オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」
娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


ナナメ後ろから見た タスマニア物語

02/09/2011


序章  ファン・ディーメンズ・ランドとは

現在のオーストラリア西海岸がオランダによって発見され、「新オランダ」と名付けられ、そこが「テラ・オーストラリス」という大陸であるかどうかの調査をオランダ東インド会社によって依頼されていたオランダ人の探検家アベル・タスマンは、最初の航海(1642年~1643年)で、バタビア(今のジャカルタ)からモーリシャス方面へと進んだ。その後、オーストラリア大陸沿岸を航海し、11月24日にタスマニアを発見した。
オランダ東インド会社総督の名前アントニー・ファン・ディーメンにちなんで「ファン・ディーメンズ・ランド」と命名し、タスマニアはファン・ディーメンズ・ランドとして知られた。その言葉が、名うての島として広まったのは、1803年にこの島が流刑植民地になった直後であった。50年間、オーストラリア南部の島は、大英帝国からの犯罪人の〝流刑地〟となったのであった。
7万2000人を超える既決犯(オーストラリアへは英国の既決犯の42%が送られた)の強制的な住処となった。オーストラリアに送られた囚人のほぼ半分近くが、ファン・ディーメンズ・ランドと呼ばれた現タスマニアに来た。最後の囚人船がホバートに停泊してから3年も経たない1856年に、植民地の名前はタスマニアに変った。ウィリアム・デニスン中尉は、総督として威厳を正して帝国政府に進言した。「ファン・ディーメンズ・ランドという名前を汚しているという気持ちが当地にはあります」と。ビクトリアとニューサウス・ウェールズがゴールドラッシュによる大量移民で大きな変化を遂げたと同時に、イングランド自体も加速度的な産業革命で文化・経済の大規模な変化を経験していた。一方、「タスマニア」はというと、1856年以後も、産業革命以前の経済・文化の遺物的博物館として停滞を見せていた。囚人とその第二世代の子供たちが、その後の数十年のタスマニアの主たる人口を占めるに至ったからである。 こんな背景を頭に置きながら、タスマニア裏面史を読んでいただければ幸いである。

 

 

〝男性船員〟を装い続けた女性

ファン・ディーメンス・ランドに最初に上陸した白人女性は誰だったのか、喧々諤々言われてきた。マーサ・ヘイズの末裔は、リスドンが1803年に定住した時のボーエンのクルーから岸へ運ばれた最初の女性がマーサであったと主張する。マーサはジョン・ボーエン中尉のめかけであったので、ボーエンが彼の船の最初の下船女性として名誉を与えたこともありうるが、乗船していた全女性が同時に岸へ運ばれた可能性もあり、マーサが最初の上陸者という話には議論の余地がある。確かに、どの美少女に最初の上陸の名誉を与えるかは、まさに運であったに違いない。ところが、マリー・ルイーズ・ヴィクトワール・ジラルダン(1754~94)という名のフランス女性が、マーサより11年も先に、1792/3年のダントルカストー探検隊とともに到着していたのだった。
マリーはフランス革命初期に未亡人になった。そして、探検中は、『ルイス』という名の船員の服を着ていた。彼女は小柄で地味で若々しかったので、なんとか男で通すことに成功していた。ダントルカストー探検隊のヒューオン・ドゥ・ケマルデック副隊長は、彼女にフリゲート艦ラ・ルチェルシュ号のスチュワードとしての仕事をさせた。ダントルカストー提督探検隊員は、ほとんど皆彼女の本当の性を知っていた。スチュワードとして、マリーは船員に義務付けられた健康診断を免れ、プライバシーのために小さな船室を充てがわれた。クルーの多くもジラルダンは『偽装女性』であると見抜いていたにもかかわらず、彼女は持ち前の粘り強さで偽の男性という立場を守りぬいた。
彼女は『男らしさ』を証明するために驚くほど何でもこなした。生意気な若手の下級船員にもくってかかった。衝動的に行動するために腕に深い傷を受けたりもした。海峡で何人かのオーストラリア原住民に遭遇した1793年に、『ルイス』は幸運にも裸にされずにすんだが、原住民は、ひげのない若い船員の性別を非常に知りたがり、親しげに探りを入れたという。ジャワ島の近くで、数カ月のうちにフランス探検隊員の40 %もが死んだことは、熱帯気候の中での航海がいかに危険をはらんでいるかを浮き彫りにした。そしてついに、マリーが『間違いなく女性であることがばれた』のも、この暑い気候の時期だった。乗組員の日誌によると、彼女がメライト(ラ・ルチェルシュ号の若い少尉)と関係をもったらしい。ロマンティックな運命の意外な巡りあわせというか、探検の帰途の航海中に、蘭領東インド諸国(ほぼ現在のインドネシア)で壊血病と赤痢に見舞われ、2人の恋人たちは1794年12月のある日、24時間以内に相次いで亡くなった。

 

 

浮かぶ売春船

1790年6月に、植民地に到着した多数の囚人と物資を運んだ船のことを第2船団という。220人あまりの女性囚人をともないレディ・ジュリアナ号が到着したのは、6月3日だった。女囚の大多数はロンドン地域の人で、彼女らの罪はほとんど売春、窃盗といった類のものだった。1789年7月にイギリスを出港したレディ・ジュリアナ号は、リオデジャネイロで予定より数週間遅れた。いや遅らせたと言った方が正解だろう。
オーストラリア航海史上で最高に面白い話のひとつは、1790年の帆船『レディ・ジュリアナ』号(401トン、エイトケン船長)での〝ラブボート航海〟だ。この囚人の多くが後にタスマニアに落ちついたので、この物語はタスマニアと太いつながりのあるものになった。この武勇伝は、シドニー卿が少なくとも200人の女囚をNSWに送り込みたいと財務省に話した1788年10月31日のロンドンに始まる。この決定は、部分的には英国の刑務所の著しい過密状態に関連した健康問題を緩和するために行われたものだが、同時に、新植民地NSWの男女比率の大きな不均衡の解消にも役立つことになった。行動計画は果てしなく遅れ、レディ・ジュリアナ号は、1789年3月の半ばに出産年齢に達している女囚を乗せ始めたが、実際にプリマスを出港したのは、1789年7月29日だった。レディ・ジュリアナ号のスチュワード、ジョン・ニコールは、自伝(1822年)で暴露している。
『我々は、出港する前に、6ヵ月間テムズ川にいた。レディ・ジュリアナ号に貨物を積み込むために、その期間、イングランドの全刑務所から女囚が駆り出された。[原文のまま]。我々が出港した時は、246人[226人説もある]の女囚が乗船していた。極悪囚はあまりいなかった。軽犯罪の人が大半で、つまり売春婦であった。そして当時の植民地には女性の大きな需要があった』『我々がかなり海に出たとき、船上のあらゆる男性は囚人の中から妻を娶(めと)った。そして、彼女らは何をするにもいとわなかった』。この一文は、乗船している若い女囚の中からほとんどすぐ愛人を選ぶために囚人船に乗る、英国役人の不埒な習慣を端的に表したものだ。保護者として上級官吏を持つことが大きな利点であったため、女性たちが異議を唱えることはめったになかった。明らかに、こういう関係は単調で、果てしなく続く海の旅の男性の楽しい暇つぶしに役立った。
ニコールは、こう強調している。『レディ・ジュリアナ号の女性は、大半が十代か、出産年齢に達している若い女性だった。彼女らは、喜んで船員と深い関係を結び…』。ニコールも、19才のセイラー・ホイットラムを1週間かけて口説いたことを認めている。『私は、彼女の心の金床(かなとこ)にリベットを打ちこんだ瞬間から、私の出来心を彼女に委ねた』と。ひとりの男性に預けられなかった人たちも、体を許すことを選択した。中には遊ぶことよりはむしろ、労働を選択した女性もいた。彼らはエイトケン船長所のリネンからシャツを作ってお金を稼いだ。エイトケン船長は、そのシャツをシドニーで売って荒稼ぎをしたという。
さて、レディ・ジュリアナ号は、途中で多くの港に寄港した(リオデジャネイロに45日間、ケープタウンに19日間停泊など)。これらの長い休暇で、多くの囚人は港で地元民や他の船の高級船員の訪問を受けて体を売った。頻繁な寄港・停泊は、食物と水の補給を新鮮にし、レディ・ジュリアナ号では、壊血病、不健康や死を最小限にした。レディ・ジュリアナ号は清潔に保たれ、燻蒸された。女性はデッキへ出ることが許され、新鮮な空気に触れた。従って、途中で死んだのはわずか5人の囚人で、彼女らは、〝今までよりも健康で、幸せ〟になって到着した。これは、高い罹病率と犠牲の多さが忍び寄ったオーストラリア到着第1船団とは際立った対照だった。第2船団では、イギリス出発時の囚人数は1250人を超えていたが、入港したのはおよそ1000人の囚人であった。それらは主に虐待、栄養失調と不衛生のためだった。
レディ・ジュリアナ号は、1790年6月6日にポート・ジャクソンに到着。なんと、309日の航海だった。平均的航海が通常4~6ヵ月だったので、この事実が、ロンドンで大きな騒動を引き起こした。その結果として、レディ・ジュリアナ号は、「浮かぶ売春宿」、または英国軍艦ボーデロ(売春宿)と後にあだ名された。レディ・ジュリアナ号は、1787~8年に第1次船団とともにNSWへ航海したのだが、この2回目の航海で〝超〟有名になった。

 

 

ポートアーサーの脱走未遂劇

ポート・アーサーは「脱走不可能」の場所であった。陸路で逃亡すれば、地図やコンパスも持たず高低差のある地形を乗り越えなければならなかったからだ。おまけにこの地域には、新鮮な水が流れる小川はほとんどなかった。泳いでの脱出阻止のため、当局は故意に、タスマン半島周辺の海はサメと海の怪物が群がっていると吹聴していた。逃亡者がタスマニア本島にたどり着くためには、厳重警備の2箇所の細道を通らなければならなかった。「ご用の無いものとうしゃせぬ」なのだ。もうひとつの関門、イーグルホーク・ネックには、鎖につながれた11頭の大きな「獰猛犬」がいた。仮に犬が脱走者を捕まえなくても、前線の衛兵に御用となるにも関わらず、ポート・アーサーからの脱走者は多かった。しかし、成功例はほとんどなかった。
最も有名な脱出は、キャッシュ、キャヴァナとジョーンズの3人で、数カ月間の逃走に成功した。マーティン・キャッシュはポートアーサーから4回脱走に成功したと言われる。イーグルホークを見渡すキャッシュズ展望台には、その1回の脱出の名を留めている。イーグルホーク・ネックの通過に成功しても、大部分の脱走者は、フォレスティー半島のどこかで必ず捕らえられ、ポート・アーサーに連れ戻されるのがオチだった。連れ戻された彼らは、逃げた田園地帯の景色や道、衛兵の場所などの情報を仲間に教え、次の脱出劇を生んだ。
ポート・アーサーからの脱出未遂劇には滑稽な話がある。ビリー・ハントという名の囚人がカンガルー皮のぬいぐるみを纏って、なんとかイーグルホーク・ネックの獰猛犬の線を突破した。そしてその後は、おそらくパイレーツ湾を泳いで渡ることになっていたのだろう。ところが、当直の兵士がフォレスティー半島の方へ向かって跳ねていく大きな森林カンガルーを見つけたのだ。兵士は仲間に言った。「あの大カンガルーを撃とうと思う」と。ビリー・ハントには兵士の声が聞こえたに違いない。すると変装を脱ぎ去って、中の男が叫んだ。「撃たないでくれ。俺はビリー・ハントだ」と。それを聞いて、兵士が驚いた。カンガルー皮を没収された『ピョンピョン』ビリーは、無念のままポート・アーサーに戻され、長年物笑いになった。若い時のハントは、人を騙して、ヘビ香油と健康万能薬を行商するテキ屋をやっていた。 カンガルー皮のぬいぐるみを着た変装は、彼の前職にふさわしかった。

 

 

偉大なる脱走

〝水も漏らさぬ〟ポート・アーサーから最もうまくいった脱出劇がある。1839年2月13日。司令官の6オール付きの捕鯨船を失敬するという大胆な計画は、トーマス・ウォーカーとその7人の仲間の囚人船頭によって立案されたものだった。ボート格納庫は夜間厳重なパトロールのもとに置かれていたので、最も警備の手薄な、なんと白昼のおよそ午前10時にボートを盗みだすことになった。計画は確実に実行に移された。そして司令官の捕鯨船に普通のボート乗組員が乗り込んでいる光景に、異常を感じる者はいなかった。そして当局が異変を感じた頃には、彼らはとっくに港を出ていた。
ブース司令官には、ボートでまんまとやられたと知らされた。そして脱走者が、彼個人のボートの乗組員であり、しかも司令官所有のボートで脱走したと知って、極めて困惑した。彼は急遽もう一組のボート乗組員を構成し、すでに2キロ先を行く脱走組を追跡させた。脱走組が外洋に出るやいなや、すぐに、彼らは全部の帆を上げて悠々と港を後にした。ホバートからの追跡が始まる頃には、当局はどこを探していいか見当もつかなかった。脱走者はアドベンチャー湾に上陸し、捕鯨の採油基地から銃や弾薬と糧食を盗み出した後、サウスポートに向かい、そこでもう一箇所の鯨の採油基地を急襲した。
彼らは礼儀正しく、威圧的でもなかった。彼らはぬけぬけとサウス・ブラニーのクラウディ湾に向かうと、陸上の捕鯨船員を騙した。彼らは捕鯨船員が見えなくなるまで概ねその方向に船を走らせ、その後、南海岸へ回ると全速力でポート・デイヴィに向かった。一方、2つの基地急襲の知らせがホバートに届いた。港湾警察のジョージ・キング警部は、政府の高速船『エリザ』に兵士を乗せて出港した。もうひとつの船『イザベラ』は、海峡捜索のためにポート・アーサーから出港した。
キング警部は、脱走者が廃港のマッコーリー港に向かうと想定した。それは彼らがポート・デイヴィに着く前に脱走者を捕らえようという作戦だった。しかし、追手を予想したウォーカーはボートと共にフォックス・コーヴに一時避難した。そこで脱走囚人たちは『エリザ』の通過をこっそりと見届けたのだった。『エリザ』は、ポート・デイヴィ周辺を探したが徒労に終わった。船長は、ポート・デイヴィの船大工、ヘンリー・ブルックスに脱走集団に注意するようにと警告した。ウォーカーらは、『エリザ』がポート・デイヴィから戻ってくるまで、息をひそめて待った。船が戻ってきて見えなくなると、もう追跡は来ないと、脱走者はポート・デイヴィに向かって船を出した。

デレイニー夫人の責任感!!

 

デレイニー夫人は、ホバート北部のリンダストンの小さな農場に住むアイルランド人女性で、お世辞にも「釣り合いのとれた」スタイル良しとはいえなかった。彼女は、乏しい農業収入を補うために、大きなバスケットを抱えて南北に走る列車でリンゴを売る「りんご売りのおばさん」だったのだ。彼女はきまってリンダストンで列車に乗り、ロスまで車内を歩きながらリンゴの車内販売をし、ロスからの復路もリンゴを売った。デレイニー夫人は、長い髪、赤ら顔をし、顔にはしわが寄っていて、目はきらめいていた。綺麗とはいえない彼女の服は大型サイズで、恰幅の良い体格をうまく隠していたが、かなりのお古でデザインもよくなかった。肩にはいつも無造作にアイルランドの襟巻きをし、齢を隠すために帽子の上にはサクランボをあしらっていた。そして、いつも汚れたブーツを履いていた。
誰かが服のセンスが悪いと悪口を言うと、彼女があごを引きつらんばかりに、『列車の中でリンゴを売るだけだからお洒落する必要もないし、女王に会いにいくわけでもないしね』と言うのだった。ある日、そんな彼女が線路沿いをリンダストン駅に向かって歩いていると、土砂崩れが線路の上にまでかぶっているのを見つけた。列車がいつくるかもしれない! 彼女は一大事と判断した。躊躇せず、彼女はドレスの下に手を伸ばして、明るい赤の〝神聖なる〟ブルマーを脱いだのだった。「列車が土砂崩れの現場に着く前に、列車を止めなくては・・・」と、彼女は線路沿いを猛烈に走り始めた。
列車がカーブに差し掛かろうとした時、デレイニー夫人は危険を知らせるために、ちぎれんばかりにショーツを振った。「止めて! 止めて!」。彼女は、危険を告げて叫んだ。大きなサイズの赤色が振られているのを見た列車の運転士はすぐに急ブレーキをかけた。列車はキーキーと音をたてながら、なんともきわどい所で止まった。間一髪きわどいところで止まる時間を、地元の古老はブルマー・タイムという。
デレイニー夫人は、息を切らして機関士に土砂崩れの話をした。デレイニー夫人が一大事故を未然に防いだ。鉄道会社は感謝の気持ちとして、デレイニー夫人に、生涯無料の列車パスを贈呈したのだった。

 

 

 

参考資料:
序章Van Diemen's Land (James Boyce)
①http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/gv-fBruny.htm(8月28日アクセス) ;Voyage to Australia & the Pacific ( E & M Duyker)
②http://www.ajf.australia.or.jp/aboutajf/publications/sirneil/dict/SecondFleet.html(8月28日アクセス); The Second Fleet(Michael Flynn)
③The Penal Settlements of Van Diemen's Land(Thomas James Lempriere=1839) reprinted by Royal Society Launceston
④Escape from Port Arthur(Ian Brand)
⑤My Memories laced with east coast tales of Van Diemen's Land (Edward C Shaw)

 

 


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