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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


東京大空襲から66年

02/09/2011



東京大空襲とは

終戦の5ヵ月前の昭和20(1945)年3月10日、東京の下町は、アメリカ軍のb-29爆撃機334機による夜間低空飛行の集中爆撃を受けた。
アメリカ軍は、約3,000発のM47焼夷弾(しょういだん)を投下し、4方面に火の壁を作って退路を塞いだうえ、主力兵器として日本の木造家屋向けに開発したM69焼夷弾を投入し、焼きつくし殺しつくす2時間半の無差別爆撃を行った。焼夷弾、つまり燃焼温度の非常に高いナパーム弾だ。 この未曾有の大空襲で、死者10万人以上、被災者約100万人、焼失家屋27万717戸にのぼり、住宅密集地の深川、本所、浅草を中心に廃墟となった。通常兵器による空襲では他に例をみない世界史に残る大空襲であった。

地方への疎開者や出征兵士を多く出したにしても、昭和16(1941)年、687万人だった東京区部の人口は、終戦時には253万人に激減していた。今年の3月10日は、大空襲から、66年目である。

 

 

大空襲までの流れは…


▲母娘の焼死体:子どもを背負っていた母親の背の中は焼けていない


▲焼け野原を歩く人たち 呆然と立ち尽くす人



▲廃墟と化した東京の下町

1923年、オランダのハーグでは、米、英、仏、伊、オランダ、日本による委員会が開かれた。そこで戦争のルールが話し合われ、空戦法規が作られた。ハーグ空戦法規第22条では、攻撃は軍事目標のみとし、市民への爆撃は禁止するとした。軍事目標への攻撃に限り、適法とする、と宣言した。このルールを、どこの国が守ったというのだろうか。

▼1937年4月26日、ドイツ空軍がスペインのバスク地方の小都市ゲルニカを爆撃した。史上初めての都市無差別空爆と言われている。ピカソの絵で有名だ。

▼1937年7月7日に日中戦争が始まると、その後、日本軍の航空隊、南京、漢口、重慶に無差別爆撃を行った。

▼1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵入し、第2次世界大戦が始まった。

▼1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争勃発。

▼1944年10月12日占領後最初の爆撃機がサイパンに到着。空の要塞Bー29は、原子爆弾を上回る開発費をつぎ込んで製造された当時世界最新鋭の爆撃機だった。最大時速580キロメートル、6600キロメートルの航続距離を持ち、サイパンの基地とは17時間で往復できた。

▼194年11月24日、マリアナ諸島がら飛び立った約88機のBー29が2万5000フィート上空から中島飛行機武蔵野工場を爆撃。しかし、この作戦はうまく行かなかった。命中したのはわずか24機。被害は最小と、アメリカ軍は判断。東京上空を吹く偏西風に爆弾が風に流され、標的への命中率は非常に低かったのだ。

▼高高度爆撃は、効果が薄いと判断し、1945年1月、空軍トップは、ハンセル准将を更迭し、ヨーロッパ戦線と中印戦線で指揮したカーティス・ルメイ少将を起用。アメリカ政府は、今後の空襲には、Bー29により多くの焼夷弾を搭載するように命じた。

 

 

 

カーティス・ルメイとその作戦


▲カティス・エマーソン・ルメイ
1906年11月15日 - 1990年10 月1日
(満83歳没)

第20空軍所属の第21爆撃集団司令官に就いたルメイは、1945年1月20日にグアムに着任し、思い切った作戦に打って出た。この時ルメイが考案した日本本土爆撃の主なポイントは、次の4点である。

●高度からの爆撃をやめ、低空(1800メートル以下)からの爆撃とする。
●爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする。
●搭載燃料を最小限とし、防御用の銃座は外す。
●攻撃は夜間とする。

ルメイは、ジェット気流を避けるために、低空飛行で焼夷弾爆撃を行う作戦に出た。

1945年3月9日、ルメイは、焼夷弾を積んだBー29 334機(325機、285機説あり)を日本に対する最初の低高度爆撃に送り出した。翌3月10日は日露戦争で、奉天の会戦で勝利をした日を記念する陸軍記念日だった。

ルメイ少将は、編隊を組まずに個々で飛行し、高度8000ィート以下で焼夷弾爆撃をするよう命じた。搭乗員たちは、「目標空域で、すべてを爆撃せよ」と命じられていた。この作戦は、3月9日~10日の東京大空襲に初めて導入された。3月10日、約2000トンの爆弾を積んだ334機が、深夜の東京を襲った。強風に煽られた火は、瞬く間に25平方キロを舐め尽くした。空襲警報の発令も遅れるという大失態もあって、死者8万3783人、負傷者4万918名をだすという未曽有の火炎地獄を生ぜしめた。しかし、このアメリカ軍の数字は正確ではない。爆撃は一夜のうちに、東京の4分の1にあたる40平方キロを焼け野原に変え、10万人を越える死者が町や川を埋めたのである。

国防長官だった故ロバート・マクナマラは、ルメイの性格について、第二次世界大戦時の爆撃機任務における高い任務中止率に関する報告書で次のように書いている。

指揮官のうちひとりはカーティス・ルメイで、Bー24部隊を指揮する大佐だった。彼は私が戦争において出会った軍関係者の中で最高の戦闘指揮官だった。しかし彼は、異常に好戦的で、残忍だとも思った。彼は、こう言ったことがある。「自分はどんな任務でも先導機に乗る。どんな航空機であろうが離陸してしまえば、目標まで飛行するか、搭乗員を軍法会議にかけるだけということだ」。この言葉により任務中止率は一夜で低下した。彼はそういう類の指揮官だったのだ。(ドキュメンタリー監督Errol Morrisによる引用)

 

おぞましい焼夷弾M69とは


▲M69焼夷弾 ソックス型の袋に入ったゼリー状の油脂爆弾 これは2010年に使用禁止されたクラスター爆弾に入る



▲原爆開発費を上回る費用をつぎ込んだB29 与圧装置までついている。


 

そもそも、ナパーム焼夷弾は、デュポンとスタンダード石油が1944年に開発した新兵器だった。
しかし…効果的で手軽に製造できる爆弾を思案していたアメリカ軍は、エッソ研究集団であるニュージャージー州のスタンダード石油開発会社が開発したMー69に回答を見つけた。

エッソの焼夷弾は、秘密の鉄粉を添加したピンク色のゼリー状ガソリンを満たした6個のパイプからなっている。この油爆弾は、重さに比例してマグネシウムのほぼ2倍多くの熱を出し、非常に速く破壊を広げる。

この集束爆弾を落とすと、着弾後時限装置付きの信管により、4~5秒で着火する仕掛けになっており、それ故、Mー69は、100ヤードにソックス型の布を飛散させ、猛烈な炎を放出するミニチュアの火炎放射器の役目を果たすのだ。飛び出た布が当ると付着して、ひとつの布から直径で1ヤード以上に拡散する。この油爆弾は、火のついた多数のパンケーキ状の物を作りだすので、消火は大変である。(太字の文章は、1945年4月2日号のタイム誌の記事から)

アメリカは、日本の木造家屋を念頭において、ユタ州で、実物大の日本の木造家屋を燃やして、燃焼実験を繰り返し行なっていた。各種の焼夷弾の中で、木造家屋を最も効果的に延焼させたのがMー69だった。マグネシウムによって点火すると、着火後8分から10分の間、1000度もの高温を保った。東京に投下された焼夷弾の威力は、絶大だった。
焼夷弾、恐るに足らず…焼夷弾を消せ 日本政府は国民にそう言ってきた。「恐るに足らず」…銃後の人たちを鼓舞しようとしたのか、それともまるで無知だったのか。

東京大空襲を始めとする日本への空襲は、日本を早期降伏に追い込みたいアメリカの切り札としてのカーティス・ルメイ、Mー69焼夷弾、Bー29のおぞましい3点セットの結果だった。
アメリカ軍による本格的な空襲は、昭和19(1944)年11月末に始まり、終戦(昭和20年8月15日)の朝まで続いた。9ヵ月に及ぶ空襲の被害は、死傷者・約81万人で、軍人の戦闘被害者・約78万人よりも多い。

1945年8月までに、日本の領土の288平方キロが焦土と化した。さらに、Bー29は、日本の領海に、1万2953発の魚雷を投下したため、下関海峡も含めて、日本は完全に囲まれたのである。

 

カーティス・ルメイの発言集


▲葉巻をくわえるルメイのもうひとつの顔

「低く飛べ」と命令するルメイに、搭乗員が「危険だ」と言うと、ルメイは葉巻を真っ二つに噛み千切って、「なんでもいいから低く飛ぶんだ」と怒鳴ったという。

ルメイの人となりを、彼の発言からもう少し追ってみたい。
「無垢な民間人なんていない。だから、無垢の傍観者を殺すことは私を躊躇させるものではない」 カーティス・ルメイ

「日本人を殺戮するなんて、その時はあまり悩まなかった。…もし自分がこの戦争を失ったならば、私が戦犯として裁判にかけられただろうと思う。…どの兵士も、自分の行為で何か道徳面に思い当たっている。しかし、すべての戦争は不道徳なものであり、そして、そのことに思い悩むなら、それは良い兵士ではない」 カーティス・ルメイ

「この作戦で多くの女性や子どもが犠牲になるのはわかっていた。しかし、戦争に勝つためには必要だった」 カーティス・ルメイ

「私は、多くの場合、核兵器を使用してしまえば最も効率的であると考える。しかし、我が国及び世界の輿論は、核兵器という言葉に触れると、恐怖の拳をあげる。彼らに吹きこまれた宣伝の故に」 カーティス・ルメイ

「もし彼らを十分に殺せば、彼らは戦闘を止める」 カーティス・ルメイ

「この問題に対する私の解答は、北ベトナム共産主義者に、率直に、彼らが前言を翻し、侵略を止めるということだ。さもなければ、われわれは、爆撃して、彼らを石器時代に戻してやると言ってやればいい」 カーティス・ルメイ

「それは、我々が完膚なきまでにロシアを破壊したかもしれない時代だった。我々の肘の皮ですら擦りむかずにそれができたかもしれない時代だった」 カーティス・ルメイ

 

 

なぜ、この将軍に勲一等旭日大綬章が贈られたのか


▲ルメイに贈られた勲一等旭日大綬章



▲大空襲の前に米軍が撒いたビラ

カーティス・ルメイの命令は原爆投下を決定したヘンリー・スティムソン陸軍長官とトルーマン大統領から発せられたものだった。

①トーマス・フェアビー陸軍少佐 「エノラゲイ」に搭乗し、広島に原爆を投下。
②ポール・ティベット大佐「エノラゲイ」機長 (エノラゲイは機長の母親の名前)
③カーミット・ビーハン大尉 原爆搭載機Bー29ボックスカーの爆撃手として長崎に投下。人類最後の実戦における核兵器投下を行った人。ビーハンにとっては27歳の誕生日であった。
④チャールズ・スウィーニー少佐 原子爆弾「ファットマン」を投下した「ボックスカー」の操縦士

第21爆撃集団所属のこれら4名は、カーティス・ルメイ司令官の直属の部下だった。東京大空襲や原爆投下の実行責任者として、これに深く関与したカーチス・ルメイ将軍。原爆投下の際、日本側に警戒態勢をとらせないため、Bー29の高々度の単機使用というのは彼の発案だった。

このルメイの焦土化作戦は、アメリカ軍にとって大成功だった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」・「皆殺しのルメイ」と渾名された。

カーティス・E・ルメイ(1906.11.15‐1990.10.1)は、後に、空軍参謀長になった。

かつて、キューバ危機勃発時には、キューバ空爆をジョン・F・ケネディ大統領に提案したが却下された。ルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。実際にはキューバ危機の時点ですでにキューバに核ミサイルが数十基配備済みであったことは、第三次世界大戦を招きかねない完全な見当違いであった。

ベトナム戦争では空軍参謀長の任にあり、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語して北爆を推進した。なお、北爆が開始された1965年に除隊した。

1964年、ルメイは航空自衛隊創設時の戦術指導に対する功績により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。池田内閣が決め、佐藤内閣が授与した。なぜ? なぜなのだ? 参議院議員で元航空幕僚長源田実と小泉純也防衛庁長官(第1次佐藤内閣)からの強力な推薦によるものであったらしい。 なぜだ? なぜ推薦したのだと問い続けたい。勲一等旭日大綬章授与と原爆投下による被害に対する賠償・謝罪などが、政治的な取り引きに使われたのではないのか? 原爆や空襲で家族を亡くした遺族からの発露があったのか。またしても、旧軍部の独走に政治家がのったではないのか? 
そして、なぜ、ルメイは受賞を断らなかったのか?

勲一等に叙する勲章は本来、授与に当たって直接天皇から渡される(天皇親授)のが通例であるが、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。 彼の心の中に倫理観の葛藤でもあったのか?

 

 

心の中に平和の砦を築く

戦争とはこういうモノだと軽々に言うつもりもない。ルメイを責めれば済む問題ではない。別のルメイは、どの国にもいたはずだ。

自分の心の中に平和の火を灯すのは、戦争をするより難しい。心の中に平和の火を灯すということは、どういうことか。

フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンは、自著『道徳と宗教の二つの源泉』(中公クラシックス。 森口 美都男 訳) を、こう締めくくっている。

「人類は今、自らのなしとげた進歩の重圧に半ば打ちひしがれて呻いている。しかも、人類の将来が一にかかって人類自身にあることが、充分に自覚されていない。まず、今後とも生き続ける意志があるのかどうか、それを確かめる責任は人類にある。次にまた、人類はただ生きているというだけでよいのか、それともそのうえさらに、神々を産み出す機関(マシーヌ)と言うべき宇宙本来の職分が─言うことを聴かぬこの地球上においても─成就されるために必要な努力を惜しまぬ意志があるのかどうか、それを問うのもほかならぬ人類の責任なのである」

そして、もっとやさしくは、ユネスコ憲章前文の一行目に述べられている。

戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。(後略)

善にも悪にもころぶ人の心。その心の革命ほど難しいものはない。21世紀の前半は、そういう善が悪に勝つ揺るぎない心を、国連憲章に謳う「われら連合国の人民」が築き上げる時期にしなくてはならない、と思う。

 

 

 

 

【参考文献 引用資料】

Crane, Conrad C. Bombs, Cities, and Civilians: American Air Power Strategy in World War II. Lawrence: University Press of Kansas, 1993.
Dower, John W. War without Mercy: Race and Power in the Pacific War. 2d ed. New York: Pantheon, 1993.
Iriye, Akira. Power and Culture: The Japanese-American War, 1941?1945. Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1981.
Schaffer, Ronald. Wings of Judgment: American Bombing in World War II. New York: Oxford University Press, 1985.
Sherry, Michael S. The Rise of American Air Power: The Creation of Armageddon. New Haven, Conn.: Yale University Press, 1987.
Sherwin, Martin. A World Destroyed: The Atomic Bomb and the Grand Alliance. New York: Knopf, 1975; New York: Vintage Books, 1977.
Spector, Ronald H. Eagle against the Sun: The American War with Japan. New York: Free Press, 1985.

http://www.answers.com/topic/world-war-ii-air-war-against-japan#ixzz1CZRnt6X2
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,775519,00.html#ixzz1Ckdhg8MP
http://www.brainyquote.com/quotes/authors/c/curtis_lemay.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4
http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/20seiki21.htm

 


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