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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


もう一人の命のビザ発行者

31/01/2018


 

第二次世界大戦は、一九三九年から一九四五年までの六年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソ連、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争だった。
今回の話は、一九三九年のポーランドから始まる。
一九三九年十月六日に、ドイツがポーランド西部を、ソ連がポーランド東部を分割占領。一九四〇年五月までに、最低一万~一万五千人のユダヤ人が、ドイツとロシアが占領するポーランドから中立のリトアニアに脱出。
一九四〇年六月一五日、ソ連がバルト三国に侵攻。八月三日、 バルト三国を併合。 
一九四〇年、在リトアニアの日本国代理領事であった杉原千畝が、当時リトアニアから行き場を失った二千人以上のポーランド系ユダヤ人避難民に、最終目的地まで行けるように、日本の通過ビザを発行したことは、私たち日本人が誇りにできる人道行為であった。しかし、彼に関する広範な情報や出版物は、彼らユダヤ人の脱出物語の一部しか伝えているに過ぎない。
日本通過が可能になる目的地のビザを、避難民が誰から、いかにして取得したか、なぜ日本に着けたのか、という物語はほとんど知られていない。「物事には、見えない物がある。それこそが重要かもしれない」と言ったのは、ガリレオ・ガリレイだ。

 

 ヤン・ツバルテンダイク 
 

ソビエト占領下のリトアニアの一九四〇年六月後半。リトアニアの最大都市ビリニュスのポーランド系ユダヤ人の避難民は、迫り来るナチスの脅威からできる限り遠く離れようと、必死で脱出の方途を探し求めた。リトアニアの首都、カウナスではほとんどの領事館はすでに閉鎖し、避難民にとって少しの猶予もなかった。しかし、オランダ領事館は閉館していなかった。

ヤン・ツバルテンダイクは、一九三八年後半にオランダを出発して、オランダの電気機器メーカー・フィリップスのリトアニア・カウナス支店長として赴任した。妻エルナと二人の子供、エディスとヤンは、一九三九年五月に合流した。

一九四〇年五月十日に、ドイツはオランダを侵攻した。数週間後、在バルト三国のL・P・J・デ・デッケル・オランダ大使は、ツバルテンダイクに、リトアニアの臨時領事を引き受けるように頼んだ。ツバルテンダイクは、ソ連がリトアニアに侵攻する一日前の六月十四日に正式に臨時領事に任命された。

 

 ペスラ・レヴィンのこと 

 

この特集のキーワード「キュラソー・ビザ」のいわれを知っておく必要があろう。
一九三九年十月、ユダヤ人を中心とする戦争避難民が大量にリトアニアに流入した。まだ独立国だったリトアニアからなら、他国に移住しやすいのではないかと思われたからだ。多くのユダヤ人学校がやがて来る脅威から逃れるためリトアニアに移った。

一九四〇年六月下旬に、イサク・レヴィンの妻、ペスラ・レヴィンは、ソ連占領下のリトアニア脱出のことで、デ・デッケル大使とツバルテンダイク領事に助けを求めた。彼女は、一九三五年にポーランド人のイサクと結婚するまでは、オランダ国籍で、結婚後はポーランド国籍となった。

ポーランドからリトアニアの古都ビリニュスに移ったペスラは、まず、カウナス市のツバルテンダイク名誉領事に、彼女がポーランド・パスポートにオランダ領東インド諸島へのオランダ・ビザをもらえるかどうかを問い合わせた。ツバルテンダイクは、「ノー」と答えた。再確認のため、彼女はデ・デッケル大使に手紙を書いた。
 
大使からは、「カリブ海のオランダ植民地行きには、ビザはまったく発行されないので、自分がどうやってもお役に立てない。そしてオランダの植民地に入るには、キュラソーの現地総督から、許可をもらわなければならない」と返事が来た。

ペスラはまた、大使に手紙を書いた。ペスラとしては、とにかく、キュラソー行きを希望しているわけではない、と書いた。

大使の回答は、「あなたのパスポートを私に送ってください」ということになった。パスポートは、数日で戻ってきた。そこには「スリナム、キュラソーや、アメリカ大陸の他のオランダ植民地への外国人の入国に、入国査証は不要」と、大使の手書きのフランス語で書かれていた。一九四〇年七月十一日付けだった。この付記が、「キュラソー・ビザ」として知られるようになった。この付記はビザと同じ印象を与えたが、キュラソー入国には、総督の上陸許可が必要という文言は省かれていた。

ペスラの夫、イサクは、七月二十二日、ツバルテンダイク領事の所に行き、デ・デッケル大使が書いた内容にならって、領事は、リトアニア人の安全通行旅券に文言を複写した。一九四〇年七月二十二日付けだ。

デ・デッケル大使が発行したキュラソー・ビザは、七月十一日にペスラ・レヴィン宛のビザ一件のみだった。レヴィン氏によれば、七月二十二日にイサク・レヴィン宛のビザがツバルテンダイク領事の第一号ビザだ。その後、領事は多数のビザを発行した。 

もちろん、もしこの付記に必要な「上陸許可云々」の文言が含まれていたならば、それは無駄になったろう。それなしでも、意図した目的地に見せかけることができた。それは、次の段階でまさに必要とされたものであった。つまり、日本を通過してキュラソーという目的地まで旅をするのに、スギハラが通過ビザを発行しやすくなったのではないか。

 

 

 ガトワースのこと 
 

初期段階のキュラソー・ビザについて、ナタン・ガトワースが経験した別のエピソードがある。この人は、オランダ人で、リトアニア・テルシャイにある神学院に学ぶ二十三歳の学生であった。ガトワースは、オランダのパスポートで、アメリカの近くのオランダ領植民地キュラソーまで行こうとしていた。 

七月半ばごろ、ガトワースは、自分と一緒にキュラソー行きを希望していた神学院のポーランドとリトアニアの友人たちのために、キュラソー・ビザが発給できるかどうかを問い合わせた。 
ガトワースも、レヴィンの妻と同じことを言われた。すなわち、外国人なら、キュラソー入りにビザは全然必要ではない、と。なぜなら、キュラソー総督が、上陸の許可、不許可を決める唯一の裁量権を持っていたからである。ガトワースは、デ・デッケル大使が書いたフランス語のテキストをツバルテンダイクが持っていることを覚えていた。デッケルは、ビザは全然必要ないが、上陸許可は必要と言った。ツバルテンダイクは、ガトワースの友人が、日本の通過ビザ申請を有効にするために、レヴィン一族に与えたのと同じものを発行することで快く合意した。 

ガトワースは、ビリニュスのユダヤ人社会の指導者、ゾラフ・バルハフティク(イスラエル独立宣言の署名者の一人。後のイスラエル宗教相)に、そのことを伝えた。バルハフティクは、ガトワースを通して、日本の通過ビザを申請する者にも、同じ表記をしてくれるか、(ビザのように見せるために)領事の印鑑を加えてくれるかどうかを、ツバルテンダイク名誉領事に尋ねると、ツバルテンダイクは同意した。バルハフティクがその話を拡散すると、予想外の連鎖反応が起きた。数時間以内に、何十人という人が、ツバルテンダイクのいる領事館に訪ねてきた。 

この問題では、当初、デ・デッケル大使とツバルテンダイクは、レヴィンとグトワースの一部の人にだけ、この修正付記を意図して書いた。しかし、以後は、ツバルテンダイク自らが、誰にでもその付記を適用した。七月二十四日~二十七日までの次の四日間に、およそ千三百件以上のビザを手書きし、七月二十九日から八月二日までに印鑑を使って、さらに少なくとも千五十件のビザを発行するなど自分でも想像もしなかった。現在までに知られている「命のビザ」の最高の査証発行番号は八月二日にエリアズ・クピンスキとその家族に出したNo.2, 345であった。 

 


 

 四人の重要人物 
 

ここまで、初期段階で四人の重要人物がいたことが分かった。
 

1)この時こそ好機と認識したペスラ・レヴィン夫人
2)彼女の希望に想像力で応えたデ・デッケル大使
3)非オランダ人友人の希望を叶えようとしたナタン・ガトワース
4)ひと握りの個人を越えて、ビザの拡散に火を付けたゾラフ・バルハフティク

 

ツバルテンダイクは、その爆発的に広がるビザ申請に応えて、八日間の嵐の中に自ら進んで乗り出した。それは、即断、即決を必要とする行動だった。彼は、大事件を防げる立場にいると感じ取っていた。彼が出した〝ビザもどき〟のキュラソー・ビザが、脱出のルートを拡大できるかもしれなかった。ガトワースが、インタビューで深い満足の声で言った。「それは見事なトリックであった」と。

 

 ツバルテンダイクとスギハラのビザ協奏曲 

 

日本の通過ビザの発行には、申請者が日本経由後の目的地に必要なビザを所有していることが条件だった。ガトワースが「キュラソー・ビザ」へ飛びついた数日後に、スギハラは、キュラソー・ビザ所有者に最大十日間の滞在を認める通過ビザを発給しはじめた。

スギハラは、日本の通過ビザ申請の条件として提出された「キュラソー・ビザ」の不完全性を見抜いていたかもしれない。

一九四〇年七月二十六日、前記レヴィン一家は、スギハラのいる領事館に現れた。

イサク・レヴィン(ポーランド国籍、文学者、息子ネイサンがいる)。オランダ領事ヤン・ツバルテンダイクの手書きで署名入りの「キュラソービザ」を取得。
イサクの妻ペスラ(オランダ⇒ポーランド国籍)。デ・デッケル・オランダ大使による手書きで、署名入りの「キュラソー・ビザ」を誇らしげに見せた。
レイチェル・シュテルンハイム(ペスラの母、オランダ国籍)
レヴィ・シュテルンハイム(ペスラの兄、オランダ国籍)    
スギハラが「キュラソー・ビザ」をごく自然に受け入れるのに、全避難民の中でこれほど非の打ち所のない一家一族はなかった。一族の半数は、オランダ大使とオランダ領事の同一筆跡をもつキュラソー付記を取得したオランダの市民だ。この一家の書類こそ、スギハラの心の中に、キュラソー・ビザの信頼性を確立したことだろう。 

日本領事館の門に、最初に群衆が集まったのは、その翌日七月二十七日だった。これらの人々は全員ポーランド人で、すべて、前日領事館に来たレヴィン一家からすべての話を受け、ヤン・ツバルテンダイクの署名入りの同じキュラソー・ビザを持っていた。

ソ連からはリトアニア併合に伴う領事館の閉鎖通告が伝えられ、ツバルテンダイクもスギハラも、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人に、それぞれがぎりぎりまで大量のビザを発給している。

 

 避難民を通過させたソ連の謎 
 

だが、その両方のビザを手中にした避難民でも、ウラジオストックまで移動し、ソ連を離れる許可証が必要であった。ソ連が出国を許可した結果、約二千二百人のポーランド人、ユダヤ人が日本に無事に到着した。その数は、両領事が発行したビザの数とおおむね一致している。彼らは生き延びたのだ。

しかし、カウナスで、キュラソー・ビザと日本の通過ビザを必要とした多くの避難民は、シベリアまでの途中で脱出行が終わることを恐れて、ソ連に出国ビザを要求する勇気がなかった。彼らのほとんどは、疑いもなく、ナチスの手で殺されてしまった。

ソ連の出国許可がなければ、二人の領事の徒労に終わった。

比較的短期間に相当数の人々がソ連から出国できたことは、人道主義的配慮の結果というよりは、ハイレベルの政治的決定――つまり、彼らを国外に排除した方が、政治的得策になると判断したに違いない。

ならば、避難民の日本への出国を許す決定をしたのは誰か。一九四〇年にこの方針を決定したであろう最もありそうな個人は次の通りである。

aヨシフ・スターリン
bヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ外相
cウラジミール・デカノゾフ(政治家。外交官。一九四〇年にリトアニア併合を担当したモロトフの手下。赤軍による制圧直後、リトアニアへ派遣され人)
dラヴレンチ・ベリヤ(NKVD議長)
いかにも強面の四人だが、ひょっとして「とおりゃんせ(お通りなさいまし)と言った赤い国の赤いエンゼルがいたのではないか?とも思う。むしろ、日本―オランダのある種の協働作業が、ソ連に出国のための「法的」担保を与えることになったと考えるのは甘すぎるか。これはまったく謎のままだ。
 

 ツバルテンダイクに恐怖が迫った 
 

一九四〇年七月半ば頃には、カウナスは無秩序で危険な都市になった。ツバルテンダイクは、自分と家族は、オランダに戻るべきだとすでに決めていた。皮肉なことに、当時ソ連との間に外交関係がないオランダの領事は、ソ連からの出国許可証の発行を待つ身となった。

そこへ、彼が住んでいた家の家主(リトアニアの歴史学教授)が、妻と娘を連れて、別れの挨拶をしに来た。妻は涙ぐんでいた。「突然なことだが、シベリア送りになった」と言い、小さい旅行用手さげカバンをひとつ持っていた。彼の犯した罪は知的犯罪と裏切り行為だったという。同じ運命がこの教授の多くの同僚に待っているという。

ツバルテンダイクは、「ビザもどき」の発行で、自分もシベリア送りになるのではないかと、ひどく悩み始めた。

八月半ばごろに、デ・デッケル大使は、大使と領事の全ファイルの破棄を決断した。デ・デッケル大使もツバルテンダイクも、ロンドンに亡命したオランダ政府外務省には、この件で一言も報告しなかった。

一九四〇年九月の初めに、ソ連の出国許可が出され、列車でオランダに向かった。

ツバルテンダイク自身に恐怖が迫った。オランダの自宅に、二人のゲシュタポ将校(ナチスドイツの秘密国家警察)が来たのだ。彼は、ゲシュタポがカウナスの問題を嗅ぎつけたと最悪の事態を恐れた。ゲシュタポの話で、ルーマニアで「脱出を試みた」として拷問死した、プラハ出身のツバルテンダイクの友人のポケットに、彼の名前と住所のメモがあったのだ。カウナスの関係は全然問われなかった。

ゲシュタポファイルが精査されていることを知って、ツバルテンダイクは、身近かに恐怖を感じた。彼は、一九四四年九月に、連合軍がオランダ南部に到着するまで、身の安全を感じたことはなかった、という。

ロサンゼルスのユダヤ人文化教育促進協会『メッセンジャー紙』が、「キュラソーの天使」として彼の人道行為の記事を載せるまでは、オランダ外務省は何も分かっていなかった。実際、彼は、一九六三年にオランダ外務省が調査をするまで、カウナスのことは、決して口を割らなかった。

無給でプロの外交官でもない彼は、きちんとした人間として行動することだけを心がけ、尊敬や賞賛の対象になることすら望まなかったという。 

 

 まとめ 
 

どこからビザを求める人の流れができたかを、私は記事に綴ってきた。「キュラソー・ビザありてこそ、スギハラの〝命のビザ〟あり」なのである。スギハラは、イスラエル政府からヤドバシェム賞「諸国民の中の正義の人」を生前の一九八五年に受けた。

一方、ツバルテンダイクは、死後二十一年を経た一九九七年に同賞を受賞した。二人とも、素晴らしい人道貢献をした。スギハラとまったく同時期に、ユダヤ難民の救出に汗を流し、命をかけた人がスギハラと同列にいたことを正しく理解したいと思う。
 

 

【引用・参考文献】
●http://remember.org/unite/jan_zwartendijk_2005.html  検索:2017/Dec/10
JAN ZWARTENDIJK --his activities as Dutch consul in Lithuania, 1940  by the late Jan Zwartendyk Jr.   Updated December 3, 2005
●How Was It Possible?: A Holocaust Reader Paperback – April 1, 2015by Peter Hayes  
 ●"Philippine Humanitarian Deeds to be Honored by Boys Town Jerusalem". Embassy of the Philippines (Israel).
●ゾラフ・バルハフティク『日本に来たユダヤ難民』原書房、1992年
●ヴァルダス・アダムクス『リトアニア わが運命』未知谷、2002年 
●長谷川照「歪曲される杉原千畝像」(『アエラ』2000年11月13日号)
●安藤富雄「カウナスにおけるビザ大量発給事件の考察」(日本福祉大学紀要『現代と文化』第109号、2003年)


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