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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


故吉川利治教授からの聞き書き

泰緬鉄道四百十五キロ 建設史の一断面

21/01/2015

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はじめに

悪名高い泰緬鉄道とは、太平洋戦争中に日本軍鉄道隊が一九四二年の秋から一年をかけて建設したタイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ全長四百十五キロの鉄道のことだ。

日本軍鉄道隊は、日本軍の捕虜となったイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、アメリカ軍の兵士を従事させ、工事労働者として、タイ人、ビルマ人、マラヤ人、マラヤ在住のインド人、タイとマラヤの華僑、果てはベトナム人や朝鮮人までも鉄道工事に投入したのである。

泰緬鉄道完成から、今年の十月二十五日で七十周年になる。この機会に、タイ国立公文書館に眠っていた泰緬鉄道建設の機密文書を発見された大阪外国語大学の吉川利治教授から、タイのバンコク市内のルンピニ公園の緑陰で、私が泰緬鉄道建設の秘話を聞き書きしたその一部を起こして、この記事をまとめた。ただし吉川教授は、まことに残念なことに、二〇〇九年十二月三十一日、取材先のタイのアユタヤのホテルで急逝された。日泰関係にとって巨星の損失であった。改めて吉川教授のご冥福を祈りつつ、泰緬鉄道建設の一断面をご紹介しようと思う。

 

 

日本鉄道隊なるもの

そもそも、日本鉄道隊なる軍隊が編成されたのは、日清戦争後である。それは、日清戦争中に、朝鮮・満州で、兵士の移動に輸送手段がなく痛恨の思いをしたためで、終戦の翌年一八九六年に鉄道大隊が作られた。

《吉川教授からの聞き書き1》
「番号のついた鉄道連隊が出来たのは、日露戦争以降です。そして、鉄道第七連隊と鉄道第十連隊から第二十連隊までが、一九四三年から終戦までの短期間に編成されていきました。その理由は、ガダルカナルの戦いでの敗退で、日本の輸送船が次々と撃沈され、海上輸送が困難さを増してきたからでした。朝鮮、中国、満州、ベトナム、カンボジア、タイ、ビルマ、マラヤの三万キロの鉄道を確保して、兵力、資材の移動を自由にしようとしたからです。この鉄道二十個連隊と独立大隊三十ほどを合わせると、合計二十万、師団数に直すとほぼ十個師団という大兵力になっていたといいます」
「大東亜戦争に入ると、鉄道第五連隊(略称「鉄五」)は、鉄道第九連隊(略称「鉄九」)に続いて、プノンペンからバンコクを経由してマラヤ方面に向かい、鉄橋の復旧と輸送業務をしていました。そして、シンガポールが陥落(一九四二年二月)すると、ビルマに転進し、泰緬鉄道のビルマ側のタンビュザヤからタイ国境までの区間の建設工事を担当しました。」 「鉄九は、ベトナムのハイフォンに上陸して、市内のホテルで連隊結成式を行った(一九四一年十一月)後、主力部隊が海南島にむかい、一九四一年十二月八日に南タイのソンクラーに上陸しました。マレー進攻作戦に従軍した後は、最後まで泰緬鉄道にかかわり続けた連隊でした」


泰緬鉄道建設計画は、東条英機首相の登場(一九四一年十月十六日)とともに急浮上したともいえる。鉄道参謀の広池俊雄中佐の計画は、泰緬鉄道完工に必要な作業総人員数を六万人(作業労働者五万 日本兵一万)と想定し、実働の人員数を半分の三万人とみて、全作業を終えるまでの必要日数を四百六十日として計算された。 実際は、多くの死者を出しながら、工期四百六十日間にあわせるために、作業員の大幅な増員が必要になった。枕木一本に死者一人と言われる白骨鉄道の建設は、狂気の沙汰であった。

【用語の説明: ガダルカナルの戦い】
太平洋で行われた戦いの中で、硫黄島の戦いとともに、最も激戦を極めた戦い。ガダルカナル島の戦いは様々な意味で先の大戦での日本軍の戦いぶりを象徴。圧倒的な物量を誇る敵との戦い、兵力の逐次投入を繰り返した愚、そして飢餓との戦い。日本側で二万数千を数えた戦死者の遺骨収集もまだまだ終わっていない。

【用語の説明: 大東亜戦争】
一九四一年十二月八日の開戦から一九四五年九月二日の降伏調印までの日本と連合国との戦いを呼称したもの。日本政府は当時、この戦争の名称を「大東亞戰爭」とした。戦後、「太平洋戦争」という呼称を用いるようになったが、「太平洋戦争」と「大東亞戦争」では定義される戦域が異なり、混用は不適切になる場合がある。

《吉川教授からの聞き書き2》
「なぜ、泰緬鉄道を作らなければならなかったか…一つの背景があります。満州国の場合は、鉄道を敷設して沿線の権益を確保し、日本の勢力を植え込みながら傀儡国家を樹立してきたわけです。それと同じように、泰緬鉄道の建設を通じて、タイやビルマを満州国と同じように傀儡国家に仕立て上げようという考えが、日本陸軍の中枢にあったのではないかと思われるのです」


太平洋での海戦で多くの輸送船を失い、戦線への海上輸送が危険にさらされるようになって、日本の占領地である「大東亜共栄圏」へ陸上輸送路を確保する構想が浮かび上がった。その一環が、泰緬鉄道であった。

 

泰緬鉄道の実地調査を行う日本軍兵士

 

 

労働力としての俘虜(捕虜)の抗議

《吉川教授からの聞き書き3》 「日本軍が泰緬鉄道の労働力として予定していたのは、捕虜にしたシンガポールにいるイギリス軍とオーストラリア軍を核とする連合軍兵士でした。それでも足りなくて、スマトラやジャワにいるオランダ軍の将兵やオランダ軍の支援にまわっていたアメリカ軍将兵の捕虜が、シンガポール経由で送られました。五万を超える捕虜がカンチャナブリに運ばれるのは、一九四二年十月です」

「タイは、捕虜到着を十月十三日以降に確認しています。二千二百キロ離れたシンガポールから運ばれてきた捕虜は、多い時で千五百人。軍用貨物列車で運ばれてくるのですが、五日五晩の無念の旅だったでしょう。到着したバンポーン駅の近くのドン・トゥーム寺境内にできた捕虜仮収容所に収容されて、そこから、軍用トラックか、徒歩でカンチャナブリに向かったのです」


連合国捕虜がシンガポールからタイのバンポーンに送り出されるときに、日本軍は、およそ次のような移動の口実をあげて、捕虜の心を嘘八百でくすぐった。

 

●シンガポールの食糧事情が悪化しており、他地方の方がはるかにましである。
●病人は十分な食糧とレクリエーション施設で健康の回復が得られる。
●鉄道から最寄りのキャンプ地まで歩く以外、行軍はない。
●蓄音機、毛布、衣類、蚊帳は新しいキャンプ地で支給される。
●部隊には、三百五十名の医療班がおり、四百名分の患者を治療し、三ヵ月間維持できる医薬品を備蓄してある。
(ジェームズ・ブラッドリー著から)

 

吉川教授は、自著「泰緬鉄道」(同文館刊)の中で、「タイに送られていく鋼鉄製の貨車は病人列車となっていた」と表現し、そのひどさをレオ・ローリングスの著書を引用している。

「病気流行の速度は、赤痢の流行例をとってみるまでもなく激増の一途をたどっていた。この不浄な病気は、日本軍についでいつも最悪の敵であった。許可なくして列車を離れれば、逃亡とみなされ、ライフル射撃を食らっても文句は言えないのは承知の上で、赤痢患者は肉体の欲求と必要性にせまられて、列車が止まるごとになんとか理由をつけ、命令を無視して貨車からとび降りろなければならなかった。しかも、血便の尾を引きながらである」

広池俊雄元中佐も、「泰緬鉄道 戦場に残る橋」(読売新聞社刊 三百三頁)で、捕虜の動きを書いている。

「五月末(註:一九四三年)のことだった。俘虜の総意を代表したのだろう、十名の俘虜将校が分所本部へ出頭して、請願に及んだ。われわれをかくのごとき環境でこの種作業の労役につかせるのは、公法(註: 国際法)違反だ。即刻、シンガポールへ帰せ、という。
(中略)
板野(ばんの)分所の職員は、こう答えた。
「・・・・・・日本軍ハ条約ヲ批准シテイナイ。ダカラ条約を認メテイラレナイ。(中略)・・・・・・我々ガ、君達ヲ此ノ種ノ作業ニ、コンナ待遇ノ下ニ使ツテイルノハ、悉(ことごと)ク上司ノ命令ト指導トニ依ツテヰル。我々ニハ、如何トモ、シ難イノダ…」

この返答で始めて知った、意外な日本軍の遵法姿勢に、俘虜はまずびっくり仰天、次いで言い知れない不安の念に駆られたことだろう。どこまで地獄に落ち込んで行くのか、と…。そして、ここに、収容所と鉄道隊とに対する見当違いの不信感が植えつけられた、となるのではなかろうか」

 

(左)元捕虜 スタンリー・ウィルナーンさんのスケッチ

(右)一本の枕木に一人の命がかけられたと言われた

 

 

では、国際法とは?

太平洋戦争時、捕虜の取扱いに関する国際条約には、一九十七年十月十八日にオランダのハーグで調印された「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」(陸戦条約)と一九二九年七月二十七日にスイスのジュネーブで調印された「俘虜ノ待遇ニ關スル條約」(俘虜待遇条約)があった。

日本は両条約に署名しているが、批准したのは陸戦条約のみである。俘虜待遇条約の批准は軍部の反対で見送られた。

日本が批准していなかった「俘虜ノ待遇ニ關スル條約」(俘虜待遇条約)では、将校を除いて健康な捕虜を労働者として使役することは可能であった。しかし、それには作戦行動に関係のないこと、不健康かつ危険な労働に従事させないことが条件であった。

《吉川教授からの聞き書き4》 「泰緬鉄道建設は、「作戦に非ざる作業」と解釈し、軍の指令でも、「作戦」とか「軍用」という表現は一切使わずに、巧妙に「陸上補給路」と「交易交通路ヲ開拓」という言葉で、ジュネーブ条約に違反しないように配慮していたのです。陸軍の幹部はジュネーブ条約を十分知っていました。捕虜を建設工事に使用するために、「作戦鉄道」とか「軍用鉄道」であってはならなかったのです」

日本軍は、ダブルスタンダードを貫いたと言える。

 

元捕虜が描いたスリー・パゴダ(Hellfire Pass)での建設工事

 

 

完成時期の前倒し 労働者の脱走!

《吉川教授からの聞き書き5》 「一九四二年秋に本格的に始まった泰緬鉄道の建設完成目標は、四十三年末でした。しかし、インドに退却したイギリス軍が、アメリカ軍の支援で、ビルマに出戻りし、反攻を始めたんです。やがて、マラヤからビルマに向かう海上輸送路も困難になり、他に陸上の代替路を見つけることはできず、『一九四三年二月上旬、大本営は泰緬鉄道建設工期の四ヵ月短縮を命令せり』となるわけです。

そこで、日本軍は、さっそく〝苦力(クーリー)〟と呼ばれる肉体労働者の募集を、文書を通じてタイ側に依頼をします。その総数は石工五百五十人を含めて一万三千人です。この件に関して日タイ合同会議が一九四三年三月に開かれました。石工は困難だが、タイ側が募集してみるという話になりました。同じ月に、もう一度日タイ合同会議が開かれ、日本側が、一九四三年四月十日までに労働者を集めて、四月末までに送り込むようにという条件を出しています。

結局、一九四三年五月をもって苦力の送り込みは、日本軍の要請数よりも多い一万一千五百七十七名とタイ側は日本側に通知していました。

しかし、工期短縮を焦る日本軍は、さらに苦力を要請します。内容は、『建設に必要な労務者は四万五千人で、マラヤから一万五千、ビルマから一万、残りの二万をタイで集めてほしい』と一九四三年五月二十八日の日タイ合同会議で要請するわけです。

一九四三年六月になると、日本軍は労働者二万三千人を雇いあげたいと要請するのです。いろいろとあって、日泰同盟連絡事務局が、労働者二万三千のうち、タイ人労働者で一万人、タイの華僑労働者を一万三千人としました。泰国中華総商会からは、送り出しているのだから、余裕がないと渋られ、半分以下になります。しかし、タイ内務省の努力もあって、タイ人労働者は一万四千人以上が、送り出されることになりました。

問題は、北村さん、その後なんです。言われた労働者の数は、実際受け取ってみると、減っていたのです。列車に乗せて工事現場まで労働者を運ぶのですが、ザルから水が落ちるように、脱走者続出なんですね。この表を見てください。バーンポンは泰緬鉄道の建設基地です。ワンヤイはバーンポンからさらに百二十五キロ入った奥地ですよ。受け取った人数と最後に到着した人数を見比べていただくと、ほとんど、半分もしくは半分以下です。極端なのは、一割しか到着していなかったという例もあります。同じようなことが、ビルマ側でもおきているのです。」


ビルマのインパール作戦が失敗に終わり、連合軍が迫って来た時に、部下を置き去りにして逃亡した史上稀に見る愚将がいた。〝無茶口〟と呼ばれた牟田口廉也司令官。こんなのは極悪犯罪人である。だが、同じ逃亡でも、日本のための作戦建設に召集された地元の人には、他国の戦争に加担する気など毛頭なかった。「三十六計 逃げるにしかず」なのである。

【用語の解説: 大本営】
大本営(大本營)とは、戦時における天皇直属の最高統帥機関のこと。
大本営会議、大本営陸軍部(参謀本部)および海軍部(軍令部)などで構成される。大本営発表は、特に戦争後期には戦果を誇張し、被害を矮小化する傾向が顕著であったが、国民がその内容に公然と疑いをさしはさむことは許されなかった。

 

 

 

規格を下げる… つまり手抜き工事を!

短縮された工期をどう乗り切るか…大本営の取った興味ある処置が、広池俊雄の「泰緬鉄道」に記されている。 「工事量に最も影響するのは、制限勾配と曲半径、施工基面の幅、道床砂利の厚さ、切り取り積土の法勾配、線路両側の伐開幅だ。そこで、制限勾配千分の十を千分の二十(できあがりは、千分の二十五となった)に、曲半径二百メートルを百二十メートルに、施工基面の幅四メートル五十センチを二メートル五十センチに、砂利の厚さ十五センチを半分に、斜面の勾配四十五度以内を土質の許す限りに急に、伐開幅四十メートルを二十メートルときりつめた。そして積土を減らすため、増水したとき線路が水をかぶるのは覚悟の上で、施工基面の標高、つまり線路そのものをひきさげるという思い切った措置をとった」

「それでも追い付かないとなって、こんどは、仕事の手を抜いた。路盤の地均(じなら)しは、枕木を水平における程度で我慢し、じゃまにならない木や竹の根っ子はそのまま残し、橋梁にすべきところを暗渠として埋め殺した」 この悪徳土建業者並の手口で、鉄道建設は大本営命令よりも二週間早く完成した。しかし、である。完成後は脱線事故が相次ぎ、輸送力を十分発揮できなかったことは容易に想像できる。

日本兵が作った『泰緬鉄道の歌』に、泰緬鉄道の実態が歌われている。

 

一 虎の住むよなジャングルで
十月十日(とつきとおか)の泥作業
やっと生まれた泰緬線
出来そこないとは情けなや

三 橋桁三寸生き地獄
見かけの路盤は薄氷
走る列車も骨董品
天国行きとは書いてない

 

(左)最近のスリー・パゴダ(Hellfire Pass)の鉄道後

(右)オーストラリア戦争博物館所蔵の泰緬鉄道の写真

 

連合国軍の爆撃で破壊されたクェイ川鉄橋(1945年)

 

 

終わりに

泰緬鉄道の建設に関わった人々の国籍は、十四ヵ国にも及ぶ。日本、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、アメリカ、そして、タイ、ビルマ、マラヤ、インドネシア、インド、中国、ベトナム、朝鮮…である。
平和時に建設した東海道新幹線の実際の距離は、五百十五キロ超である。東海道新幹線の建設工事では二百十人が犠牲になったという。死亡率はキロ当たり〇・四人だ。泰緬鉄道は、異常も異常。仮に犠牲者四万二千人として、新幹線建設の二百倍。キロあたり百一人の死亡率である。もし、タイに像がいなかったら、こんな数字ではおさまらなかったろう。泰緬鉄道建設は、それほど像さまさまだったのである。日本軍の、特に大本営の愚行と狂気は覆い隠すべくもない。戦争は、「自他共の生命の尊厳」と対極にあるものである。(おわり)

 

 

平和の時代を走る最近の泰緬鉄道(タイ側)

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