月ほどサクラメントでブドウ酒製造の研修を受けた。

同年、政孝が神戸からサンフランシスコまで乗船した東洋汽船の「天洋丸」はサンフランシスコ航路を開拓した東洋汽船の優秀客船で明治四十一年竣工。天洋丸は、日本で造船された初の一万総トンを超える大型船であった。

ニューヨークから乗った船の乗客は、第一次世界大戦であったため、ヨーロッパの戦場に向かう兵隊が大半だった。明日はリバプールに着くという日の深夜、政孝の乗った船はイギリスの貨物船と衝突し、貨物船の生存者は、たった一人という悲惨な事故にも出会った。

イギリスに着いた政孝は、グラスゴー王立工科大学で学びながら、教授に紹介されたウィスキー蒸溜所に通い、蒸溜技術を精力的に吸収し、後に日本でウィスキーを造る時のバイブルとなる、実習ノートを克明につけるという毎日で、本格的なウィスキーを造るという夢を抱いていても、異国での暮らしは孤独だった。

ある日、政孝は、大学で知りあったエラという女性の弟に柔道を教えるため、彼女の家を訪れ、大きな瞳の女性に出会った。その女性がエラの姉リタで、いく度か会ううちに政孝は強く惹かれ、ますます夢を膨らませ、ウィスキーの研究に没頭した。リタが末の妹のルーシーと、政孝が蒸溜の実習をしているハイランドを旅行した時、旅行に合流した政孝はリタに結婚を申し込み、リタはこれを受けたが、家族は反対した。一九二〇年、政孝とリタは登記所に結婚を届け出て、この年の秋、アメリカ経由で帰国した。

 

 

 

寿屋時代・雌伏の時


 

政孝が帰国した時の日本は、第一次世界大戦後の深刻な経済不況に見舞われており、摂津酒造も本格ウィスキーを製造する経済的な余裕もなく、計画そのものが中止となったため、政孝は会社に席を置く意味を失い、帰国の翌年、退社した。

ウィスキー造りの当てもないまま、政孝はリタの知りあいの計らいで、中学校で応用化学を教え、リタも学校で英語を教えるかたわら、柴川又四郎家や加賀正太郎家などでピアノや英語の家庭教師を引き受けていた。政孝のウィスキー造りを離れた寂しさを、リタの明るさが忘れさせてくれた日々だった。

一九二三年の梅の咲く頃、寿屋の鳥井信治郎社長が訪ねてきた。鳥井社長は摂津酒造時代の知りあいで、国産ウィスキーを造るため、スコットランドに技術者の派遣を依頼していたが、「タケツルという適任者が日本にいる」という報告を受けたため、政孝に入社を要請しに訪れたのだ。政孝は、「技術面は全部任せる、十年間働く」という条件で入社し、蒸溜工場用地の選定にあたり、スコットランドの気候風土によく似た北海道を推したが、経済的効果から、京阪地区から選定して欲しいという鳥井社長の意見を受け入れ、日本初のウィスキー蒸溜工場を京都の山崎に建設することに決定した。やがて、政孝は自分の信念に忠実でありたいと、一九三四年、寿屋を退社した。

 

 

余市 ― 理想の郷・終生の大地


 

一九三四年、政孝は北海道の余市にきた。「よいウィスキーは自然がつくる」という真実を、スコットランドで身をもって会得した政孝にとって、本物のウィスキーを造ることができる最良の土地とは、ハイランドの自然に酷似した余市以外になかった。

「本物のウィスキーをつくる」という信念もった政孝はイギリス留学から戻って、ウィスキー造りに適した地を探し求めた。余市―北海道にある小さな町であるが、ウィスキーの理想郷といわれるスコットランドとすべての条件が似っていた。

そして、何よりも、樽の中で「呼吸」する原酒にとって、余市の自然風土は最適な理想郷であった。

政孝が自信をもって選んだ余市…ウィスキーの原酒工場を作る場所は…

一 空気のきれいなこと
二 付近に川のあること
三 夏でもあまり温度があがらないこと
四 ピート地帯であること

(竹鶴政孝著『ウィスキーと私』より)

政孝は、リタを通じて知りあった芝川又四郎氏や加賀正太郎氏、英国時代の既知の柳沢保恵氏と共同で出資し、「ニッカウヰスキー」の前身の「大日本果汁株式会社」を設立したが、最初から潤沢な資金があったわけではない。ウィスキー製造には二機の蒸溜機が必要だが、当初は一機のみを設置し、蒸溜が終わるたびに、内部を洗浄し再び蒸溜するという、非効率と重労働に耐えながら原酒を仕込みつづけた。

ただ、ウィスキーは貯蔵庫から出て、初めて商品になるため、原酒が熟成の眠りについている間、資金もまた共に眠ることになる。

政孝と社員はこの間、余市特産のリンゴを生かし、ゼリーやジュース、ワインを製造・販売して苦境を切り抜けた。その努力が実った一九四〇年、第一号ウィスキーが馬車で出荷される時には、政孝と社員はウィスキーの箱を積み上げた馬車を、一列になって見送った。

ウィスキーへの夢を抱き、「ウィスキーは自然の恵み」という信条のもと、政孝は、「品質のニッカ」といわれるウィスキーを造り続け、スコットランドの魂であるウィスキーを日本に根付かせた。そして、一九七九(昭和五十四)年、リタの待つ丘で眠りについた。

 

  

 【ウィスキーの豆知識】 

密造者たちからの贈り物…

ウィスキーの貯蔵・熟成用として「樽」が使われるようになったのは、十八世紀ごろからと言われる。それまでのウィスキーは、蒸溜しただけの荒々しい、無色透明の酒にすぎなかった。それが、「密造者たちからの贈り物」によって、樽による貯蔵・熟成という品質向上のプロセスが明らかになり、広く人々に知れ渡っていった。

十八世紀、スコットランドではイギリスによる重い酒税に悩まされていた。困った人々は、酒の密造にはしり、さらに重税から逃れるために、蒸溜後の原酒をシェリー樽に詰めて、山間部や川沿いにある洞窟などに隠した。…やがて、年数が経ち、隠していた樽を開けると、なんと中の液体は琥珀色に変わり、芳しく美味しいお酒になっていたのだった」。

 

 

 

 

黒い瞳との出会い・船出


 

少女の頃から、文学を愛する物静かな少女だったリタは、一九一九年、二十三歳の時、竹鶴政孝と名乗る東洋の青年に出会った。弟に柔道を教えるために訪れた彼は寂しげだったが、日本で本物のウィスキーを造るという夢を熱っぽく語る姿にリタは好感をもち、政孝が定期的に訪れ、楽器を奏でたり家の外でも会うようになると、いつしか思いは募るようになった。

その年のクリスマス、家族は政孝を招き、プディング占いに興じた。プディング・ケーキを切って食べる時、六ペンス銀貨が入っているとおカネもちになり、銀の指ぬきを当てると、二人は将来結ばれるという占いだった。政孝が六ペンス銀貨、リタが銀の指ぬきを当てると、家族は歓声をあげてはやし立てた。

しかし、政孝がリタに結婚を申し込んだ時、家族は反対した。リタは政孝と共に歩む決意をし、戸主の許可を必要とする教会での結婚をあきらめ、登記所での署名結婚という方法を選んだ。そして一九二〇年、リタは政孝と共にリバプールから日本に向けて船出した。リタ二十四歳、政孝二十六歳だった。

 

 

東洋の国・二人の夢


 

一九二〇年の晩秋、リタは人々の好奇の目にさらされながら日本の土を踏んだ。政孝以外に頼る人のいない、スコットランドとはまったく別の世界での生活…。しかし、リタは、大阪の教会に通うなどして、日本の社会になじもうと積極的に周囲の人たちと打ち解け、政孝の気づかぬ間に知人の輪を広げていった。

しかし、悩んだ末に政孝は摂津酒造を辞め、ウィスキー造りの当てもない日々を過ごしていた時、リタは政孝の夢を信じ、教会で知りあった友人を通して、学校で英語の教師を勤めたり、ピアノの家庭教師をしたりして政孝を励まし続けた。

政孝が寿屋に入った時、ひとりで過ごす時間が長くとも、二人の夢が叶うことの喜びの方が大きく、リタは嬉しかった。しかしリタの思った通り、政孝は自分の信念に忠実に生きる男だった。自分の理想を実現するため、政孝は寿屋を辞職した。この時、リタが大阪や京都で親しくしていた芝川又四郎氏や加賀正太郎氏に相談することを勧めると、政孝はもう一人の知人、柳沢保恵氏と四人で会社を起こし、一九三四年、余市に発った。そして、リタも翌年の秋、二人の夢の大地、余市へと向かった。

 

 

余市・故郷の風景


 

余市は、政孝の言う通り、故郷のスコットランドに似ていた。リタは余市に来て初めて、自分たちの夢が確実になるという実感をつかんだ。そして、自分の役割は政孝との生活にあると考え、政孝の食生活と健康に気を配った。

やがて『ニッカウヰスキー』の第一号ウィスキーが完成し、二人の夢は形になった。しかし、日本は太平洋戦争へと突き進み、リタは敵国人として常に監視され、自由に振る舞うことなどゆるされず、侮辱と白眼視に堪えなければならない日が続いた。リタの苦痛は政孝の愛なしには癒されず、政孝もリタを愛する以外、リタの心の均衡を守る方法はなかった。

戦争が終わり、威という養子を迎え、その威に歌子という伴侶が得られ、孫が生まれ、そして妹のルーシーが訪ねてくるなど、リタはやっと平安な時代を迎えることができた。
しかし、結婚以来、音信が途絶えていた妹のエラから、手紙とリタのイニシャルが刺繍された白いハンカチが届いた時、リタは、過ぎ去った四十年という時間の長さと故郷を思い、手紙とハンカチをにぎりしめ、自室にこもっていた。

一九六一(昭和三十六)年、リタは政孝に手を握られ、永遠の眠りについた。

 

 

 

異国の土地で出会い、異質の文化の中で生きた、強靭な精神と心優しい二つの魂。リタと政孝は、故の孤独の中で支え合った二人だった。まるで引かれ合うように二つの魂は出会い、お互いの愛だけを頼りに、只ひたすら夢に向かった二人。

政孝は東洋的精神力で、スコットランドという西洋の文化の中に飛び込み、身一つにその文化であるウィスキーを取りこみ、日本の社会に根付かせ、リタはスコットランドで育まれた感受性を持ちながら、日本の社会に溶け込み、日本人として生きようとしていた。

大正から昭和という時代、偏見に満ちた人々の視線が厳しかった時代のことである。二人の軌跡は、そのまま時代の奇跡でもあり、歩いたその道は決して平坦ではなく、むしろ苦難の連続だった。

自分の技量のみを信じ、ぐいぐいと人を先導していく政孝、いつも自分を厳しく見つめ、一途に政孝について行くリタ、その二人を援助してくれた人々も、二人の魂に惹かれた人々だった。

リタと政孝は、リタの故郷の丘・クリスヒルに似た高台に眠っている。そこからは二人が夢見たウィスキー工場が見え、墓石には二人の名前が、ならんで刻まれている。

 

 

 

二〇〇一年、英国のウィスキー専門誌『ウィスキーマガジン』が、「ワールド・ウィスキー・アワード(WWA)」の前身「ベスト・オブ・ザ・ベスト」を初開催。マガジン誌上での上位高得点のウィスキーが選ばれ、英国、米国、日本の専門家がブラインド評価を行った。結果、『シングルカスク余市10年』が、スコッチ、アメリカン、アイリッシュなど各国のウィスキーを抑え総合第一位を獲得。ジャパニーズ・ウィスキーが〝世界最高峰〟と認められた瞬間を迎えた。

政孝の夢描き続けるニッカ。インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ2017金賞受賞した「竹鶴25年ピュアモルト」。極めて少ない超長期熟成原酒の調和。先々の原酒の在庫を計算したレシピ調整。そうした課題を乗り越え、誕生したのが「竹鶴25年ピュアモルト」。竹鶴政孝・リタの精神を受け継ぐ後継のブレンダーチームは、さらに雅(みやび)の世界を追及している。真の後継の人とは、勝利の旗を振り続ける人である。

※竹鶴25年ピュアモルトは現在販売中止している。

 

 

資料提供
この特集は、ニッカウヰスキー株式会社北海道工場の全面協力で、できあがりました。厚くお礼を申し上げます。


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