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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


日本の城物語(1/4回)

城が見えます波の上 高松城

23/01/2015

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はじめに

数世紀を超えて、今も日本人の心に勇気や教訓を与える城郭。今回から四回にわたり、日本の城をご紹介しようと思います。できる限り自分の写真でご紹介したいので、回数は限られます。

「三大水城」と呼ばれる城があります。①「高松城」(香川県高松市)②「今治城」(愛媛県今治市)③「中津城」(大分県中津市)。そこで、一回目は、水城(みずじろ)の代表として、「うどん県」を自称する香川県にある讃州(さんしゅう)・高松城を取り上げます。近世城郭の海城(うみじろ=水城)としては、最初で最大の城です。

【用語の解説】

城の歴史は、南北朝時代からの「山城」(やまじろ)で始まります。これは、山頂や山腹などを切り開いて、自然の地形を生かした土塁や小型の櫓などを備えた城です。その後、戦国時代の後期から、平地にある丘を利用して築いた城で、平山城(ひらやまじろ)や、まったくの平地に築かれた平城(ひらじろ)が石垣や堀をめぐらせて登場します。

 

次に縄張りの形式ですが、縄張りとは、博徒の親分の勢力範囲のことではありません。城の中枢である本丸や二の丸などの区画と堀などの配置設計のことです。輪郭式、連郭式、梯郭式などの形式があります。このくらいを頭に入れて読んでください。

 

 

 

讃州・高松城のあらまし

JR高松駅のすぐ近く、高松港のすぐ南隣の緑豊かな高松城跡。高松城は、別名「玉藻城」(たまもじょう)と呼ばれています。万葉集で柿本人麻呂が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するものでしょう。高松城のある玉藻(たまも)公園の敷地は約二万五千坪でとても広い城址ですが、これでも当時の八分の一だと言います。瀬戸の都の旅の始まりにふさわしい城です。

城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外堀・中堀・内堀と三重に堀が廻らされていた日本三大水城のひとつでした。堀のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍という水上兵力の運用も視野に設計された日本初の本格的な海城です。海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった城攻めの手段が使えないため、戦争時の篭城(ろうじょう=城にたてこもって敵を防ぐこと)や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張り(設計)としては優れものだったようです。

天正十六年(一五八八年)、讃岐に入封した豊臣秀吉の家臣・生駒親正公(いこま・ちかまさ・こう)が築城して以来、高松城は生駒家四代五十四年・松平家十一代二百二十八年の歴代藩主の居城として、波静かな瀬戸内海とともに生きてきました。

 

 

 

黒田官兵衛孝高 (くろだかんべいよしたか)の縄張り?

高松城の縄張りをしたのは、今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公で、当時築城の権威であった「黒田官兵衛孝高」と言われています。どうでもいい話ですが、NHK大河ドラマの女性陣の演技がひどいのでブチ切れている人が結構いますね。

天正十五年(一五八七年)豊臣秀吉の四国制圧後、讃岐十七万六千石を与えられた生駒親正が、讃岐(さぬき)に入ります。親正は、まず引田城(東かがわ市引田)に入りますが、讃岐国の東に寄り過ぎていたことなど地の利が悪く、その後は聖通寺城(宇多津町)に移りました。しかし、そこも山城で狭く、新たな城を築くことになりました。

豊前国(ぶぜんのくに=現在の福岡県東部と大分県北部を占めた旧国名)の一揆を鎮圧した黒田官兵衛は、豊臣秀吉に戦後処理の報告をするため京都へと向かう途中に、讃岐の丸亀(香川県丸亀市)に立ち寄りました。讃岐の領主・生駒親正が黒田官兵衛に相談しました。

築城候補地として親正が目を付けたのが、当時「箆原荘(のはらのしょう)」と呼ばれていた玉藻の浦の寒村で、今日の高松市街地です。香東川河口のデルタと水草が波に洗われる海辺でしたが、北は海、西に山塊をめぐらせ、東は入江を抱いて南に開け、城地としては理想的な条件を備えているように親正には思えました。

黒田官兵衛が、「最も適切な場所である」と答えると、生駒親正は、「近くにある石清尾山(いわせおやま=古墳群のある所)は城に不利にならないだろうか」と心配しました。

黒田官兵衛は「箆原荘(のはらのしょう=現高松市)は、一方が海(瀬戸内海)だから、敵が攻めてくるとすれば、必ず石清尾山の方向からだが、道が狭いので一度に大軍が通れない。これは敵に不利で、味方には有利になる。この城地は稀に見る天然の要害で、船の便も良く、国主の居住地として味方千騎に価する」と絶賛したといいます。

これを聞いた讃岐領主の生駒親正は、安心して高松での築城を決意したのです。こうして、黒田官兵衛の縄張り(設計)と助言によって築かれたと言われるのが、高松城です。

城は沖の寄州(よりす=河口や海岸などに、土砂が風波で吹き寄せられてできた州のこと)を中心として周囲二・二キロに築かれ、軍港として城郭西部に港を、東に商港を設け、城下には武家屋敷・職人・商人を住まわせ、完成までには三年かかりました。城名は源平合戦以来全国によく知られた屋島の麓(ふもと)の高松の地名をとりました。

高松城空撮

 

 

 

水戸黄門様と初代藩主松平頼重は兄弟

生駒氏の讃岐での治世は四代五十四年間で終わります。それは、寛永十七年(一六四〇年)に生駒騒動と呼ばれるお家騒動で、讃岐一国を召上げられて、出羽国(秋田県)矢島一万石に左遷されたからです。生駒氏の後、寛永十九年(一六四二年)、家康の孫にあたる、常陸(ひたち)・下館(しもだて)藩主であった松平頼重(よりしげ)が東讃岐十二万石の領主として入城します。頼重は、徳川光圀(水戸黄門)の兄という将軍家に非常に近い立場で、中国・四国の大名の監視役だったと言われています。

徳川御三家水戸藩祖・徳川頼房(よりふさ)の長男に生まれながら水戸藩主になれなかった頼重。水戸藩第二代藩主・光圀は、兄を差し置いて水戸藩主となったことを悔やんでいました。そのため、光圀は自分の跡取りに頼重の子・綱枝を迎えて水戸藩主とします。それに感動した兄・頼重は黄門さま・光圀の子を高松城の藩主として迎えます。頼重も光圀の子・頼常(よりつね)を高松藩主としました。

その後も、高松藩と水戸藩の親密な関係は続き、養子縁組を繰り返すこととなります。松平氏の治世は頼重以降十一代、二百二十八年間にわたり、明治維新までこの養子縁組が続き、また幕府にとって四国で重要な親藩として高松は発展していきました。

余談ですが、彦根藩主であった井伊直弼(いい なおすけ=幕末の譜代大名。近江彦根藩の第十五代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した)の次女千代姫が第十一代藩主頼聰の奥方として輿入れしている縁から、昭和四十一年(一九六六年)、高松城は彦根城と姉妹城縁組をしました。

 

 

 

真鯛が泳ぐお堀

完全に海水を堀に取り入れた水城は高松城だけです。築城当時はどうやって海水の水位を調節していたかわかっていませんが、この城には海水の干満を調節するための水門があります。瀬戸内海の海水を引き込んだ堀には真鯛・チヌがたくさん泳ぎ、エサやりまで体験できます。残念ながら魚釣りはできません。チヌというのは方言で、クロダイのことです。小さい時はすべて雄で、二歳で雄として繁殖に加わり、四歳では三十センチぐらいで、多くが雌に性転換します。

真鯛などに比べ移動範囲は小さく、香川県の海域で一生を過ごすものが多いとか。かつては高級魚並だったチヌ。味のよいタイの生産量が増えたことや、泥臭さ、磯臭さが嫌われて格落ちしました。

 

 

 

黒海の「大手門」と月見櫓

現在見ることのできる城跡や建造物は、ほとんど松平氏が整備したものです。 かつては城が陸の北端となって北側の石垣が直接海に接していました。当時海に面した側には、重要文化財「月見櫓」が現存しています。この櫓は瀬戸内海を出入りする船を監視するために一六七六年頃に建てられました。

また監視の役目だけでなく、藩主が参勤交代で江戸から戻るさいに、船で帰られるのを待つ櫓でもあります。そのため「着見(つきみ)櫓」とも呼ばれています。

この櫓につながった門が、北の丸の「水手御門(みずのてごもん)」と呼ばれる海の大手門で、干潮時には門をくぐり抜けて下の堀を歩くことができます。水手御門は月見櫓の南に位置し、西向きの薬医門(やくいもん=主柱と控え柱の計四本の柱の上に冠木や梁などを組み合わせ、その上に切妻屋根を組む形式。棟心(門の中心)がやや前方に片寄っている)です。

海に向かって開いた門で藩主は小舟に乗船し、沖で御座船(ござふね=天皇・公家・将軍・大名などの貴人が乗るための豪華な船のこと)に乗換えて参勤交代等に出かけました。高松藩が持っていた飛龍丸(ひりゅうまる)という御座船は諸大名の御座船の中でも特に豪華な作りであったと言われ、藩主の出入りの時は、さぞかしきらびやかな大名絵巻だったでしょう。

高松城:月見櫓(左)と水手御門(右・人のいる所)

 

 

 

鞘橋 (さやばし)

二の丸の東南端に、本丸に通じる唯一の通路として「鞘橋(廊下橋)」が架かっています。この鞘橋は、切妻造りの屋根で銅板葺き、そして切目のない腰板の付いた珍しい木橋です。このような屋根付きの橋は、城の橋としてはあまり例がありません。当初は「欄干橋」と呼ばれ、屋根がなかったのですが、その後、江戸時代中期末頃に描かれた「高松城御城図」と題する図には、屋根と両側に腰板付きの橋が描かれていたと言います。

このことは、城郭が軍事的要素だけでなく、景観的要素として、庭園構造物を城郭に取り入れたことを示す珍しい橋です。但し、軍事的には、この橋を落とせば内部にいる人間は逃げ場を失う造りで、戦略上は「やばい」橋です。

鞘橋

 

 

 

アメリカ軍の空襲を受けた桜御門

三の丸の「桜御門(さくらごもん)」は、昭和二十年(一九四五年)七月四日未明のアメリカ軍の焼夷弾爆撃による高松空襲で焼失し、今では石垣と礎石を残すのみで、その後再建されることなく現在に至っています。焼けただれた石垣が見られます。

『桜御門』は、三ノ丸入口に構えられていた櫓付きの城門です。寛文十一年(一六七一年)、藩主の住居や藩政を執り行なう場となる『披雲閣』と同時期の建設とされています。藩主が披雲閣に移り住んだことで、城下へ通じる大手門が廃止され、桜御門が正門となりました。

『桜御門』の左右に延びていた多聞櫓は、明治末期に取り払われてしまい、櫓門のみが残されてきました。それでも高さ約九メートル、一階が門扉で二階に見張り部屋となる櫓を構えた勇壮たる姿は、まさに高松城の正門としての威厳を保っていました。戦後七十年近くたって、三ノ丸の表門となる『桜御門』の復元が、そう遠くないうちに実現しそうです。
まだ書きたい項目がありますが、スペースがなくなってきましたので、最後に天守閣の話をして、高松城編を締めくくります。

焼けただれた桜御門跡

天守の復元は可能なのか?

生駒氏時代の天守閣は、天守台に三層四階の天守閣が築かれていましたが、生駒氏の後に城主となった高松松平藩初代藩主、松平頼重公が改築し、寛文九年(一六六九年)に小倉城を模した三層五階の天守が完成しました。これをもって、頼重は隠居します。

この天守は、南蛮造りと呼ばれる珍しい天守で、最上階がその下の層より大きく、五階と四階の間に屋根がなくて外見は三層に見えますが、内側は四階に石蔵を加えて五階というものでした。本丸は狭いため御殿などの居住施設はなく、多聞櫓で囲まれた天守でした。

天守台は本丸の東端に突き出し、三の丸の方から見ると天守が海上に浮いているように見えたことから、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と詠われたのです。
天守は老朽が激しく、明治十七年(一八八四年)に解体されました。

そういう美しい天守閣再建を待望する声が市民の間に高まっていることは当然です。が、道は厳しいです。何故でしょうか?

圧倒的な資料不足です。版籍奉還以後廃城になった高松城は、廃城時にほとんどの文書は処分されたはずです。 どんな資料があるかといいますと、①高松城天守に関する資料は明治十七年(一八八四年)までに天守が解体される前に撮影された一枚の写真(右)。写真はこれ一枚のみとされていましたが、②二〇〇五年秋頃、より鮮明な二枚目の高松城天守の古写真(一八八二年撮影)がイギリス・ケンブリッジ大学で発見されました。そして、③一八八四年にイギリスの週刊新聞『ザ・グラフィック』でイギリス人のヘンリー・ギルマールが描いた絵。④さらに、二〇〇九年三月、生駒家の家紋(波引車=なみひきぐるま)を模した瓦が堀底から初出土しました。天守に使用されていた可能性が高いとみられています。これまでは松平家のものしか出土していませんでした。
でも、これだけの史料では、復元は無理でしょう。
外観は平成十七年(二〇〇五年)にケンブリッジ大学で新しく見つかった写真などで、城の概要は把握できますが、内部構造がわかりません。玉藻城址は史跡指定ですから、史実に忠実なものでなければならないので、模擬天守は許されません。

今後、大洲城(おおずじょう:愛媛県大洲市)のように、完全な設計図とか構造模型が発見されるといいのですが。最上階が下の階より張り出した「南蛮造り」という、全国でも類を見ない珍しい形式の天守だっただけに、黒田官兵衛が現代に生き返るか、歴史上の大発見が起きて復元が実現することを強く強く祈りつつ、高松城編の筆をおきます。
(第一回・完)

天守閣跡の今の姿

 

 

【参考文献】

『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年
玉藻公園管理事務所『史跡高松城跡』
もっと知りたい日本100名城 歴史と人で「城」を解き明かす 古代・中世の城編/日本城郭協会 学研パブリッシング
玉藻公園公式ウェブサイト:http://www.tamamokoen.com
高松市公式ホームページ:https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/10087.html

 

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