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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


日米開戦阻止に 奔走した日本人がいた!

11/05/2014


 



 

今年もまた、終戦記念日が近づいてきた。一九四五年という年。三月十日東京大空襲をはじめとする地方都市へのアメリカ軍の執拗な焼夷弾爆撃による焼土壊滅作戦。そのうえ、八月六日と九日のアメリカ軍による原爆投下。それも一個ならず二個までも。そして迎えた八月十五日の敗戦。一九四五年(昭和二十年)八月十五日の天皇の詔勅により、多くの人は、ここですべての戦争が終わったと今でも思っている。
事実はそうではない。〝終戦後〟に日本の固有領土の一番北端の北千島の占守(シュムシュ)島で激戦が始まったのだ。
占守島の戦いとは、ポツダム宣言受諾で太平洋戦争が停戦した後の八月十八日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が、千島列島北端の占守島に上陸、日本軍守備隊との間で戦われた戦闘である。二十一日に日本軍の降伏により停戦が成立した。捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠なく拉致されて、シベリアへ。なんで、こんな負のみやげまでもらわなければいけないのか。日本政府が、ポツダム宣言の履行などを定めた降伏文書(休戦協定)に調印したのは、一九四五年(昭和二十年)九月二日。少なくともこの日が、一番終戦記念日にふさわしいと思わないか。


 

 

 

①「変われなかった」日本


まずは、国会に提出された東京電力福島原子力発電所事故調査委員会調査報告書を読んでいただきたい。

今回の事故原因の調査は、過去の規制や事業者との構造といった問題の根幹に触れずには核心にたどりつけない。私たちは、委員会の活動のキーワードを「国民」「未来」「世界」とした。そして、委員会の使命を、「国民による、国民のための事故調査」「過ちから学ぶ未来に向けた提言」「世界の中の日本という視点(日本の世界への責任)」とした。限られた条件の中、六ヵ月の調査活動を行った総括がこの報告書である。百年ほど前に、ある警告が福島が生んだ偉人、朝河貫一によってなされていた。朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の禍機』を著し、日露戦争以後に「変われなかった」日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた。

「変われなかった」ことで、起きてしまった今回の大事故に、日本は今後どう対応し、どう変わっていくのか。これを、世界は厳しく注視している。この経験を私たちは無駄にしてはならない。国民の生活を守れなかった政府をはじめ、原子力関係諸機関、社会構造や日本人の「思いこみ(マインドセット)」を抜本的に改革し、この国の信頼を立て直す機会は今しかない。この報告書が、日本のこれからの在り方について私たち自身を検証し、変わり始める第一歩となることを期待している。
(以下略)

東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)
委員長 黒川清



 

 

②朝河貫一生い立ちのエピソード

 


国会事故調の報告書に異例ともいえる個人名を書かれた朝河貫一を追ってみたい。

一八七三年(明治六年)十二月二十日(戸籍上は二十二日)、父、旧二本松藩士朝河正澄(まさずみ)・母、旧田野口藩士の長女、(旧姓杉浦)ウタの長男として、二本松町下ノ町新長屋(したのまちしんながや。現二本松市根崎(ねざき))に出生。

しかし、生活苦と虚弱体質の故か、母ウタは貫一が二歳になったばかりの頃、息子への思いを残しながら他界した。

一八八七年(明治二十年)福島尋常中学校(のち安積(あさか)中学校に改称)に入学した。同じ年の十月、蒲生義一に就いて英学を学ぶ。在校中の成績は全学年を通じて常に首席で、四年生からは特待生に選ばれている。在学中さらに、英国人教師トーマス・E・ハリファックスに教えを受ける。中学校の卒業式で首席卒業の朝河が総代に選ばれ、答辞を読むことになった。当日彼の口から出てきたのは、流暢な英語の演説。参加者は度肝を抜かれた。中でも英語教師のハリファックスは、朝河の文章の見事さに感動し、「やがて世界はこの人を知ることになろう」と語ったと言われている。

 

 

旧福島県尋常中学校本館福島県立安積高等学校安積歴史博物館


もう一つのエピソード。彼は毎日二ページずつ英語の辞書を暗記した。そして暗記し終えたページを一枚ずつ食べるか破り捨てていったという。だから、彼は「辞書食らい」とあだ名された。そして、すべて食べ終えたか破り捨てて残った辞書カバーを校庭の桜の木の根元に埋めたので、母校ではその桜の木を「朝河桜」と呼んでいる。

 

 

 

 

 

 

③アメリカ留学へ


旧二本松藩士の長男として育てられた朝河貫一は、二本松藩が戊辰戦争に際し、薩長を中心とした新政府軍に大敗したために、自分の将来像を描けず海外留学を夢見た。そして、朝河は福島尋常中学、一八九五年七月に東京専門学校(現早稲田大学)をそれぞれ首席で卒業。卒業成績は、平均九十四点余りという他を寄せつけない図抜けたものであった。同校在学中に大西祝、坪内逍遙、夏目漱石などの教えを受け、またこの時期、横井時雄により洗礼を受ける。

中学校時代に決意していた"将来アメリカに留学して世界の広い知識を学び、日本文化の発展に貢献する"という志しを抱き、大西祝(はじめ)・大隈重信・徳富蘇峰・勝海舟・坪内逍遙など錚々たる人々の渡航費援助により、十二月七日横浜港を出航した。

翌年一月ダートマス大学に編入学、卒業後はダートマス大学長タッカーの援助とイェール大学の奨学金を得てイェール大学大学院歴史学科に入学、優秀な成績をあげ、一九〇二年(明治三十五年)論文『日本における初期の制度的生活、六四五年改革の研究』で哲学博士の学位を授与され、二十八歳で母校のダートマス大学講師として東西交渉史の講義を担当した。

 

 

   

 

④日露戦争勃発

 

「もし宇宙に道というものが存在するならば、自分はその光明に向かって、勇猛心をふるい精進するであろう」。これは送別会で友人たちに語った朝河貫一の言葉である。その後、五十余年に及ぶ在米生活で、彼は「宇宙の道の光明」に向かって、歴史学を通して闇を照らそうと努力した。

一九〇四年二月、日露戦争の勃発。祖国の危機を救うため、朝河は、英文の著書『日露衝突』を、開戦九ヵ月後の十一月に完成させ、アメリカとイギリスで出版した。日本が勝てば、「中華帝国と韓国は独立国にとどまるのみならず、新しい文明の影響で、それらの巨大資源が開発される」などと書かれている。日本の勝利を念頭に置きつつ、日露戦争における日本の正義を英米国民に説いたもので、開戦に至る両国の衝突の原因を客観的、学問的に述べた。朝河は、「開戦当時にあっては、欧米人の日本に対する感情が揺れ動いていて不安定であったので、少しでも正しい見解が生まれることを願って」と、書いた。朝河は信じていた。「日本は自国の存亡のために宣戦したのだ」ということを。彼がアメリカ各地で行った日本弁護のための講演は大変好評を博した。

 

 

日本海海戦時の連合艦隊司令部


日露戦争で終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の一九〇五年(明治三十八年)六月、戦争継続はこれ以上無理と判断し、アメリカに対し斡旋を依頼した。以後、和平交渉の動きが加速化した。

日露講和会議は、一九〇五年(明治三十八年)八月にアメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所で、開かれた。朝河は、日本側のオブザーバとしてポーツマスの講和会議に出席し、舞台裏で、「日本の戦争目的は賠償金、領土の獲得にあらず」と日本が新しい時代の新秩序のために戦っているという「立場」を主張し、世界中に日本への支持を訴えた。このとき朝河は三十一歳である。

 

 

▲1905年「ポーツマス条約」


当初ロシアは戦争継続も辞さない強硬姿勢で交渉は暗礁に乗り上げたが、ポーツマス条約(日露講和条約)は、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によって、九月四日、日本とロシア帝国との間で結ばれた。

結局、この条約で、ロシアは満州と朝鮮からは撤兵し、日本に樺太の南部を割譲した。日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したが、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者を出し、年間国家予算の約四倍を投下した軍事費二十億円は、戦争賠償金を獲得できなかったため回収できなかった。戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民は、この条約の内容に「弱腰」と怒りが爆発、暴徒化した民衆が内務大臣官邸、御用新聞とされていた国民新聞社、交番などが焼き討ちする事件が起こった。

 


▲日露講和条約の正文(日本外務省蔵)



日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。日露講和条約は結果的に朝河の主張通りに決着したが、その後の日本は大陸進出など戦争への道を歩み始めた。

 

 


▲1905年のポーツマス条約に基づく国境)

 

 

 

 

⑤名著『日本の禍機』出版

 

朝河には、日露戦争後の日本の姿から、アジアにおける孤立と、やがて生ずる日米の衝突が確実に見えていた。日本の本質的な危機を見抜いた朝河は、一九〇九年に、名著『日本の禍機』(実業之日本社刊)を出版した。朝河は、最初、この本に、『日本の危機』というタイトルを付けたが、『日本の禍機』と改めたのは坪内逍遥だった。この本で、日露戦争で勝利し、ポーツマス条約からの約五年間、富国強兵を掲げて小躍りする日本人に、朝河は、口を極めて諫言した。


▲日本の禍機 1909年刊 実業の日本社


ポーツマス条約以後、日本がとった行動は、我が物顔に満州を占領しようとしたことである。中国の主権は認めず、日本以外の他国の貿易に対して満州を閉鎖的にした。日本は公然とポーツマス条約の公約を反故にした。アメリカは当然おもしろく思わなかった。

アメリカの鉄道王、エドワード・E・ハリマンは、ポーツマス条約締結後、桂首相に南満州鉄道の共同経営を提案した。ハリマンの夢は、南満州鉄道をシベリア鉄道につなげ、バルト海へ。そこからアメリカ東海岸へと結んで、世界一周鉄道をつくるというものであった。

伊藤博文や井上馨は、アメリカを抱き込めば北満州に控えるロシアの大軍を牽制できる妙案だと考え、この申し出に賛成した。桂首相はハリマンと共同経営の覚書を交わした。ところが、ポーツマスから帰国した小村寿太郎(外務大臣)は、血も流さなかったアメリカに満鉄の権益を渡すなど何事かと、北京で、清国との間に、満州で第三国による資本投下ができないようにする条約を結んだ。一九〇六年一月、日本は覚書の破棄を正式に通告。南満州鉄道株式会社を設立した。

これと時を同じくして、カリフォルニアで日本人の排斥運動が議会や教育委員会で決定された。ポーツマス条約から二年後の一九〇七年以後、あの排日移民法がアメリカで成立した。なぜ、アメリカは反日に転じたのか。 朝河は、日本が満州を<独り占め>にしたからだと喝破した。 もし、小村が南満州鉄道の日米との共同運営の提案を却下しなければ、日米関係は間違いなく違ったものになっていたろう。

 

 

▲小村寿太郎外務大臣


アメリカ(だけでなくその他のヨーロッパの国々も)は、ロシアの南下政策をおもしろく思っていなかった。中国の主権回復と欧米と日本が自由にかつ平等に支那とつきあえる機会均等を、アメリカは強烈に望んでいた。日露戦争はまさに、中国の主権回復・機会均等を旗印にした戦いであった。だからこそ、アメリカは日本に友好的であり、アメリカは日露両国の調停をし、ポーツマス条約締結で多大なる貢献をした。

 

 

▲現在のポーツマス

 

 

 

 

⑥日米開戦阻止に走る

 

植民地争奪戦で明け暮れた十九世紀のヨーロッパ。 歴史学者、朝河貫一は、日本は、十九世紀型の旧外交を打破し、二十世紀の新外交、東洋に新秩序と平和をもたらす主役となるべきである。朝河はこう信じていた。にもかかわらず、日本は東洋の平和を攪乱する主役に躍り出てしまった。日露戦争後の日本は、朝河の主張と全く異なる方向を選択しはじめた。

第一次世界大戦時(一九一四年)、日本は中国に二十一ヶ条要求を突きつけた。それまでドイツが中国に持っていた権益を火事場泥棒のように奪おうというものだ。軍部の暴走は、誇るべき日本の武士道に反する卑劣な行為に思われた。

一九三一年九月、日本は満州事変を起こし、一九三七年、日中戦争へと弾みをつける。戦争は、満州から中国全土へと拡大した。さらに、一九四一年、日本は仏領インドシナへ上陸。朝河はこのままでは、将来、日本とアメリカが干戈(かんか。戦争のこと)を交えることを予見し、事実その予見は見事に的中した。

日露戦争時、日本を弁護しながらも、朝河には一抹の不安があった。朝河が上げた二大原則、「清国(中国)の領土保全」と「満州、韓国における列国の機会均等」を日本が守るだろうか。大国ロシアに勝てば、その勢いで自国の利益を拡大することのみを愛国的行為と思う者が増えるのではないか。朝河の不安は的中した。朝河には、一連の日本の行動は、アメリカや国際社会への裏切りと見えた。それに何よりも、朝河自身が歴史学者として夢見た東洋の新秩序に対する裏切りでしかなかった。 

朝河は、祖国・日本の破滅への道を阻止するべく、一九四一年、日米開戦直前、戦争回避を目的として当時のアメリカ大統領・フランクリン・ルーズベルトからの昭和天皇宛て親書の草案作りに奔走した。彼は渾身の力と祈りを込めて、ルーズベルト大統領に、天皇へ平和を呼びかける親書を送ることを提案し、その草案を、B5の用紙にタイプライターで打った。愛する祖国日本が朝河から離れていく。朝河の苦悩は深刻なものとなったからだ。大統領親書の送付計画は、うまく進まなかった。そして、朝河の草案は、アメリカ政府によって、書き換えられた。それでも、一九四一年(昭和十六年)十一月、日米開戦の回避のために、朝河貫一とは親交が深いハーバード大学のラングドン・ウォーナー東洋部長の協力を得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行った。朝河はウォーナーと数々の書簡を交わしており、ウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。ウォーナーは、一九〇七年に初めて来日し、岡倉天心のもとで横山大観などと一緒に二年間日本美術を学んだ人でもある。

日本軍部の暴走を誰も止められない。事態は最悪のシナリオに向かって流れていった。朝河にとっては日米戦争は、二つの祖国同士の衝突であった。どうしてもこの戦争を避けなければならない。万に一つの可能性があれば、それにかけたい。それが彼の愛国心であった。

しかし、その親書が大統領から日本に届き、東郷外務大臣が天皇に親書を読みあげていたときには、艦載機が空母を離艦し、真珠湾に向けて第一攻撃隊が出発した直後だった。

残念ながら、結果は朝河の願いもむなしく太平洋戦争に突入してしまった。しかし、日米開戦の危機の前に立ちはだかって、天皇に送るべきフランクリン・ルーズベルト大統領親書の草案に熱意を込めたことは、偉大な愛国者であったことを物語る。あの太平洋戦争の最期はアメリカと日本の一騎打ちの展開で、とどめに原爆を二つも落とされ、挙句の果ては、"終戦後"に日本国の領土に上陸したソ連軍と激戦を交え、日本は完膚なきまでにやられた。

  


 

 

⑦終わりに

 

日露戦争時には欧米に向けて日本の立場を弁護し、戦争後には際限なき日本の大陸進出を憂い、日本に警鐘を鳴らし続けた朝河は、一九四八年(昭和二三年)八月一一日早朝、バーモント州ウェスト・ワーズボロの山荘で心臓麻痺のため七四歳の生涯を終えた。

終生、日本国籍のままで最後までアメリカには帰化をせず、世界的視野と日本国民の幸福という観点に立って、祖国日本への警鐘を数多く発し、祖国を愛し続けた真の国際人だった。歴史学を専攻した動機は、「歴史学研究によって日本に報恩しようと決意した」と日記に記している。

では、朝河の時代の同じように中国、韓国、そしてロシアとも領土問題を抱えているいま、日本は変わりつつあると言えるのだろうか。ここは思い切って韓国大統領を迎えられる対話環境を整えるべきではないのか。現職閣僚が靖国に参拝して、近隣諸国との関係を悪化させては、特攻で死んだ英霊が喜ぶわけがない。日本はもっと大きく変わらなくてはいけないのではないか。(終わり)

 


 

 

【参考文献】

『最後の「日本人」 朝河貫一の生涯』
阿部善雄 著、岩波現代文庫、岩波書店、2004年
『幻の米国大統領親書歴史家朝河貫一の人物と思想』
書簡編集委員会編、北樹出版、1989年
『甦る朝河貫一』
朝河貫一研究会編、国際文献印刷社、1998 年
『ポーツマスから消された男 ―朝河貫一の日露戦争論』
(横浜市立大学叢書) 矢吹晋著、東信堂、2002年
『「驕る日本」と闘った男 日露講和条約の舞台裏と朝河貫一』
清水美和著、講談社、2005年
『朝河貫一論その学問形成と実践』
山内晴子著、早稲田大学出版部、2009年
『「ふくしま」が育んだ朝河貫一シリーズ(1) T.E.ハリファックス』
武田徹他編、朝河貫一博士顕彰協会、2009年

 


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