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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


江戸城に激震を起こした 絵島事件!

11/05/2014


 



 

 

はじめに


四十年ぶり近くで、この四月に、かつての長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市高遠町)に足を運んでみた。幸いにも、高遠城の満開の桜に迎えられた。

「えにしなれや もも年の後 古寺(ふるでら)の中に見出し 小さきこの墓」

大正五年(一九一六年)七月二十六日、作家、田山花袋(本名、録弥(ろくや))が高遠町内の蓮花寺の裏山で、桜の老樹の下に小さな墓を発見し、こう詠んだ。そこに葬られているのは、江戸時代、権力争いの中に翻弄された末に遠流(おんる)に処された悲劇の絵島だった。
町人文化が華開く江戸で起きた大騒動も、絵島の死によって終わりを告げ、以来二世紀近く、田山花袋によって絵島の墓が発見されるまでは、世間からはまったく葬り去られていた。その絵島事件をほんの少し掘り起こしてみよう。


 

 

 

大奥を揺るがす大事件のまとめ


江戸城大奥を揺るがす大事件、いわゆる絵島事件の発端となったのは、正徳四年(一七一四年)一月十二日のこと。その日、大奥の年寄絵島(当時三十四歳・表記は江嶋が正しいらしい)は、月光院の名代として前六代将軍家宣(いえのぶ)の命日に芝増上寺へ参詣した。月光院とは、家宣の側室で七代将軍・家継の生母で、次の②に出てくるお喜世の方(かた)のことである。絵島は月光院の右腕であった。芝増上寺の帰路、絵島は大勢の供の者を従え、木挽町(こびきちょう。現在の銀座四丁目。鋸引き職人が集まっていた町)にある山村座に立ち寄り芝居見物。芝居終了後には当時評判の美男役者の生島新五郎と茶屋で酒宴におよんだ。酒宴の結果、絵島一行は大奥の門限である午後四時までには帰りつかなかった。

このことで、絵島は、生島新五郎との密通を疑われた。まったくの冤罪であるという説も強い。真実はともあれ、下された処罰は厳しかった。

絵島は死罪。ただし、月光院の嘆願により、絵島本人については、罪一等を減じて、信州、高遠藩藩主の内藤清枚(きよかず)、頼卿(よりのり)親子にお預けとなった。生島新五郎は三宅島に流罪。絵島の兄、白井平右衛門も妹の監督責任を問われて斬首。絵島を山村座に案内した奥山喜内は死罪。山村座座元の山村長太夫は伊豆大島、作者の中村清五郎も伊豆神津島へ流罪。絵島の弟豊島平八郎とその子供は追放。月光院派の女中たちは着物や履物を取り上げられ、死人か罪人しか通さない平河門手前の不浄門から裸足で追放。その他連坐刑も含め遠島・改易・永の暇を下された者は千五百人以上だったという。また、山村座は廃座処分。残った市村座、森田座、中村座、の三座にも風紀の乱れを理由にそれぞれお咎めがあり、興行規制が敷かれた。


 

 

絵島とは

 


絵島は甲州藩士の娘として生まれたが、幼くして父が死に、母は連れ子をして白井平右衛門のところに嫁いだ。

江嶋始末集成一によれば、「江嶋の出所立身の事を尋ねるに、父は白井某とて軽きご家人也しとかや、江嶋若年の時は尾張殿相勤候、その時はみきと云えり、その後尾張殿を出て、常憲院(綱吉公)御代御奉公に出る」(以下略)とある。

庶民文化の花開いた元禄の江戸が才気煥発で情感豊かな娘として絵島を育てた。元禄十六年(一七〇三年)みき(後の江嶋)は、二十三歳のとき紀伊徳川綱教(つなのり)の奥方、鶴姫に女中として仕えたが、鶴姫が夭逝したため、白井の友人の奥医師、奥山交竹院(伊豆の利島へ島流し)の世話で江戸桜田御殿に住んでいた甲州藩主徳川綱豊(後の六代将軍家宣)の側室、お喜世の方(後の月光院)に仕えることになった。二十四歳であった。お喜世の方は性格も明るく才気があり、その上天性の美貌の持ち主で綱豊の寵愛を受け、綱豊の三人目の側室となった。

 
絵島は、段々の出世により「表使い」家宣の時代には「御年寄」へさらに家継の頃には「大年寄」となり、大奥の多数の女中の中の最高位に取り立てられた。その才覚利発さによって、大奥の経済全般を掌握し、金の出し入れ、呉服など権益をひとりで自分の思いのままに支配できる大実力者になっていた。(引用:『絵島事件はこうして起こった』=(有)しんこう社出版部)

 

 

    

 

事件の背景


当時、大奥には同種の不祥事はあったようだが、絵島の件がなぜ大事件へと発展したのか、ひとつだけ書いておこう。
 
大奥の内部対立があった

天英院は前将軍、家宣の正室である。しかし彼女の生んだ男児は早世し、将軍の生母となることはできなかった。月光院は前将軍、家宣の側室であったが、彼女の生んだ男児が家宣の後を継いで七代将軍家継(就任当時はわずか四歳)となり、将軍の生母となり、大奥に権勢を張るようになった。この正室対生母の対立の結果、生母月光院の家老とも言える絵島が、正室天英院派に狙われたとみることができる。ただ、天英院という人は、思慮深く温厚な人物だったようで、天英院が直接事を起こしたとみることは疑問だ。(正室・継室・側室とは…簡単に言えば、正妻、後妻、妾のこと)
綱豊が六代将軍家宣となり、お喜世の方がその子を生んだとき、絵島は年寄りに上げられ四百石を与えられている。家宣が死に、四歳の家継将軍が生まれた。月光院となったお喜世は将軍の生母としての威勢を張ることによって、家宣の正室、近衛家からきた天英院、他の二人の側室から嫉妬反感の攻撃を受ける。絵島を厳しく取り調べた評定所の役人たちは、すべて天英院派に属していた。年若い月光院は、家継の補佐役である側用人(そばようにん)間部詮房(まなべあきふさ)を頼りにし、詮房は妻も側室も持たず、江戸城内に住んで政務に励んだという。
家宣が学問の師として迎えた新井白石と政治顧問として迎えた間部詮房を追い込むために月光院派の絵島が狙われたことは間違いない。事実、この事件後、次期将軍選びの流れは旧勢力派が握るようになり、七代将軍家継がわずか八歳でこの世を去ると、八代将軍には紀州の徳川吉宗がなり、同時に、間部詮房、新参の儒学者、新井白石らは失脚していった。

 

 

 

 

厳しかった絵島お取調べ

 

正徳四年二月二十二日、絵島は、預かり先の白井平右衛門宅へやってきた目付役人に、厳しく取り調べられた。
 
世上には、絵島と生島という役者とのうわさ以上に、月光院と間部詮房との間に「私通」があったのではないかということが、取り調べの目的であった。この絵島取り調べの前に、生島新五郎は目付けらによって徹底的に取り調べられ、「石抱き」という拷問にかけられた。石抱きとは、両手を後ろ手に荒縄で縛りあげ、正座させた膝の上に四角の石を乗せ、白状するまでだんだん石を重ねていき、その石を前後左右に揺り動かす。このため皮膚が破れ、その苦痛から逃れるために目付らの言い分をすべて認めさせられ、生島新五郎は、「絵島と情交があった」と白状した。
この新五郎の自白を盾に、絵島は「うつつ責め」という厳しい拷問を受けた。この「うつつ責め」とは、三日三晩一睡もさせずに責め立て、意識朦朧の中で無理矢理に供述させる拷問だが、このような責め苦にあっても、絵島は新五郎との情交はなかったと最後まで頑強に否定した。
 
絵島は老中らの拷問も交えた厳しい追及にも、「月光院様と詮房殿には不純な関係は一切ありません」と明確に否定している。絵島は法廷にあって生島とのあいだに何らやましいことは断じてないと言い開き、大奥のことについては、口外一切厳禁の法度だからと固く口をつぐみ、三日三晩不寝の糾問と鞭打ちに何も語らず、月光院と間部詮房をかばって一言も語ることがなかったという。
 
絵島の罪状は、事件の担当者、老中秋元但馬守喬知が若年寄、大目付とともに評定し、おのが情欲に負けて大奥の重い職責にありながら風紀を乱したとされたが、冷酷無残さは前代未聞の、疑獄事件であった。正徳四年三月のことであった。

 

 

 

 

絵島の取り扱い

 

絵島は高遠へ遠流(おんる)の刑が下された。
正徳四年三月十二日午後二時ごろ、高遠藩江戸屋敷に、老中阿部豊後守正喬から切り紙がきた。
城戸十兵衛が出頭すると、二通の書付が渡された。一通には、絵島の取り扱いの指示が書かれていた。

「一、かろき下女一人附置き候事。 一、食物一汁一菜に仕り朝夕両度ノ外無用ニ候。(食事は一汁一菜とし、朝夕の二食とすること)。附、湯茶ハ格別 其ノ外酒菓子何ニても給えさせ申間敷候(菓子、酒などは与えてはならないこと)。一、衣類木綿着物帷子(かたびら)の外堅無用ニ候。(衣類は木綿の着物とし、帷子(かたびら)以外は無用のこと)。 右之外ノ儀ハ追て伺わるべく候 以上 」

この書状と同時に、正喬から直接十兵衛へ、口頭で次のように申し渡された。

「一、絵島はお預けではないから、そう心得て、遠流の格で諸事を取り計らい申すよう、つまり高遠へ遠流と心得られよ。一、申すまでもないことではあるが、男女間の関係は随分気を付けられよ。一、絵島の受け取りについては委細を坪内能登守と打合せ、牢屋で請取られたし」
 
十兵衛は早速立ち帰り、絵島請取りの人数をつれ町奉行所に出張し、町奉行坪内能登守から絵島を受け取り、駕籠に錠をおろして藩邸に運び、一室に監禁した。絵島を受け取るとき、十兵衛は、係官に絵島の月経の有無を尋ねた。淫奔(いんぽん)の女であったからということで妊娠を知らずに高遠へ押送(おうそう)したのち、子どもでも生まれたならば、あらぬ疑いを受けることを恐れたからだ。牢舎の役人は高遠方の入念に感じ早速絵島に訊ね、その滞りのなかったことを伝えたという。
 
高遠藩にとっては天から降って湧いたような、迷惑この上ない災難であったに違いない。罪科人とはいえ、江戸城大奥で権勢を振るった大年寄り、過ちや粗忽があったらお家断絶にもつながりかねない。藩主以下家老たちは相談し、どんな些細なことにもいちいち伺い書を出した。
翌十三日にもなお、幕府へ伺いを出した。これに対して、直ちに附箋で指示を指示してきた。

▲高遠城址からみた高遠町の遠景




一、絵島事、屋敷の風並悪しく火事の節は私の下屋敷へ退けてよろしきか。
(附紙)下屋敷へ退けられてよろしい。
一、たばこをほしいと申したら出してもよろしいか。
与えなくてもよい。
一、硯や紙をほしいと申したら渡しますか。
渡さなくてよい。
一、扇子や団扇(うちわ)や楊枝などをほしいといわれたならば出してもよろしいか。
与えてもよろしい。
一、髪を結う時、櫛道具・はさみは渡してもよいか。 
それも差し支えない。
一、爪を切りたいと申し出たら、切らせてもよいか。 
それもよろしい。
一、毛抜を欲しい時は出してもよいか。
よろしい。
一、カネ(歯を染めるために)をつけたいと申す時はその道具を出してもよろしいか?
出さなくてよろしい。(※人妻や奥女中などは歯を染めたが、絵島には許さなかった)
一、風呂に入りたいと申したら湯に入れてよいか。
差し支えない。 
一、病気の節は手医師の薬を用いてよろしいか。
その通りにいたされたい。
一、絵島へ私(※藩主)は折々逢いまして様子をみなくてはなりませんか。
左様なことはせずともよろしい。

 

これを見ても、藩はその取扱いに慎重であり、また幕府の命に背かぬよう、微に入り細にわたり、かつ峻厳であったかがうかがわれる。このお預かり罪人の留置やら、護送やら、在所におけるお囲み屋敷の準備など、高遠との連絡で忙しい日々が続いた。
高遠藩では、道中事故があってはと特に願って護送の人数を増やし、一行は八十余人になった。絵島を高遠まで護送する錠前つきの駕籠は、三月二十六日(三月二十八日説もある)の午前四時、四谷を出発した。囚人駕籠に身を入れるときは、法廷で気丈だった絵島が声をあげて泣いたという。

 



 

絵島 囲み屋敷(長野県伊那市高遠)

 

信州、高遠の内藤駿河守へお預けとなった絵島は、当初、高遠城から一里も離れた非持村火打平(ひじむらひうちだいら)に幽閉されていた。絵島が高遠にきて三年目に家継が世を去り、紀州の吉宗が八代将軍となる。翌年、間部詮房は越後村上藩主となって江戸を去る。幕府も大奥も月光院や間部の勢力を恐れる必要がなくなり、享保四年(一七一九年)十一月絵島は冬の西風が寒い非持村火打平から、武田信玄が山本勘助らに命じて、拡張改装させた名城・高遠城三の丸の囲い屋敷に移された。
 
絵島が移された屋敷の外塀は二メートルほどの高さ、その上に一メートルぐらいの忍び返しが組まれてある。二十八年もの長期間、十人近くの武士、足軽に昼夜見張らせることは時の高遠藩内藤家にとってかなりな負担であったろう。
 
最初の囲み屋敷のあった火打平から山室川を遡ること六キロ、日蓮宗の遠照寺がある。当時の住職は、絵島と同じ甲州生まれだったという。絵島が寺を訪れたきっかけは、囲い屋敷の役人を通じて朱子学の本を借りたのがはじまりで、住職の法話を聞き、囲碁の相手もしていたなど、囚われの身ではあったが、寺を訪れることは許されていたという。絵島は日蓮宗へ帰依した。絵島の希望でここの寺に遺品や歯など分骨を埋めた墓がある。その死の際に、墓は蓮華寺にと告げた。
絵島は高遠に遠流の身となってから、亡くなるまで二十八年、質素な生活の日々を送った。江戸時代の女性版ネルソン・マンデラさんであるが、マンデラさんは釈放されたが、絵島は二度と江戸の土を踏むことなく、寛保元年(一七四一年)四月六十一歳でその生涯を閉じ、配所からそれほど遠くない蓮華寺に埋葬された。

 

浮世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光の影も恥ずかし
(江戸出発の折、絵島が詠んだと伝えられる)

あわれなる流されひとの手弱女(たおやめ)は 媼(おうな)となりてここに果てにし
(斎藤茂吉)
 
絵島の死後、三宅島に流されていた生島新五郎は寛保二年(一七四二年)に許されて帰り、翌年七十三歳で亡くなっている。

 


▲台所

▲囲み屋敷 絵島の間 八畳

▲囲み屋敷外観

▲番人詰所など

 

 

 

 

終わりに…

 

絵島裁判は、たった一ヵ月の間に大勢の人を裁き、死罪、遠島、追放、所払いなど非常に過酷で乱暴極まりない裁きを下した。門限をやぶるという軽微な犯罪である。そこに油をかけ火を大きくしたのは、嫉妬からまる権力闘争である。大奥内の次期将軍争いのために利用されたといっても過言ではない。門限破りで終身刑はひどい。最も恐るべきは、人間の心に巣食う権力の魔性だ。「裁定を下した人たちは、自責の念のために死ぬだろう」という声が、江戸庶民の中から起こった。事実、処断のあった一ヵ月後の四月に、秋元但馬守喬知(あきもとたじまのかみたかとも)は死去した。喬知は処断のあった日から邸宅に閉じこもったまま一歩も外出しなかったという。
 
絵島の断罪判決のあった二ヵ月後の五月、老中坪内能登守定鑑(さだかね)は、「流人の扱いに手違いがあった」と将軍からけん責処分を受けた。またこの裁判の主要目付稲生次郎左衛門は出仕拝謁(※出勤・高官面会)を差し止められた。そして事件後間もなく、この事件に関連して処分された人々は、重罪に処せられた者の外は大勢が赦免となった。
 
絵島は、江戸時代から今日にいたるまで「絵島生島」と呼ばれて芝居や映画で演じられてきたが、実際にはこの恋は存在しなかったと考えられる。
高遠藩は幕府に対して再三絵島の赦免要請をしたが、最後まで「上告棄却」で望みは断たれ、絵島は幽閉地の高遠で没した。派閥抗争の中での評定に、江戸の粋な計らいはなかった。
高遠の内藤家は、尾張徳川家と親しかったことが、絵島を押し付ける原因になったと思われるが、厄介極まりない預かり人に対して、高遠藩がやさしい心遣いをしたことはせめてもの慰めである。(完)

 


【参考資料】

国史大辞典 第2巻 国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1980年
伊那市高遠町 資料「絵島囲屋敷」
日本の歴史展望 8江戸 旺文社
絵島高遠流罪始末 井上橘泉 日本行刑史協会

 


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