オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」

ベトナム再訪(1)

北山時雨

19/03/11



再びベトナムに来ている。「アジアは悲惨であるか」あるいは「なぜ30年という長い間、同じ民族同士が殺しあったのか」という命題をもって再びやって来たのである。実を言うと、昔々1967年の年末に、戦火の真っ只中にあったサイゴンを見てみようと思い、横浜から船に乗りやってきたことがあった。ところがその時は折悪しく、アメリカが北爆をしたその報復爆撃が激しく、予定していたサイゴン寄港を船長の判断で急遽バンコックに切り替えられ、サイゴンを見ることはできなかったのである。このオヤジは面白くもないバンコックを見、そのあとフランス郵船の貨客船でシンガポールまで行き、そこから先はパリまで、人間の顔がどんな風に変わってゆくのかを見ながら9ヵ月間ヒッチハイクの旅をしていったのである。だからサイゴンには特別な思い入れがあり、昔々に行き違って会えなかった古い友人に会うような、そんな懐かしい気持ちがあったのだ。アメリカがベトナムに本格的に介入したのは1965年で、その後の6年間で消費した爆弾・弾薬量は第二次大戦(すなわちヨーロッパ戦線と太平洋戦線の双方)でアメリカ軍が使用したそれを上回ると言われている。解放戦線をあぶりだすために森という森は焼き払われ、村人は強制的に移動させられ、田畑は放置され、国土は荒れ果てた。それまでコメの生産高では世界一を誇っていたのが見るも無残に落ちたのであった。




その戦争の爪あとなどというものは当然のことながら残ってはいないだろう。何と言ってもアメリカ軍が撤退して38年(1973年)が経ち、南北統一してからでも36年(1975年)という時間が経っているのである。かの有名なレロイ大通りに立ってみても何の感慨も、何の感興も沸き起こっては来ないのである。これはどういうことなのであろうか。多くの本やベトナムからのレポートを読み、テレビが映し出す映像から、町のすえた匂いと、近くで炸裂する爆弾に備えた砂袋の壁と、白昼の大通りのあっけらかんとした広さと、町を行く大量の自転車と、高い青空をイメージしたことがあったのである。空港からタクシーに乗り町に入ってゆくと、そこにはすえた匂いらしきものはあっても砂袋はなく、大通りは混雑を極め、自転車の代わりに臭い排気ガスを撒き散らす大量のモーターバイクが押し寄せ、空はスモッグで薄汚れていた。どこにでもある都会、それも東南アジアのそれの典型であった。ベトナムとベトナム戦争はまったく違う世界なのであろうか。何も戦争の痕跡を見たいのではない。なぜ同じ民族同士が殺しあわなければならなかったのか、その根拠というか、その要因がこのベトナム人の中にあったのだろうかということを考えたかったのである。空港の名前はホー・チ・ミン国際空港というはずであったが、ターミナル・ビルにはなにやらタン・ソ・ニエット空港と書かれているではないか(なにしろ現在のベトナム語の表記は、アルファベットに、上がったり下がったりの何種類ものアクセント・マークが文字の上にも下にもついているだけなので何とか読めないことはない)。


そして人々はいまだに自分たちの町の名前を「サイゴン」と呼んでいる。1975年に統一されたとはいえ、共産主義のハノイ政権が率いる北ベトナム軍が、アメリカが後押ししていた南ベトナム政権の本拠地であるサイゴンを陥落させこの内乱は終結したのであった。言ってみれば北ベトナムが共産主義でこの国を統一したということになる。だからことによったら、同じベトナム人でも北の人間には戦争に勝ったという意識があり、南の人間には戦争に勝ったわけではないという意識があったのだろうか、とよそ者の人間は考えそうなのである。あちこちでこの質問をしてみたのだが、なかなかそういう答えは出てこなかった。ただ、南の人間はのんびり、あくせくしない、おおらかで、北の人間はしっかり者、金銭に執着する、働き者といった評価が大雑把ながら出てきたが、それでも日本人の目から見たら南も北もごちゃ混ぜで、そのすべてがみんなベトナム人の評価に繋がっているようでとりとめがなかった。それでは「ホー・チ・ミン市」と呼ぶことにサイゴンの人たちは抵抗があるのだろうか、という原始的な疑問が沸く。これも聞いてみると「何しろ昔のことで」とか「ホー・チ・ミンはたいそう立派な政治家である」とかで話が茫漠としてくるのである。共産主義になったからと言って人々の生活はまったく変わりはしない、といわんばかりなのである。たぶんアメリカが過剰に反応したということなのだろうか。1954年、フランスはディエン・ビエンフーの戦いで大負けに負け、ベトナムから撤退した。その後ベトナムはホー・チ・ミン率いるハノイ政権が樹立され、独立に向け走り出す。アメリカは、太平洋戦争で打ち負かした日本を「12歳の子供のようである」と規定したが、この時期になって自らが12歳の子供になってしまった感がある。「ドミノ理論」である。いわく「ソビエト連邦はすでに赤である。中国も赤化した。このまま放っておいたらインドシナ半島も赤化するのではないか」という疑心と暗鬼なのである。自らが作り出した幻影に踊らされたその結果なのである。共産主義というアメリカにとって蛇蝎のごとく嫌いぬいたその体制は、むしろアメリカ自身の影武者のようにベトナムに舞い降りたのではないだろうか。2011年という現在から見ればまったくの茶番であるのだが、その茶番が世界史的な悲劇をもたらしたとすれば茶番とばかりは言っていられないのではないだろうか。これから何回かに渡ってちょっとしたベトナムとアジアの悲惨さ(というかばかばかしさ)を考察してみようと思う。(この項続く)


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