『命のビザ』杉原千畝の意思を受け継ぐ姪孫 杉原哲也さんが来豪 | feature

『命のビザ』杉原千畝の意思を受け継ぐ姪孫 杉原哲也さんが来豪 | feature

『命のビザ』杉原千畝の意思を受け継ぐ姪孫

 

杉原哲也さんが来豪

 

 

「忘れもしない1940年7月18日の早朝のことであった。6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、色々の人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」 杉原千畝

 

 

 

第二次世界大戦中、バルト三国のひとつであり、当時中立国とされていたリトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝は、ナチスドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から、オランダ植民地であったキュラソー島へと逃れるユダヤ人難民に、苦悩の末、外務省からの訓令に反して日本国通過査証(ビザ)を発給し、およそ6千人の命を救ったことで知られる。定められていた受給要件を満たしていない者に対しても、独断で通過査証を発給した千畝。万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が50日間続いたという。

 

神戸などの市当局が困っているのでこれ以上ビザを発給しないようにと本省が求めてきていたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」と、後の報告書のなかでビザ発給を継続した理由を説明している。

 

杉原は亡くなる前年の85年、千畝のビザによって生き延びた人々『杉原サバイバー』の証言により、イスラエル政府から同国最高勲章が贈られた。いまなお、「諸国民の中の正義の人」として讃えられ、語り継がれている。また、千畝の功績を教科書などに掲載せず、表立って表彰をしなかった日本の旧外務省関係者の千畝に対する姿勢は、2000年の河野洋平外務大臣による公式の名誉回復によって無事に一変した。

 

東日本大震災が発生した際、ユダヤ人社会から、「外交官生命をかけてユダヤ人難民の救済を強硬した千畝の功績を想起し、いまこそ我々がその恩義に報いるとき」と声明をあげて積極的に救済活動を行ったという。千畝への恩恵、そして千畝の価値観が現在にも受け継がれていることを意味しているようだ。

 

千畝の姪孫である杉原哲也さんが9月末にシドニー南部にあるカブラマッタを訪れた。千畝は哲也さんの祖父の兄にあたる。哲也さんの祖父は若くして亡くなったため、千畝が哲也さんの父、直樹さんの親代わりをしてくれたという。同氏にとってもまた祖父同様の存在だったと振り返る。哲也さんが大切に保管している、千畝から直樹さんへ当てた手紙の中にも、孫である哲也さんを気にかけるような文面がいくつか確認できた。

 

千畝が11年間寄り添った初嫁はロシア人であったことはあまり知られていない。1919年に外務省ロシア語留学生としてハルピンに渡った際に出会ったクラウディアさんは、ロシア正教徒のロシア人だった。結婚という社会的なルールのため、千畝もその洗礼を受け、クラウディアさんを家族として迎えた。当時、ハルピンで暮らすロシア人の多くは、ユダヤ人を中心とする共産主義革命で成立したソビエトを追われ、移り住んだ人たちである。そのため、クラウディア家もユダヤ人に対しては好ましくない感情を持っていた。後年、千畝はそのユダヤ人たちの命を救うことになる。彼には、命の危機にさらされ困窮した人を見捨てることなど、どうしてもできなかった。彼はユダヤ人を助けたのではなく、「人間」に手を差し伸べただけなのだ。どのような環境があろうとも、人間として千畝の英断に対する評価が揺らぐことではない。

 

時代は千畝の結婚を許さなかった。ロシア人社会に深く入りすぎていた千畝のスパイ容疑である。長く暮らしたハルピンを離れ、日本帰国する際、別れたクラウディアさんはひとりオーストラリアへと渡った。その詳細は知る由もないが、傷ついた彼女をこの国の大きな心が優しく迎え入れたであろうことは想像に難くない。カブラマッタの聖セルギウス養老院にて、1993年、90歳で亡くなっていることは事実である。クラウディアさんがどのような思いでオーストラリアの地を訪れ、そして生涯を終えたのか。また、哲也さんは訪れた聖セルギウス養老院で何を感じたのだろうか。

 

現在、哲也さんは、本業の傍ら、『千畝リベレーション協会』を運営している。同協会は、千畝という個人を宣揚したり顕彰したりするものではなく、彼のような人道主義に立った無私の行動、いわゆるチウネ・スピリットに喜びを見出すことを目的として、2013年に社団法人として設立した。活動内容としては、毎年スリランカの山深い不便な土地にある小学校へ文具を手渡しに行っている。また、仕事の関係でシドニーを訪れることが多かった哲也さんが、たまたまシドニー・ジューイッシュ・ミュージアムを訪問したところ、数多くのホロコーストサバイバーと出会うこととなった。大戦当時の話を聞くなかで、寛容の心とともに調和と多様な価値観の重要性を語るホロコーストサバイバーの人々と、哲也さんが運営している千畝リベレーション協会が指向しているものとに共通性を感じ、シドニーを訪れるたびに交流を深めていった。哲也さんは千畝の遺品、特に彼の手紙をユダヤ人団体に記念として贈呈することを繰り返したという。そうしたいきさつから、12月6日に行われるシドニー・ジューイッシュ・ミュージアムのリニューアル式典に、哲也さんと、哲也さんの父である直樹さんが招待されている。千畝と多くの時間を過ごし、千畝との思い出をとても大切にしている息子のような直樹さんに、ユダヤ人から千畝がどのような大きな感謝を込めて名前が語られているのかを見せてあげたいと、哲也さんは考えているそうだ。

 

また、前日の12月5日にはNSW大学内のNIDAにて、哲也さんのトーク・シンポジウムと水澤心吾さんの『命のビザ』公演が行われる予定となっている。杉原千畝の一人芝居を中心に活動されている水澤心吾さんの人生もまた千畝同様、辛酸をなめた葛藤の連続で、シドニーという土地が、彼に役者としての転機の舞台であったというからとても興味深い。千畝の心に触れる大変貴重な機会となるため、お時間のある方はぜひシンポジウムに参加してみてほしい。

 

 

 

 

杉原千畝

外交官。第二次大戦勃発時、リトアニア共和国カウナスの領事代理に在任中、ナチスドイツの迫害を受けていたユダヤ人約6,000名に受給資格を満たしていないにもかかわらず、独断で渡航ビザを発給した。戦後、外務省の人員整理の対象となり外交官を辞職するがその人道的行為は彼の逝去(1986)の後に世界から高い評価を受けるようになる。杉原の発給したビザは「命のビザ」と呼ばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて、現在数十万人以上にも及び、世界各国で活躍している。また、やはり当時、ナチスドイツのホロコーストから多数のユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーの功績になぞらえて「日本のシンドラー」と呼ばれることもある。

略歴(1900年1月1日─1986年7月31日)
1900年(明治33年)
1月1日父好水と母やつの二男として出生。(本籍:岐阜県加茂郡八百津町)
1917年(大正6年)
愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高校)卒業後、父の強い勧めにより京城医学専門学校を受験するが、白紙答案を出し退席。
1918年(大正7年)
早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)入学。
1919年(大正8年)
同大学中退。外務省留学生採用試験受験に合格し外務省ロシア語留学生としてハルビンに渡る。
1932年(昭和7年)
満州国外交部特派員公署事務官となる。
1935年(昭和10年)
日満ソ三国協定成立。
1939年(昭和14年)
リトアニア・首都カウナスに領事館開設を命じられる。
1940年(昭和15年)
7月ユダヤ難民へのビザを発給。8月26日までに計2139家族に日本通過ビザを書き続ける。
8月29日カウナス領事館閉鎖。後、チェコ・プラハ総領事館に勤務。

 

 

 

水澤心吾の一人芝居
「決断・命のビザ」上演と杉原千畝の親族による講演

日時: 12月5日(月)2回公演(英語字幕付)
1回目 開演15:00(開場14:30) 講演16:30〜17:00
2回目 開演19:00(開場18:30) 講演20:30〜21:00
会場: Playhouse, NIDA
(National Institute of Dramatic Art)
215 Anzac Parade, Kensignton NSW 2033
料金: 大人35ドル、子供15ドル(前売り大人30ドル)
オンライン申込: www.trybooking.com/NEKZ
問い合わせ: JCS Community Net:
jcscommunitynet@gmail.com
0408-643420/9869-1972
詳細: http://sugiharachiune-sydney.jimdo.com
主催: シドニー日本クラブ(JCS)コミュニティーネット
後援: 在シドニー日本国総領事館、国際交流基金

 


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