北村元
26/06/13
どこかの新聞に載っていた川柳だ。
日銀の法王?は白(白川)から黒(黒田)で決着。ローマの「コンクラーヴェ」は、何回かの黒煙の後白煙で決着。
「コンクラーヴェ」が私の語彙の中に入ってきたのは、一九七八年だった。当時、英国放送協会に勤務していた私は、二~三ヵ月の間に二回も「コンクラーヴェ」報道を体験した。
一九七八年、パウロ六世の死去で新法王に選出されたのは当時六十五歳のアルビノ・ルチアーニ(ヨハネ・パウロ一世)であった。ところがヨハネ・パウロ一世が在位わずか三十三日で死去。一九七八年十月に再びコンクラーヴェが行われた。こうして新法王に選出されたのは、その後二十七年間在位したヨハネ・パウロ二世だった。当時五十八歳。この法王は、生涯二度のコンクラーヴェに臨んだ稀有な方である。
この年のどちらのコンクラーヴェだったか記憶にないが、システィーナ礼拝堂からあがった煙が、どっちつかずの灰色だったという報道があり、笑いを呼んだものだ。
新法王を選ぶ選挙、コンクラーヴェは、ラテン語で《鍵をかける》の意味だが、その語源は史上最長記録となった、十三世紀の法王選挙にさかのぼる。
当時、法王庁の所在はローマではなく、各法王が自分で決めていた。〝事件〟が起こった当時の法王庁はクレメンス四世の希望で、ローマの北約百キロのビテルボにあった。
一二六八年、法王クレメンス四世の死去に伴い枢機卿がビテルボに集まり選挙を始めたが、フランス派とイタリア派に分かれて一年半でも決着がつかない「根競べ」になった。
このため、食料などを提供していた市民が腹を立て、枢機卿らがいる宮殿に鍵をかけて〝軟禁〟したのである。「いい加減にしろぉ」ということだろう。これがコンクラーヴェの語源だ。結局、この時のコンクラーヴェは一二六八年十一月から二年十ヵ月の長きにわたった。その間に、二十人の枢機卿のうち三人が途中で死亡。これも殉教と考えるのか。別のひとりはコンクラーヴェの途中で枢機卿を引退した。
最終的に、テオバルド・ヴィスコンティ氏が次の法王グレゴリウス十世として選出されたが、ヴィスコンティ氏はこのとき第八回十字軍に従軍していたため、ローマに帰国するまでさらに八ヵ月も待ったという長~い話だ。
さて、新法王に選ばれたフランシスコ一世は、あの丸印の窓に現れて教徒に挨拶したが…スキャンダル続きの教会内部の刷新と、世界平和の実現に存分の指導力を発揮して頂きたい。こちらのほうがよっぽど根競べだと思うのだが。
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