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うるせいオヤジの独り言


雑感2題

31/05/2018

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 その251  雑感2題

 

アンザック・デー 

 

今年もまたアンザック・デーがやってきた。フェイスブックや何やらで「戦争で亡くなった人を追悼する日」と捉えている若い人たちがいて、まあそれはそれで間違いではないけれど、それだけじゃないだろう、と言いたくなるのはこのオヤジだけではないであろう。オージーの友人に「日本にもアンザック・デーはあるのか?」と聞かれて、ちょっとつまずいてからこう答えた。「ある、けれども我が国は先ごろの戦争に負けたので、表立って軍隊は出てこない。そのかわり、戦争で亡くなった人々すべて、それは軍人に限らず一般人も、それから特に原爆で亡くなった人々も、空襲で亡くなった人々も、沖縄で戦った人々もまとめて追悼している。それは8月15日でポツダム宣言を受諾した日だ」と答えた。
しかし翌日、もう一度考え直した。日本の「終戦の日」とオーストラリアの「アンザック・デー」を同等に考えて良いのであろうか。それともまったく違うものなのか。違うのならどこがどう違うのか。まずは「軍隊」のこと。日本は建前上「軍隊」は持たないことになっている。だから「終戦の日」には当然のように軍隊は出てこない(もちろん自衛隊も出てこない)。ということは、戦闘で死んだ軍人・軍属は追悼されないのだろうか。日本武道館で菊の花に囲まれた祭壇で、天皇皇后両陛下が頭を下げている姿を写真やテレビニュースで見るが、あれは一体誰に向けて頭を下げているのであろうか。一般的にかつ常識的に考えれば「(8月15日であるからには)先の大戦で殉難したすべての日本国民」であろうか。それでは先の大戦に限らず、日清・日露・朝鮮戦争はどうなるのだろうか。日本国民以外の軍属はどうなるのか。また、日本国総理大臣が朗々と「不戦の誓い」を読み上げるが、これも誰に対して誓っているのだろうか。自分自身に? 国民に対して? それとも外国に対して?
ここで唐突に「靖国神社」が思い浮かんだ。維新の動乱期(ペリーの黒船来航=1853年から明治政府樹立=1868年まで)に国のために奔走して亡くなった殉難者を祀るために、初めは「東京招魂社」として、その後神社の形にして「御霊(みたま)」を祀ることにしたのが「靖国神社」の始まりである。日本初の兵部大輔(陸軍省副大臣に相当か)・大村益次郎の発案であった。それはペリーの来航そのものが「大国難」であったから、それに殉じたのは国が責任を持って祀らねばならないということであった。その後、日清・日露の両戦争で亡くなった軍人軍属も合祀された。そして太平洋戦争/第二次大戦の戦死者も祀られた。皆、神になったのである。ところが戦後の東京裁判(極東国際軍事裁判)で有罪判決を受け、死刑宣告を受けたいわゆる「A級戦犯」も合祀したのである。それが中国、韓国あたりが文句を言う理由にもなっている。しかしながら国のために殉じた人々を祀るというのは国家の責任である。もしもこれをしなければ、国は何の筋も通さないのと同じであり、国民は国家を信頼できなくなる。問題は「神社」という、宗教と取られかねない個人的施設(国営ではないということ)に任せたという点であろう。
一方、アンザック・デーの方は分かりやすい。それはどこにでも出てくる「Lest We Forget」という言葉で表されている。「忘れないぞ」という意志が強く出ている。そしてこの言葉はあらゆる町にあるアンザックの記念碑に刻まれ、毎日目にするスローガンであり、子供のときから自然に、国のために尽くした人は決して忘れてはならない、国も決して忘れてはいないという無言の教育をも行っているのである。もちろんオーストラリアとニュージーランドが共同で軍隊を持った歴史をも表している(それまでは両国の軍隊は英国軍の一部に組み込まれていた)。それゆえ日本と違って軍隊が表立って追悼行事を行っているのである。まあ考えて見れば敗戦国と戦勝国との違いでもあるのであろうけれど。だから「日本にはアンザック・デーはない。けれどそれに相当する記念日はあるし、またその追悼の場も恒常的にある」と言い直すべきであった(しかしながら、またここでキャンベラの「戦争祈念館」と「靖国神社」の比較検討も必要になっては来るのだが)。

 

歴史的な握手 

 

この4月27日、北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長と韓国の文在寅・大統領が板門店で会談を持った。世界中のニュースがこれを「世紀の快挙」「歴史的な握手」として報じた。上記2人が今年のノーベル平和賞にノミネートされるのではとか、いやトランプ大統領の方こそ平和賞だとかかまびすしい。このオヤジは冷ややかに見ていた。なぜ今ここにきて金正恩が軟化したかを考えてみた。ピヨンチャン(平昌)の冬季オリンピックに「俺のところも韓国と合同で良いから出してくれ」と泣きついて、何とか女子アイス・ホッケーで合同チームを作り参加した。それがひとつのシグナルとなって「いよいよ北も対話モードか」の雰囲気作りをし、ようやく実現させた。何やらの思惑が感じられないこともない。
歴史を紐解けば、1945年、日本がポツダム宣言を受諾したあと、朝鮮半島の北からソ連軍が侵攻し、北半分を「朝鮮建国準備委員会」を通じて間接統治を始めた。一方仁川に上陸したアメリカ軍は、南半分を上記委員会を解体し「米国陸軍司令部軍政庁」による直接統治を始めた。3年後の1948年、米ソ対決を背景にして8月に南の「大韓民国」が、9月に北の「朝鮮民主主義人民共和国」がそれぞれ建国された。付け加えると翌年1950年10月に「中華人民共和国」が建国されている。そして1950年、アメリカの国務長官、ディーン・アチソンが極東問題について「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と声明を発表した(有名なアチソン・ライン)。これはもしも「それ以外の地域」に攻撃が行われたら、国連安全保障理事会ですぐに対応するという裏の意味があったのだが、北の金日成は、これはチャンスとばかりにソ連には中国が了承したと言い、中国にはソ連がOKしたと言い、中国、北朝鮮の両軍合わせて100万人以上の兵力で38度線を超えて侵略した。これが朝鮮戦争の始まりである。中朝両軍はあっという間に半島の80パーセントを侵攻した。一方アメリカはすぐさま国連軍を組織し反撃に移り戦線は次第に北に移ったが膠着した。何度かの休戦会談が行われたが難航する。1953年1月にアメリカではアイゼンハワーが就任し、3月にはソ連のスターリンが死去した。そして7月になってようやく板門店で休戦協定が締結された。しかし協定にサインしたのは北朝鮮(金日成)、中国(彭徳懐)そして国連軍(M・Wクラーク)の3者で、韓国の李承晩は協定内容が不服であるとして参加しなかったのである。であるから未だに、そして今でも半島内は「休戦」状態であって「停戦」ではないのである。これは理論的には両国共に「戦時体制」でいつ戦闘が始まってもおかしくない状態なのである。4月27日、南北首脳は「共同声明」に署名した。しかしこれは「核・ミサイル」を将来的に放棄しましょうという内容であって、まだ「停戦」の話にはたどり着いていないのである。
ニュースの続報を追っていると、北朝鮮は5月中に核開発施設をすべて廃棄する、世界中にそれを示すと言っている。見てもらえば、なぜ核開発なぞという金のかかることをしなければいけないかが分かるはずだとも言っている。金正恩委員長の胸のうちを測るのは難しいことだが、これだけ譲歩と軟化の姿勢を見せるということは、よほど苦境に陥っているのか、あるいは直前に専用列車で北京に行き、習近平主席に会い、そこで何やらの知恵を授かったのか計りかねるところがある。アメリカ外交筋の見地に立てば、今まで北朝鮮は約束を守ったことがほとんどないという。それとも今回の南北会談は金正恩委員長の文在寅大統領に対する芝居で、会談の内容がそのままトランプ大統領に筒抜けになることは百も承知で行ったのかもしれない。そしてその狙いは何かというとアメリカ主導の経済制裁を取り払って、世界中から経済援助を取り付けることなのではないか。アメリカの専門家によると、核開発施設と実験場は、衛星写真を分析する限り、破壊の程度がひどく、もう既に使用できないところまできているという。それなら完全に破棄しても惜しくはないだろうし、世界中の報道陣を連れてきて、さあどうだ本当だろうと見せることも可能だ。このオヤジは想像する。北京に行った特別列車は何両編成だったのだろうか。金正恩委員長が指さしていた写真で見る核弾頭はそれほど大きくはなかった。文在寅大統領との会談が第1幕目なら、トランプ大統領との会談が第2幕目である。さてこれからじっくりと後半を拝見するとするか。日本の喫緊の課題はもちろん「拉致問題」であろうが、それは第3幕目以降になるだろう。この芝居は目が離せない。

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