ブロークンヒル その歴史舞台… | 北村はじめの『ちょっと立ち読み』
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    プロローグ

    NSW州最西部の町ブロークンヒルに、シドニーからドライブしたことがある人は、少ないだろう。シドニーから陸路一千キロは、ジェフリー・ブレイニーの著書のタイトルではないが、やはり“距離の暴虐”を感じる。

    最寄りの最大の町は、南に三百キロ行ったVIC州のミルジューラ。最寄りの大都市では、南西に五百キロのSA州の州都アデレードだ。このような遠隔地での位置関係のために、ブロークンヒルはSA州と強いつながりを持ち、NSW州にありながら、東部標準時間より三十分遅れた中部時間で生活している。

    かつてこの地域への主な通商路は、遠くダーリング・リバーしかないほどの大過疎地だった西の平原の町ブロークンヒルが何故存在できたか、一八七五年以降の鉱物資源の発見・発掘に行き着く。この年、金、銀、銅とオパールの鉱床がみつかったのだ。ブロークンヒルに、光を当ててみたい。

     

     

    ブロークンヒル周辺地域で最も初期の移住者は先住民アボリジニーのウィルジャカリ族で、恒久的な水源不足のため断続的にしか居住していなかったと考えられていた。しかし、ヨーロッパの移住者に知られていなかった地下水の穴や井戸水で、その先住民一族が暮らしていたという事実が分かった。これらの命の水源の多くは、未だに非先住の人々には秘密のままだ。オーストラリアの多くの地域に見られるように、白人移住者の病気と侵略を恐れて、彼らはもともとの土地から移動したのだ。

     

    この地域に初めて入った白人は、当時のNSW州測量長官、トーマス・ミッチェル少佐で、一八四一年だった。三年後の一八四四年に、内陸の海を探していたイギリス人探検家チャールズ・スタートは、自分の探査旅行を阻んだ目前の山脈をみて、バリア山脈と名付けた。

     

    『ブロークンヒル』という単語は、そのチャールズ・スタートが、ひびが入っているようにみえた山の印象を言葉に表し、同年の彼の日記の中で最初に使った。地元のアボリジニー少数民族が、「飛び跳ねる頂上」と呼んでいたのと符合する。

     

    その後、バーク・ウィルズ探検隊(ロバート・O・バークとウィリアム・J・ウィルズが率いた総勢十九名の探検隊)は、一八六〇年から一八六一年にかけての有名な遠征で、近くのメニンディーにベースキャンプを設けて、先人を阻んだ山を越えた。彼らは大陸縦断には成功したが、全員が生きて帰還することは適わなかった。しかし、救出のために各方面から派遣された救助隊はすべて大陸を渡りきり、未知の内陸部開拓の大きな礎となった。

     

     

    鉱山の七人の侍

     

    ブロークンヒルという町の成り立ちは、一八八三年に、マウント・ギップスの境界をパトロールしていた境界騎馬隊のチャールズ・ラスプによるところが大きい。ブロークンヒルの町は、マウント・ギップス大牧場の一部「ブロークンヒル・パドック」から発展した。牧場マネージャーのジョージ・マカロックは、多くの男を雇用した。

     

    マウント・ギップス牧場で働いていた全員の名前を記しておこう。

     

    ①ジョージ・マカロック(一八四八-一九〇七)
    牧場マネジャー
    ②チャールズ・ラスプ(一八四六-一九〇七)
    牧場監視係
    ③デイビッド・ジェームズ(一八五四-一九二六)
    タンクと囲いの担当者
    ④ジェーム・ズプール(一八四八-一九二四)
    デイビッド・ジェームズの下請け
    ⑤ジョージ・アーカート(一八四五-一九一五)
    帳簿担当と監督者
    ⑥ジョージ・リンド(一八六一-一九四一)
    店主
    ⑦フィリップ・チャーリー(一八六三-一九三七)
    牧場監視係として雇用された牧羊業者

     

    一八八三年に、チャールズ・ラスプは、発見した鉱石が錫と思ったが、サンプルは銀と鉛だった。サンプルを取った鉱石帯は、銀、鉛、亜鉛鉱石では世界最大、かつ最も豊かであると判明した。ブロークンヒル近世史の始まりだった。

     

    ラスプと六人の仲間は、各人が七十ポンドを出資して、シンジケートを構成し、一八八三年に、「シンジケート七」としてブロークンヒル・プロプライエタリー社(BHP:後のBHPビリトン、現在のBHP)を立ち上げて創立者になった。

     

    この七人が、一八八三年に創立したブロークンヒル採掘会社として、同年九月に、鉱脈沿いに七鉱区(各鉱区四十エーカー)の採掘契約をした。

     

    最初はいい結果が出なかった。プール、アーカート、リンドの三人は、ブロークンヒル・プロプライエタリー社が大当たりをする前の一八八五年に株を売却してしまった。残りの男たちは鉱脈帯に残る六鉱区の採掘契約を行った。

     

    ブロークンヒルで発見された最初の鉱石帯は、山から突き出た「ブーメラン」のような奇岩を形成したユニークな光景だったという。ラスプが銀などを発見した最初の場所は、もう今はない。時代を経て、バリア山脈の全地域が採掘されてしまったからだ。

     

     

     

     

    元日の流血事件

     

    一九一五年一月一日に、ブロークンヒル近くで起こった十一人の死傷者を出すブロークンヒルの戦いが起きた。

     

    事件は、恒例の新年元日に、ブロークンヒルの近くのシルバートンのロッジが主催するピクニックの日に発生した。犯人のグールとアブドゥラー師は、ブロークンヒルからシルバートンに向かう満員の無蓋列車を狙って、町から三キロの場所で列車を待ち受けた。列車が来ると、彼らは二丁のライフル銃で二十発から三十発を発射した。

     

    行楽客は、最初、列車の通過に合わせて祝賀の銃が発射されたと思った。

     

    わずか十七歳の少年が即死した。ウィリアム・ジョン・ショーという衛生局主任が射殺され、その娘もケガをした。

     

    犯人二人は、居住地の西部のラクダ・キャンプの方へ移動する途中で、小屋に避難した男性一人を殺した。通報を受けた警察は最寄りの軍基地と連絡をとり、兵士が派遣された。ケーブルホテルの近くで犯人たちがミルズ巡査と出くわして銃撃し、同巡査が負傷した。ケーブルホテル裏手の家で、木を伐採していた六十九歳の男性が、流れ弾で死亡した。四人目の犠牲者だった。

     

    犯人のグールとアブドゥラー師は、白い岩の中に逃げ込んだ。九十分ほどの銃撃戦が続き、二人は警察官と陸軍将校らに殺された(異説もある)。

     

     

    経歴

     

    犯行に及んだ二人のうち、バドシャ・マホメッド・グール(生年は一八七四年頃)はアイスクリーム行商人。もう一人は地元のイスラム教のアブドゥラー師(生年は一八五四年頃)で、屠殺肉を売る肉屋であった。二人とも、かつてブロークンヒルでラクダ使いをしていた。

     

    彼らは手製のオスマントルコの旗を掲げた。当時始まった第一次世界大戦。オスマン帝国は、オ-ストラリアの敵だった。それは、自分たちのアイデンティティを隠すための小道具だったのか。後に英国植民地のインド(現パキスタン)人で、イスラム教徒の「Ghans」と分かった。

     

     

    遺されたメモ

     

    アブドゥラー師が遺した手紙の中で、「自分の信仰のためと、スルタンへの命令に従って命を棄てる。しかし、衛生局主任検査官ブロズナンへの恨みを晴らすために、まず彼を殺すことが私の狙いであった」と書いた。

     

    事件の真相は不明だ。五十年前に地元紙が報じた記事にヒントがあるかもしれない。「事件の責任の一部は、ブロークンヒルの人々に帰せられなければならない」と書く。さらに、アブドゥラー師は、以前、「ならず者が石を投げつけてくる」と漏らしていたという。彼はターバンをかぶらなくなった。人種の壁があったとも取れる記事だ。

     

     

     

    ♪月の砂漠を はるばると…

     

    十九世紀後半、約二万頭のラクダが世界のあらゆる地域からオーストラリアに連れて来られたと推定される。ラクダ使いも、カシミール、シンド州(インド)、ラジャスターン、エジプト、ペルシャ、トルコ、パンジャブ、バルチスタン、元のアフガニスタンの州、今のインドやパキスタンなどの諸国、諸州から来豪した。彼らを総称して「アフガニスタン人」とか「ガーン」と呼んだが、実際はアフガニスタン人の末裔は希少だった。今では、ラクダ使いということを説明するために、「アフガン」「ガーン」が広く使われている(出典:オーストラリア政府:文化ポータル二〇〇九年資料他)。この特集でも、「ガーン」で統一する。

     

    最初の「ガーン」のラクダ使いが、一八六〇年六月に船でメルボルンに到着した。それは、バークとウィルズ探検隊に同行する三人の男と二十四頭のラクダだった。

     

    アフガニスタンの末裔は希少だったというが、すごい奴がいた。名前をアブドゥル・ウェードと言った。「アフガンのプリンス」「アフガン・キング」と呼ばれ、オーストラリアでのラクダ取り引きの先駆者だった。

     

    彼は、一八七九年にアフガンからSA州に来て、ラクダ使いに徹し、すぐさま八頭のラクダを買う金を貯めた。彼はアフガンのラクダ使いと組んで、一八九三年には、アフガニスタンからラクダの輸入を開始。彼は最も有力なラクダ貿易商となり、二年後には、ウェードは、オーストラリア最大のバーク輸送会社を設立した。彼は二ヵ所の育種所を作り、ラクダの現地生産に切り替えた。一九〇五年に、六百頭から七百頭のラクダを所有していたといわれる。生き馬(ラクダ)の目を抜くアフガン野郎だった。

      

     

    十トンの荷物を引く

     

    ラクダ使いは十九世紀にオーストラリア内陸部で数百台のラクダ列車をひき、二十世紀の声を聞くまで、それらのラクダ列車は、ほとんどすべての主な内陸開発計画の輸送を担った。荷馬車も製造した。水、郵便物、機器、測量や工事現場で使う物資や資材の運搬は多岐にわたった。不屈の力をもつラクダ、ラクダに勝るとも劣らない屈強なラクダ使いは、陸上電信の建築時などの重大なプロジェクトに欠かせなかった。(出典:パワーハウス博物館、オーストラリア国立公文書館二〇〇七年、二〇〇八年資料)。

     

    ラクダは、重いワゴンを引いた。十二頭以上のラクダ隊が、十トンワゴンを引いて一日二十五キロも移動した(出典:パワーハウス博物館資料二〇〇八)こともあった。大量輸送に欠かせないラクダであるが、奥地の気候は荷物を運ぶ馬や他の動物には厳しすぎる。

     

    その後の四十年以上、「ガーン」とラクダは、未知の奥地のほとんどすべての探検隊の遠征と科学調査隊に重要な役割を果たした。その結果、「ガーン」は、カタジュタ、ウルルという中央部では最初の非先住民となった。探検家が通った場所には、アラナー・ヒルやカムラン・ウェルなど「ガーン」の名前が地名に付けられた。

     

    バークとウィルズのオーストラリア初の南北縦断の十年後に、アデレード=ダーウィンを陸上電信でつなげたのも、「ガーン」+ラクダだった。これは、豪―英間を直接接続する重要な回線だった。

     

    そのすぐ後に続いたポート・オーガスタからアリススプリングスまで、有名なガーン鉄道建設。『アフガニスタン急行』が最初の名前だったが、なじみやすい愛称名「ガーン」に変わった。

     

      

     

    フーシュタ

     

    「ガーン」は、ほとんど私物なしで遊牧生活を送る。彼らの旅は身軽だ。常に移動の準備ができていた。

     

    彼らは孤独な旅人であった。オーストラリアの移民法では、夫人や子供はオーストラリアへの同伴は認められなかった。男たちは、一般に期間限定で仕事の契約をし、働きながら、厳しいハラールの食習慣を守り、仲間のラクダ使いと共同生活をした。友情やイスラム教が教える『ウンマ』という共同体意識も薄かった。「ガーン」は、砂漠の中、何もない低木地、または田舎で、一日五回の祈りを捧げた。イスラム教では、祈りという行為に重きを置く。イスラム教の礼拝(サラート)を、メッカの方向に向かって捧げた。移動しながらキャンプし、旅と旅の間に「ガーン」の集落で休養をとる。彼らの生活様式は、移動即生活という巡礼モードなのだ。

     

    「ガーン」は種々の言葉を持って来た。オーストラリア英語の中に居場所を発見した唯一の言葉がある。それは、命令の言葉「フーシュタ(hooshta)」であった。ラクダに、ひざまずくか、立ち上がるかを命じる時に使う言葉だ。オーストラリアでは、それが「フーシュ」となる。(出典:パワーハウス博物館二〇〇八年資料)

     

     

    苦労の絶えなかった「ガーン」

     

    本質的に、「ガーン」が働いた町には三つのグループがあった。ひとつは「ガーン」。先住民アボリジニー。そして町に住むヨーロッパ人。地元の先住民の居住区と一緒になったガーンタウンは、町の中心にあったわけではない。常に『その他の人たち』である「ガーン」は、初期の頃のキャンプでは一般に白人たちから離れて住んでいたが、その後は、白人の定住地のはずれの「ガーン」の集落に住むようになった(出典:パワーハウス博物館二〇〇八年資料)。

     

    白人のラクダ使いの強力なロビーとしての労働組合は、「ガーン」のラクダを輸送ビジネスから排除するために、長い間「ガーン」に対する人種差別と敵意で固まった。一九〇三年にはウィルカニア(ブロークンヒルより二百キロシドニー寄りの小さな町)のヨーロッパ人のラクダ鉄道経営者は、「ガーン」のラクダ乗り全員をヨーロッパ人に差しかえてしまった。

     

    ラクダ使いがNSW州の歴史と発展の中で相当の役割を果たしているにもかかわらず、彼らに関する専有情報が圧倒的に欠け新国家「オーストラリア」の社会構成の中で、彼らの文化は忘れられた存在だった。アボリジニーの人々とともに、「ガーン」は、二十世紀初期の人種差別と、さらには社会的、経済的無視を経験したと言える。

     

    しかし、ラクダから車へと輸送手段が変わると、ラクダの競争力は急速に失われた。第一次世界大戦までに、NSW州のラクダと「ガーン」に残された居場所と目的はほとんどなくなり、大戦後は、「ガーン」のラクダ使いは大幅に消滅した。荒野へ放したラクダ使いも多い。野性のラクダが大量に残ったのはこのときからだった。

      

     

    エピローグ

      

    ブロークンヒルは、オーストラリア最長の寿命を生きる鉱山都市だ。ブロークンヒルは、かつて世界最大の鉛、亜鉛、および銀の埋蔵量の富の上に築かれた。現在斜陽にはなったが、年間まだ約二百万トンの鉱物を産出している。ブロークンヒルの百三十年の歴史は、高さ三十メートルを誇る巨大なボタ山に象徴される。

     

    全体が貧民街のようであった時に名付けられた、『キャンバス・タウン』ついで「シルバー・シティ」「西のオアシス」「奥地の首都」などいくつもの名前をもつブロークンヒル。

     

    今のブロークンヒルは、地下を掘るのではなくて、降り注ぐ太陽光を取りこみ始めた。世界でも驚異の日照時間を利用して、二〇一五年に南半球で最大規模の太陽熱発電所が完成した。将来は「ソーラー・ファクトリー」の異名をとるかもしれない。

      

    【引用文献以外の主な参考文献】
    Whyte, Brendan. 'Propaganda eats itself: The 'Bulletin' and the battle of Broken Hill'. Sabretache, Vol. 57, No. 3, Sep 2016: 48-57. Online
    Breen, Jacqueline. "Broken Hill remembers victims of 1915 attack by gunmen brandishing Turkish flag". ABC News. Retrieved 1 January 2015.

    "Billiton History".
    www.bhpbilliton.com.
    Retrieved 18 April 2011.

    "Treasure Hill on Sheep Station". The Argus (Melbourne, Vic. : 1848 - 1957). Melbourne, Vic.: National Library of Australia. 2 September 1937. p. 8. Retrieved 20 July 2013.

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