オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」
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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


おもしろ歴史散歩! 監獄の島 造船の島

コカトゥー・アイランド

22/01/2015

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【ご挨拶】

ヨーロッパからの第一船団がシドニー湾に入ってきた時、シドニー湾には十四島が浮かんでいた。年を経て、コカトゥー・アイランドに一番近いスペクタクル・アイランドはふたつがひとつになり、他に五島が本土と地続きなって吸収合併され、現在は七島である。 シドニーに住む日本人で、目と鼻の先のコカトゥー・アイランドに渡ったことのある方はどのくらいいるだろうか。 島の管理機関であるシドニー・ハーバー・フェデレーション・トラストによる浄化作戦が終わり、二〇〇七年に島が一般公開された。年間三十万以上の人が島に渡っているが、未だにこの島は立ち入り禁止と思っている人も少なくない。 今回は、オーストラリアの囚人遺跡群のひとつ、コカトゥー・アイランドの歴史に少々触れてみたい。

 

 

【島の知識】

パラマタ川とレーンコーヴ川の合流地点にコカトゥー・アイランドが出現したのは、六千年から一万年前と言われている。言うまでもなく、シドニー湾に浮かぶ島の中で最大の島である。
今特集のタイトルが示すように、かつてこの島には、刑務所、少年院、職業学校、造船用の幹ドックが置かれていた。
ウーリッジの船着場から見れば、三~四百米先でまさにひと泳ぎ。現在の四百米自由形世界記録保持者がドイツのパウル・ビーデルマンの3分40秒07だから、引退したイアン・ソープ氏だって、それほどの大差なく泳ぎ切るだろう。

ここは流刑囚が犯罪を重ねた場合の監獄にはなったが、海に浮かぶ監獄では、一番娑婆に近かった島だろう。だからこそ、脱獄を思い立った犯罪人は数多くいたはずである。

 

Cockatoo Island全景

 

 

【島の歴史 1】

一七八八年以前

地元のアボリジニーがビロイーラと呼ぶ、黄色の鶏冠(とさか)のコカトゥーが飛来していたことから、この島の名前が付けられた。ヨーロッパ人がシドニー周辺に到来する以前のコカトゥー・アイランドは、おそらく、イーオラ人(シドニー周辺の沿岸にいたアボリジニーに付けられた名前)の生活範囲だったと言われる。彼らは、この島をワレマーと呼んだ。「かつて島の丘陵をおおっていたユーカリの森から作られた木の皮のカヌーに乗って、漁業の基地にしていたと推定される漠然とした証拠はあるが、アボリジニーが住んでいたという物理的な証拠は発見されていない」と、ハーバー・トラストは言う。

 

 

【島の歴史 2】

一八三九年~一八五〇年

ジョージ・ギップス総督は、一八三八年、政府庁舎の自身の机の上の積まれた報告書の中に問題を見つけた。イギリス政府は、ノーフォーク・アイランドの救いようのない再犯者の収容先を探せとギップス総督に指示したからだ。

そこで、一八三九年に、植民地ニューサウス・ウェールズのジョージ・ギップス総督はコカトゥー・アイランドを新たな刑務所島に定めた。ノーフォーク・アイランドが、囚人で過密状態となってきたこともあるが、実際は、再犯の犯罪者の扱いに困っていたのだ。

法の掟を繰り返し無視し、刑罰にしつこく抵抗する無法者受刑者に、刑事罰の越えられない限界に対して強制労働をさせることで、彼らの頑なな態度に代価を払わせる…ことにしたのだ。
いずれ、このならず者どもは、移送途中に逃げ、シドニーの通りに戻るだろう。ジョージ・ストリートを闊歩するかもしれない、と総督はみた。
総督はすぐ決断した。再び流刑にしなければならない!
水深があり、サメのいる海に囲まれたもうひとつの島に幽閉するしかない、と。

この島に真水はない。蛇はたくさんいる。パラマタ川の入り口に位置するこの島は、砂岩の島だ。定住するには魅力のない無人島である。政府の庁舎からもわずかの距離で、総督の眼の届く範囲に置ける…。
そのコカトゥー・アイランドに再犯の受刑者の一団が到着したのは、翌一八三九年だった。
そして、やがて、再犯受刑者の第二陣が続いた。ノーフォーク・アイランドからの前科者だけでなく、新たな囚人も到着した。

ジョージ・ギップス総督が一八三九年に新たな刑務所施設の用地とするまでは、ここは手つかずの島だった。刑務所バラック、軍の衛兵所と係官の官舎の建設に、囚人が使われたのだが、再犯受刑者たちの最初の仕事は、自分たちを閉じ込めるための塀を作ることであった。一八三九年から一八六九年の間のコッカトゥー島の施設といえば、刑務所の他に、わずかな建物があったのみであった。

囚人は、その後、植民地の種々の事業のための石の切り出しに投入され、石造りの刑務所のバラック、軍の衛兵所、官舎を建設した。
一八四二年には、ノーフォーク・アイランドからの受刑者によって岩で作られた穀倉サイロが建設され、百四十トンの穀物が貯蔵された。

 

 

【島の歴史 3】

一八五〇年~一八七〇年

一八五八年までに、ここの囚人の数は五百人ほどになっていた、と言われる。その数字を頭に入れて島に行けば、刑務所内の生活レベルの相当の低さが想像できる。一八六〇年代後半では、監獄の受刑者にしても環境はあまりにも非人間的すぎたという。日中は、十二時間陽光にさらされた寝場所で就寝する。そこは、棺を想像させる寝棚のように、他人の体がくっつくように横になる。シャワーを浴びる施設もなく、衣類を洗濯する場所もなかった。ネズミはあちこちを走り回り、換気は悪く、漂う悪臭が鼻を突き、囚人は監獄の棒を握って、少しでも新鮮な外気を求めていたという。

ギップス総督の決断で、ノーフォーク・アイランドの囚人過密問題と再犯受刑者収容問題の解決は、一応成功に終わったと言える。しかしながら、囚人たちが島の南東の隅にフィッツロイ・ドックの建設を始めた頃に、ギップス総督の任期は終わった。
このドックは、英国海軍と他の船が供用できる ように、幹ドックと作業場が囚人によって建設された。この作業は、刑罰の一環と再犯の抑止力を兼ねたものであったので、なかなか厳しいものがあった。足枷をつけたままで、幹ドックの建設などに従事させられた。
フィッツロイ・ドックとは、ギップス総督の後任のサー・チャールズ・A・フィッツロイ(植民地NSWの第十代総督)の名をとって命名されたのである。

フィッツロイ・ドックが完成間近かの一八五六年八月二七日に、送りこまれてきたふたりの囚人がいる。それが、フレデリック・ワードとジェームズ・ガーベットという再犯受刑者だ。
コッカトゥー・アイランド刑務所の最初期で最 も有名な囚人のひとりがフレデリック・ワード。フルネームは、フレデリック・ワズワース・ワード。ワズワースという名前が入れば、イギリスの桂冠詩人に直結し、犯罪とは無縁の響きを感じてしまうが、おっとどっこい。その後のニック・ネームはキャプテン・サンダーボルト。その内縁の妻が脱獄できる道具を携えて、シドニー本土から島まで泳ぎ、その後、フレッドとジェームズのふたりでシドニー本土へ脱獄したと言われているが、その説には賛否両論がある。ただ、フレッドが脱獄したことは確かだ。

 

(左)フィッツロイ・ドック
1847年~57年にかけて、ほとんどは囚人が建設した、イギリス海軍のためのドック。腰まで水に浸かり、足には鉄をはめられて建設に従事した。

(右)囚人のバラックス
囚人がいないときは外見上悪くは見えないが、問題は囚人の詰め込みすぎだった。300人の囚人を想定した建物なのに、500人もが押し込められていた。

 

 

【島の歴史 4】

一八七〇年~一八八〇年

囚人たちはダーリングハースト監獄に移され、コカトゥー・アイランドの施設は少女のための実業学校と、少年院として使われた。近くに停泊したヴァーノン号という船が、不法を働いた孤児少年を訓練するために使われた。

 

 

 

【島の歴史 5】

一八八〇年~一九〇〇年

造船と修理活動は着実に拡大し、サザーランド・ドックが完成した。ところが、よほど刑務所としての好適地だったのか、あまりに犯罪人が多く出すぎたのか、各刑務所が手ぜまになったために、再び一八八八年~一九〇八年まで刑務所へ逆戻り。

 

サザーランド・ドック
1890年の完成時には、世界最大の乾ドックであった。19世紀後半の典型的な技術が見られる。

 

 

【島の歴史 6】

一九〇〇年~一九三〇年

島は一九一三年に、英連邦所属の海軍工廠になった。そして、オーストラリアはこの島で最初の鋼鉄製の軍艦を建造した。

 

• HMAS ワレゴ(一九一一年進水の水雷艇。コッカトゥー島で建造された最初のオーストラリア海軍の船舶) 
• HMASフオン(一九一四年建造。駆逐艦)
• ブリスベン(一九一五年建造の軽巡洋艦)
• アデレード(一九一八年建造の軽巡洋艦)
• アルバトロス(一九二八年建造の水上機母艦)

 

パワーハウス(橙色の屋根)と煙突
ここは、島のエンジンルームで、ドックヤードのポンプと島の機械を動かすために使われた。

 

 

【島の歴史 7】

一九三〇年~一九四五年

第二次世界大戦中の島の役割は、シンガポールが日本軍の手に陥落したことから、南西太平洋での主要造船所となった。少なくとも、戦争中に二十隻の船舶がこの島で建造された。 終戦後も、島では海軍及び民間船舶のためにドックは稼動し続け、一九九二年まで続いた。

 

 

 

【島の歴史 8】

二〇〇一年から現在まで

その後コカトゥー・アイランドは十年間休止状態だったが、二〇〇一年に、シドニー・ハーバー・フェデレーション・トラストが、島の管理機関となり、島全体を博物館にすることに反対した。そこで、四千五百万豪ドルをかけて浄化作戦を展開し、大掛かりな修復作業に着手した。
そこにある遺産をすべて適応性のある再利用を目指して、広範囲な改善工事が行われ、コカトゥー・アイランドは二〇〇七年に一般に公開された。昔が蘇生した、シドニーでも数少ない場所のひとつだ。ハーバー・トラストは、引き続き島の活性化を図っている。

 

ビロイーラの碑
地元のアボリジニーがビロイーラと呼ぶ、黄色の鶏冠(とさか)のコカトゥーが飛来していた。

 

 

【島の歴史= 附録】

サンダーボルトの謎を解く〝鍵〟?

コカトゥー・アイランドからの脱走は稀であった。それは、少なからず、泳げる囚人がほとんどいなかったというからお笑いだ。島周辺の海にサメが出没することも、おそらく脱走の意思を挫いたであろう。 しかし、脱走に成功した者がふたりいる。フレデリック・ワードらである。一八五六年、フレッド・ワードは、数頭の馬を盗んだ廉で、七年の刑を宣告され、島に送られてきた。一八六三年九月、アボリジニーの血が一部混じる忠実で美人の内縁の妻メアリー・バッグは、危険を冒して島まで泳いで渡り、脱獄用の道具を渡した、と言われるが、真偽は? その二晩後に、ワードと仲間のフレデリック・ブリテンとが島の北側から泳いで脱獄し、南のバルメインに向かって泳いだという。ブリテンは溺れてしまったという説があるが、それはどうも嘘のようだ。

当時の警視総監にあてた担当警視の書簡の内容が残されている。
「島の北側の水際で、ブリテンの衣類を発見した。昨夜(一八六三年九月十三日ごろと推定される)脱走に成功したと見られる。ブリテンとワードの容貌をパラマッタ警察ほか、連絡のつく警察署に連絡すべきと思う」と。

五輪選手ドーン・フレイザーの名を冠したドーン・フレイザー・バス(プール)が現在ある場所の近くで、メアリーは、瞬足の白馬と共にフレッド・ワードを待っていたのだ。フレッドとメアリーは朝日に向かって馬を飛ばして逃げた。

コカトゥー・アイランドから脱走後、六週間かけて、北部のニュー・イングランド地域に逃走したのだ。囚人服を脱ぎ捨て、普通のブッシュレインジャーの服装に着替えた二人を、囚人と見破る者はいない。見抜かれることなく、北上の旅を続けた。だが、一八六三年十月二十四日、ユラーラに近いゴスティックで、黒く塗った顔で足がつきそうになった。この続きは、またいつか時間があれば、書いてみたい。

あの有名なブッシュレインジャー、キャプテ ン・サンダーボルトとして、彼が駆け出しの植民地(現ニューサウスウェールズ州)で悪事を重ねていったので、サンダーボルト伝説は雪だるま式に膨張を続けた。
一八七〇年にユラーラで警察が射殺するまで、ワードはNSW北部一帯を恐怖に陥れたのだ。

しかし、彼の子孫は、「警察が射殺したのは叔父のウィリアム・ワードで、フレッド・ワードではない。フレッド・ワードはその後アメリカに行ったのだ」と主張し続けている。またNSW州議会でも、まだその議論が続いている。とにかく、フレデリック・ワズワース・ワードの生年は、一八三五年~一八七〇年五月二十五日ということになってはいる。

キャプテン・サンダーボルトこと、フレデリック・ワードの脱走には、未解決の問題がある。
いまもって謎なのは、 「脱獄時に放り投げていったと言われるキーはどうなったか?」である。

マクロッシン・ミル博 物館(所在地:ユラーラ。ソールズベリー・ストリート)のケント・メイヨー館長は、サンダーボルトが入れられていたコカトゥー・アイランドの独房の鍵ではないかという鍵を持っているシドニーの収集家から連絡を受け、ひょっとして解答が見つかるかもしれないと考えている。

メイヨー館長は調査・研究をしてみて、最初はまったくそうとは思わなかったが、鍵は、まさにワードのものであるかもしれないと思うようになった。メイヨー館長がアーミデール・エクスプレス紙に話したのは、「二〇〇九年に、彼らはコカトゥー・アイランドの囚人調理室で一対の独房を発見した」「これらの独房は一八四〇年に建設されて、一八九〇年に埋められ、それからほぼ百二十年の間まったく忘れられていたものだ。それで、私は、コカトゥー・アイランドに戻り、詳しく調べた。確かに、かろうじて開く鉄格子のドアにさびた痕跡を明らかに見ることができる。これは、フレデリック・ワーズワースを閉じ込めておいた独房の鍵であるかもしれず、あのひどい場所から逃れようという彼の決意を裏付けるものになるかもしれない」。
調査は今も続いている。

 

 

 

【おしまいに】

事実は小説よりも奇なり…三文小説を読むよりも、世界遺産の見学とジェントルマン・ブッシュレインジャーと呼ばれたワードの犯罪事実を追跡することは面白い。学校の歴史の時間でも教えないのではないか。

 

 

主な参考・引用文献

1 "Part 1" (PDF). Management Plan – Cockatoo Island. Commonwealth of Australia: Sydney Harbour Federation Trust. 23 June 2010. Retrieved 8 September 2012.
2 "Executive summary". Australian convict sites: World Heritage Nomination. Commonwealth of Australia: Department of the Environment, Water, Heritage and the Arts. January 2008. ISBN 978–0–642–55390–4
3 "Cockatoo Island: more information". National heritage places. Commonwealth of Australia: Department of Sustainability, Environment, Water, Population and Communities. 15 May 2008. Retrieved 8 September 2012.
4 "Cockatoo Island" (Photo). National Archives of Australia. 1927. Retrieved 8 September 2012.
5 Collerton, Sarah (25 September 2009). "Convict era punishment cells unearthed". ABC News (Australia).
6 Gillett, Ross; Melliar-Phelps, Michael (1980). A Century of Ships in Sydney Harbour. Rigby Publishers Ltd. p. 12. ISBN 0-7270-1201-0.
7 “Captain Thunderbolt & His Lady” Carol Baxter A&U
8 SMH article dated on 3rd of Sept. 2012
9 Chalmers, Emma; Martin, Saray (1 August 2010). "World Heritage Committee approves Australian Convict Sites as places of importance". The Courier–Mail (Australia). Retrieved 8 September 2012.

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