オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」

教育ということ(後)

北山時雨

22/03/10


映画『カウラ捕虜収容所からの大脱走』は、戦陣訓を守ろうとしながらも、収容所で生き延びることに悩む朝倉憲一兵長(小泉孝太郎、64年後の現在を山崎勉が演じている)と、妻のいる日本に帰るため必死で生き残ろうとした嘉納二郎伍長(大泉洋)の物語である。しかしながら、戸惑いながらも平安に過ごす彼らの日常も、黒木軍曹(阿部サダヲ)ら数人が入所し、彼らの矯激な行動と考え方によって次第に風向きが変わっていき、目的のない集団脱走へと結びついてゆくのである。蛇足で言わせてもらうと、この阿部サダヲの演技はなかなかよろしい。台詞回し、発声の仕方が他の俳優とちょっと違うのである。よく知らないが彼は只者ではないな、多分。



閑話休題。それにしても集団で脱走を試みようという話になったのは、収容人員が多くなり過ぎたため下士官と兵を分離するという、そのことを契機に、それならばおめおめと生きながらえているよりも、いやむしろ捕虜として生きて辱めを受けるよりも、いっそここで死ぬのが(日本)帝国陸軍の軍人としてあるべき姿である、としたのである。映画の中で、脱走をしてそこで撃たれて死ねば「戦死」扱いになるだろうから、そうしたら貧しい郷里の親兄弟もいくばくかの恩給が支給され、なおかつ名誉も保たれる=非国民と言われないで済む。だから、本音で言えば、死ぬのは怖いし嫌だが、ここで死ぬほうが、生きて虜囚でいるよりも良い、という述懐があり、これがとても胸にこたえるのである。



その判断を各班ごとに(=ハットごとに)全員の意見を集計し、班長会議で決定しよう、ということになる。戦時中の灰色のトイレットペーパーに各自「丸=脱走賛成=死」かまたは「バツ=脱走反対=生」かで投票するのである。このような状況の中で「俺は死を選ばない。最後まで生きる」と言うのが嘉納二郎伍長なのである。これは当時の状況としては稀有のことであろう。日本社会は「空気」というものが支配しているのである。廻りの「空気」によってたとえそれが正論であっても、それが言えず、もしも言えば言った当人が大変な批難を蒙る社会なのである。ここら辺の機微は故山本七平が「空気の研究」に詳しく書いている。御用とお急ぎでない方は是非一読を。



さて結末はご存知のように大多数が死ぬのであるが、朝倉憲一兵長は六発も銃弾を受けながら奇跡的に生きながらえる。病院で看護婦から「これは奇跡だわ」と言われ、「あなたはこれを胸に抱いて倒れていた」と実は嘉納二郎伍長の妻への手紙の束が入っている袋を渡されるのである。そしてその手紙を…と言うのがこの映画のクライマックスになるのである。これは、正義とは何か、という人間の歴史始まって以来の疑問符を描いているのである。いや、この映画あるいは脚本家がそれを意図したかどうかは分からない。しかしこのオヤジとしては阿部サダヲ演ずるところの黒木軍曹をひとつのシンボルとした、日本そのものの社会=言霊(ことだま)が未だに存在し、どこもかしこも「空気」が支配し続ける日本そのものを描いているとしか思えなかったのである。「正義」がまかり通る社会はいやだ。とても怖いものである。我々はそれを充分に知っているはずなのである。歴史にその例は腐るほどある。そのひとつとして「十字軍」を挙げよう。中世ヨーロッパ「神がそれをお望みである」ということで、それに従うことが正義であり、神の意思として何十万という軍隊がエルサレム奪回を目的として出かけていった。そして異教徒であるイスラム教徒と戦い、多くを殺したものが正義であった。戦争を回避し平和条約を結んだフランスの王などは、神の意思を守らず、十字軍の目的から大きくはずれたとして教会(当然カトリックの本山であるヴァチカン)から破門される始末であった。むしろ多くを殺した十字軍の王の場合は聖人に列せられたりしたのである。異教徒を多く殺せば聖人となり、殺さなかったものが破門をされたのである。「正義」とはこのように不可解で不条理なものである。それはつい最近まで続いていた。いや、今も続いているのである。考えてみればすぐ思いつくはずだ。



「正義」の名の下に600万人のユダヤ人を殺したり、「正義」の名の下に60万人の戦争捕虜を極寒のシベリアで働かせ何万人も死に至らしめたり、「正義」の名の下に原子爆弾を投下して何十万人も殺戮したり、「正義」の名の下にハイジャックした何機ものジェット機で超高層ビルに突入したり、「正義」の名の下にチベット人やウィグル人を迫害したり、「正義」の名の下に自爆テロをするのである。それらを思うと人間はどうしようもなく救いがたいものと考えてしまいがちである。我々の世紀ですらこうであったのだから、大昔はどのようであったのか、と思うと暗澹としてくる。



人間は「正義」の名の下に情け容赦のないこともできるが、その一方で飢餓と病苦を克服し、人間の幸福と福利を追求してきた。その成果が仄見えることもある。そしてそれがなければこの世は闇である。無明である。生きている価値がなくなるのである。改めて思うのは、人間という生き物は「業火」と「清浄」を繰り返してきたのであるが、それらは全て教育がなせる業(わざ)なのである。教育は繰り返しである。何度も何度も繰り返して刷り込むことである。その刷り込みがなせる業なのである。映画一巻を見てそのようなことを思うのである。

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