スペイン植民地時代の面影を残す城壁都市 Intramuros | feature

 

 

  スペイン植民地時代の面影を残す城壁都市 


 Intramuros イントラムロス

 

 

太平洋の7107もの島から成り立つ笑顔の楽園フィリピン共和国。1年を通して平均気温が約27度、湿度を意外と感じない心地さと、国民が持つ人懐こい笑顔が実に印象的な国だ。そんなフィリピンがここ近年、経済成長真っ只中の、今まさに世界が注目しているアジアのハブ都市になっている。

経済・政治の中心都市である首都メトロマニラは、人口約900万人の大都市。近年外国企業のマニラ進出が著しく、外国人ビジネスマンの数も年々急増の一途をたどる。特に英語を活かしたコールセンター業務は、シェア率トップを誇っている。マカティやオルティガスには、高級ホテルや巨大ショッピングモール、カジノなどさまざまなエンターテイメントも充実しており、インフラ整備の充実や超高層ビルの建設のスピードから、否が応うでも発展途上国の成長のパワーを感じることだろう。気になる治安だが、意外にもフィリピンの犯罪率は欧米諸国よりも低いことが統計に出ている。ただ繁華街から外れれば、地方から流入してきた貧困層がスラムを形成している地区があったり、危険がないとは言えない。そういった場所にひとりで夜近寄ったりしなければ、心配はない、というレベルだ。言い換えればそれはどこの国の都市にいても同じことではないだろうか。

ガイドブックなどでいわゆる注意の対象とされているローカル電車を乗り継いで、マニラからイントラムロスへと向かった。イントラムロスとはスペイン語で「壁に囲まれた街」という意。1571年にスペインからのコンキスタドール(征服者)であるミゲル・ロペス・デ・レガスピが、フィリピン統治のために建設した城壁都市だ。1570年にレガスピは、ムスリムの王ラジャ・ソリマンの支配するマニラに攻撃をしかける。そして翌年5月にマニラを占領し、初代総督としてマニラを首都と定めた。その後約300年の植民地時代に、スペイン文化が深く浸透することになる。

その当時このイントラムロス内に住むことを許可されたのは、スペイン人とその混血だけだった。城壁内にはスペイン文化の影響を受けたロマネスク風建築物が多く見られたが、第二次世界大戦時にそのほとんどが消失。唯一サン・アグスチン教会だけが当時の姿のまま残っている。

スペインがアメリカとの米西戦争で敗北し、フィリピンが完全に独立するまでの40年間、フィリピンがスペインからの独立をするため支援をしていたはずのアメリカが、パリ条約のもと統治権を握り、過酷な植民地支配を行った時代を経て、ついに1496年、フィリピンが長い植民地支配から脱出し、独立国家となった。フィリピンの生活スタイルや食べ物、街の建造物などにスペインやアメリカの統治時代の影響色濃く残っているのは、こういった歴史的背景が関係しているからだ。

現在、イントラムロス内にある戦争中に破壊された病院、大学、修道院などは修復され、スペイン統治時代のフィリピンを感じられる歴史ある地区として蘇っている。今日もマニラ最大の観光地イントラムロスへ訪れる観光客は、途絶えることがない。

 

 

左:奇妙な形をした要塞跡のサン・ディエゴ堡塁(ほうるい)※は、内部に鋳造所があり、当時スペイン軍の大砲を造っていた。直径は34メートルもあり、三重の円形と放射状の構造体から形成されていた。円構造の内側には螺旋階段があり、それを下りていくと幾つもの部屋があった。1760年代のイギリス軍による攻撃、1862年の地震、そして第二次世界大戦の爆撃などにより、壊滅的な被害を受けた。※堡塁とは、敵の攻撃を防ぐために、石や土砂などで構築された陣地のこと。

右下:サン・ディエゴ堡塁入り口付近の石畳に日本人の墓石のような石がある。故考張門林と読める。

 

 

 

英雄ホセ・リサールが佇む

サンチャゴ要塞

 

イントラロムスの北の一角に位置するサンチャゴ要塞は、1571年から実に150年もの年月を費やして造られた。もともと海賊の襲撃を防ぐためのものだったが、スペインの統治時代、マニラ湾の動向を容易に把握することができるようにと城塞化された。アメリカ統治時代には軍司令部、第二次世界大戦中は日本軍がフィリピンに押し寄せ、ここに日本憲兵隊本部が置かれた。数百人ものフィリピン人とアメリカ人が日本軍により水面下の地下牢に投獄され、満潮時に水死させられたという過去も。ここはスペイン統治からのフィリピン解放運動に貢献した英雄ホセ・リサールが処刑されるまで留置されていた場所としても知られ、現在はリサール記念館となっている。ホセが当時使っていた机、服、絵画、恋人だった日本人女性「おせいさん」の肖像画などが展示されており、今もなお英雄としてフィリピンの国民から愛され続ける彼の、処刑直前までの暮らしを垣間見ることができる。ちなみにスペインの統治時代、サンチャゴ要塞から大砲が届く位置に、チャイナタウンを作らせたという逸話もある。言われてみれば、確かにパッシング川を挟んだその先には、チャイナタウンの鳥居がそびえている。

 

 

左:処刑台に向かう英雄ホセ・リサール像。
中:日本軍が占領したさいに使用した地下牢。
右:無数の銃弾の跡が残る家屋。

 

 

 

 

450年の歳月を耐え抜いた世界文化遺産


サン・アグスティン教会

 

フィリピンに現存する石造教会で最古のサン・アグスティン教会。スペイン初代総督レガスピによるスペイン統治後の1571年に着工し、完成までに約20年の歳月を費やした。7度にわたる大地震や第二次世界大戦にも耐え抜いた同教会。フィリピン国内に点在する石造教会は、聖堂であると同時に、要塞としての機能とも兼ね備えていたのがその理由だ。立体的に浮き上がって見える天井に描かれた絵や、窓のステンドグラスが美しく、明るい雰囲気の世界文化遺産。同教会のほか、ルソン島パオアイのサン・アグスティン教会、サンタ・マリアのアスンシオン教会、パナイ島ミアガオのヴィリヤヌエバ教会の4つの教会が世界文化遺産として登録されている。

 

 

左下:祭壇左の礼拝堂には、スペイン初代総督レガスピが眠る。
右下:スペイン統治時代、実際に時を知らせていた鐘。

 

 

フィリピン人の心の拠り所

マニラ大聖堂

 

第二次世界大戦で一度は破壊されたが、戦後にネオロマネスク様式で再建されたマニラ大聖堂。ファサードの十字架の真下にある白いディスクには、法王の鍵と冠が施されており、1981年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世が訪れたことを記念している。アジア最大級のパイプオルガンが響き渡る室内にある大理石でできた教壇の奥には、等身大の黄金の聖母マリア像が輝く。1月18日にはフイリピンを訪れたローマ法王フランシスコ1世がこの教会でミサを行い、多くのカトリツク教徒に歓迎されたのは記憶に新しい。この教会の再建に日本も寄与したことが教会入り口わきに掲示されている。

 

 

 

 

 

ブラックナザレ像が祭られる


キアポ教会


 

スペインの文化がメキシコを経由してフィリピンに入ってきたことは意外と知られていない。メキシコがフィリピンにもたらしたものは、習慣や食物のほかに、聖母マリアやカッシアのリタ、ブラックナザレなど、教会で崇敬されている聖人たちの像がある。マニラで1月の伝統行事であるブラックナザレ祭は、毎年1月9日にキアポ教会の祭壇の上部に安置されている十字架を担いだブラックナザレ像(黒いイエス・キリスト像)を担ぎ、リザール公園からキアポ教会までパレードするという宗教的な祭りだ。なぜキリストが黒いのか? これは諸説あるが、像がメキシコから宣教師によって1606年にマニラに運ばれたときに船の中の火災で像を黒く焦がしてしまったとといった説が有力。奇跡を起こす力があると100年以上前から信じられており、マニラ旧市街を練り歩く像に市民がどうにかして触れようと殺到するという。

 

 



 イントラムロスの住人たちに生活に欠かせないのが、小型バスのジプニーとサイドカー付き自転車のぺディキャブ。特に後者は、仕事に、遊びに、デートに、お昼寝に、多岐に渡り活躍し、生活に根付いていた。休憩中に訪れた居住区域で出会った子供たちは、物資や情報過多の社会で生きる子供にはなかなか見られないような、曇りのない純粋な笑顔が印象的だった。とても貴重な経験を得ることができた嬉しさの反面、子を持つ親として感慨深い気持ちにもなった。フィリピンに入る前には、「フィリピンは危ない」と言われ続け、ある程度先入観を持って臨んだが、訪問させてもらえることに対してのリスペクトの気持ちを忘れずに、時間と場所、コミュニケーション時の精神的な目の高ささえ間違えなければ、問題は起こりにくいと感じた。顔がフィリピーノに酷似していることも現地民に馴染むことのできた大きな理由のひとつかも知れない。写真はぺディキャブの持ち主を客席に乗せ、サンチャゴ要塞のコーナーを攻める著者・大庭祐介。

 

 


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