ベトナム枯れ葉剤被害者支援の会 愛のベトナム支援隊に密着レポート2015 | feature
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    ベトナム枯れ葉剤被害者支援の会


    愛のベトナム支援隊に密着レポート2015

     

     

    2012年から参加しているベトナム枯れ葉剤被害者支援の会に今年も取材同行した。支援活動の対象者は、ベトナム人枯葉剤被害者とその家族。多くが今なお困窮し、生活もままならない状況にある。ただ支援金を送金するのではなく、どんなに時間が限られていても、または費用がかかっても、実際に現地に出向き、触れ合うこと、苦しみを分かち合うことを目的としている。それが本当の支援と、弊紙コラムニストであり愛のベトナム支援隊の北村元氏は言う。弊紙読者に対し、今後の支援活動への理解を深めるきっかけになってもらえたら本望に思う。2015年8月17日~8月25日 大庭祐介

     

     

    空港で支援隊と合流し、バスでハノイへと向かう途中、昨年までは完成していなかったニャッタン橋がホン川に架かっていた。この橋は日本の政府開発援助で建設したとのことだが、現在、ベトナム人カップルのデートスポットとなりベトナム文化に溶け込んでいた。日越友好を象徴とするニャッタン橋のように、徐々に近代化の波が押し寄せるベトナムだが、ここにはいまだ抱えている負の遺産が存在する。



    ベトナム戦争が終結してから40年近くが経過してもなお、現在まで抱える負の遺産は、ジャングルに潜む不発弾と枯葉剤被害にほかならない。1961年8月10日、アメリカ軍のH34ヘリコプターから、枯れ葉剤(ダイオキシン、2378-TCDD)が撒布された。南ベトナムで以後10年間続くアメリカ軍による枯れ葉剤配布作戦の始まりだった。当初その目的は、ジャングルの木々を枯らせ、そこに潜む見えない敵を白昼の下にさらすことであったが、ほどなくその行為は枯れ葉剤を武器として使用する直接的な行為へと変化した。1975年までの間、ベトナムの国土は世界最大の化学戦争の戦場と化し、撒かれた枯れ葉剤の総量は約8000万リットルと言われている。そのなかに生成過程で偶然生じた猛毒のダイオキシンが366キログラム含まれていた。ダイオキシンは1ナノグラム(10億分の1)で染色体や細胞遺伝子を変異させるとされており、1グラムで10万人の成人が死ぬ計算が立つ。製造した化学会社はそれを知りながら納入し、アメリカ政府とアメリカ軍中枢も撒布行為を続けた。その結果40年を過ぎた今でも、直接の被害者である第一世代から、孫の第三世代まで多くの被害者が救いを求めている。



    愛のベトナム支援隊にできること。それは枯れ葉剤の後遺症に苦しむ生き証人やその子孫が求める真の解決を迎え、かつ加害者に対して『赦し』ができる状態の日が来るまで、今なお困窮し生活に苦しむ彼らと直にふれあい、心に向き合い支えることにほかならない。 

    参考文献:アメリカの化学戦争犯罪 著者北村元

     

     

     

    8月18日 ヴィンフック省
    小指を失ったティちゃんとの再会

    ナムくんからの手紙『お誕生日に何ももらえなくても母からのおめでとうがあれば嬉しい』を北村さんが受け取り、ヴィンフック省のVAVAにて、奨学金対象者全員にお誕生日会を開催。その後、母親の内職であるサトウキビを絞る機械に手を引き込まれ小指を失ってしまったティちゃん宅を訪問。ボランティア参加当初から彼女を見ているが、健康状態はよくとても頭のよい子だという印象を受けた。枯れ葉剤第二世代の母は、右半身不随だが、サトウキビ・ジュースを売りながらほんのわずかな儲けで家計を支えている。不自由で20キロある病院へは年に一度行っている。ティちゃんは将来弁護士になりたいと話す。

     

     

     

    8月19日 ニンビン省
    笑顔の愛おしいふたりと出会う

    ニンビン省では精神障害のある第二世代をもつ2軒の家庭を訪問した。ヒエンさん(上)の父親は1972年に入隊し、歩兵としてクアンガイ省南部に行った。1975年の終戦まで戦ったあと、1976年からクメール・ルージュ対策で1年間カンボジアへ。枯れ葉剤の影響が長女のヒエンさんに出てしまったが、彼女はとても表情豊かで明るい印象を受けた。ドアインさん(右)の父親もまた、1972年から北ベトナム軍へ入隊。1975年の終戦とともに帰郷してからすぐにセメント会社に勤めたため、枯れ葉剤被害者の認定を受けていないが、息子に影響が出てから自分が枯れ葉剤を浴びたことを知ったという。精神障害のドアインさんは身の回りのこともできず、親との会話もできない。でも第二世代の2人の共通点は、言葉にも勝るほどの豊かな表情と屈託のない笑顔だ。

     

     

     

    8月20日 ホアビン省
    盲目の音楽家たち

    盲目の兄妹と会った。長男ヴァンさん(下)は17歳から笛を吹いていて支援隊に披露してくれた。次女のニン(上)さんは歌が好きでとても上手。聴力に長けているため、前回に訪問した北村さんの声を覚えていた。ヴァンさん三兄妹に歩行器を贈呈したが、両手が塞がるために使用が難しいとのこと。実際に使用してみないとわからないことが多いが、地道に一歩一歩進んでいくしかない。北村さんは久しぶりに挫折を感じたという。

     

     

     

     

    8月21日 ハノイからダナンへ

     

     

    アメリカ海兵隊が米軍基地を建設し、中央直轄市として機能していた都市ダナン。1968年の旧正月に南ベトナム解放民族戦線がダナン駐留米軍に大攻勢をかけた“テト攻勢”は、ベトナム戦争の激戦のひとつだ。ダナン空港北端は、ベトナムの三大枯れ葉剤汚染地としても知られている。年々訪れるたびに感じるのがダナンの近代化。ビーチ沿いにはリゾート施設が急速に建設されている。しかし、ダナンの被害者たちは、今日も変わらず貧困生活にあえいでいる。今回もダナンVAVAオフィスにて奨学金とお米を5名に贈呈。身長が伸びない病気を持つトォオン君とも再会できた。

     

    8月21日 クアンガイ省

    ダナンから長距離バスでクアンガイ省へと移動し、チエウさん宅を訪問。家族は非常に貧しく、父親は体調が悪いため、母親が仕事を掛け持ちして頑張っている。雨漏りする家の中で傘をさすこともしばしば。普段、子供たちは床に御座を敷いて寝ている。チエウさんの将来の夢は英語の先生になることだ。

     

     

     

    8月22日 ダナン
    リーちゃんムン君宅へ

    リーちゃんとムンくん宅を訪問した。2年前に訪れたときには、トタンの屋根で蒸しかえっていた室内も、VAVAの補助でリフォームされて以前よりは快適になっていた。父親は4年前から肺と腸が悪く仕事ができないため、母親が労働力。リーちゃんは、朗読の先生に、ムン君は医者になりたい。

     

    ダナンの枯れ葉剤被害者の施設を訪問

    ダナン最終日に、枯れ葉剤被害者の施設を訪問した。オレンジの民族衣装を着てダンスを披露してくれた施設の子供たち。お返しに日本で作ってきたダンスの振り付けを子供たちに教えて、最後は皆で踊って盛り上がった。

     

     

     

     

    8月25日 ハノイ市
    最終日は友好村にてスイカ割り

    友好村は、1967年までアメリカ陸軍砲兵隊軍曹の職についていた故ジョージ・マイゾー氏によって創始された。自身が“テト攻勢”のさい、小隊の唯一の生存者になり、戦争へ対しての疑問を感じ、軍病院で治療中に「この戦争に生き残れたら人生の残りは戦争反対を叫び平和に捧げよう」と誓い、友好村構想へと乗り出した。かつての敵が一緒になって働く友好村事業は、癒しと希望、そして国際協力を実現し、障害者の社会復帰を目指す場となっている。友好村には、現在120人の子供被害者と、60人の退役兵士が住んでいる。
    今回の訪問でも毎年恒例のスイカ割りを行った。スイカが割れず悔しそうな顔や、割れて嬉しそうな顔、怒った顔など、子供たちの色々な表情を見ることができた。

     

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