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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


日本の城物語(4/4回)

原城と凄惨な島原の乱

29/01/2015

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はじめに

 

歴史の勉強で、島原の乱が起きた一六三七年を《一路みんなで島原へ》と語呂合わせで覚えた方もいらっしゃるでしょう。島原領主の松倉重政氏、唐津藩第二代藩主で、唐津藩の飛び地になっていた肥後の国天草一群を収めていた領主の寺沢堅高氏の圧政に農民らが反抗し、厳しく取りしまりを受けていた九州の島原、天草地方を中心にキリシタンも加わり、さらには仕事をなくした武士も加勢し、天草四郎時貞を総大将に原城にたてこもりました。


元和偃武(げんなえんぶ)とは、大坂の陣で豊臣家を倒した徳川家が、元号を慶長から元和と改めて、応仁の乱以来続いた戦乱の世に終止符を打ったことをあらわした言葉で、偃武とは「武器を伏せて用いないこと」「戦争を止めること」「天下が太平になること」の意味です。


第三代将軍・徳川家光のもと、一国一城制を定め、武家諸法度を発し、江戸幕府の基盤を完成しつつあった矢先に起こった島原の乱は、江戸幕府を震撼させました。

 

原城

 

原城(はらじょう)は、島原半島の南部(現長崎県南島原市南有馬町乙)、有明海に張り出した丘陵に位置し、一四九六年(明応5年)日野江城の支城として肥前の戦国大名有馬貴純(ありまたかずみ)によって築城されました。国の史跡に指定され、別名を日暮城といいます。城の構造は、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた梯郭式平山城です。廃城になったのは一六一六年(元和二年)です。

 

原城見取り図/原城文化センターパンフレットより


有馬氏が日向の国延岡城に転封となった後、一六一六年(元和二年)に松倉重政が日野江城に入城しますが、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城しました。この時に原城も廃城となりました。

 

島原の乱小史

 

元和の一国一城令で廃城となった原城は、一六三七年(寛永十四年)に全国の耳目を集めることとなりました。世に言う「島原の乱」(一六三七年十二月十一日~一六三八年四月十二日)が勃発したのです。島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民が引き起こした一揆は、島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃されました。

 

しかし、一揆側の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約三万七千人が廃城の原城に立て籠もりました。

 

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌を派遣。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、十二月十日、二十日に総攻撃を行うが、ことごとく敗走させられました。城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高く、討伐軍は諸藩の寄せ集めで統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられます。

 

事態を重く見た幕府は、二人目の討伐上使として老中・松平信綱らの派遣を決めました。

 

小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げました。一揆側は三ヵ月に及ぶ籠城でも兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきたのです。

 

対する幕府軍も一千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに一六三八年四月十一日から十二日(寛永十五年二月二十七日から二十八日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させ、一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたといいます。

 

江戸幕府の戦力は、十二万五千八百。一揆軍の戦力は異説もありますが、非戦闘員含めて三万七千。損害は、江戸幕府側の死傷者八千人以上(諸説あり)。これに対して、一揆軍側は、山田右衛門作(えもさく)を除き全滅(一万人以上が幕府軍に投降したという説もある)。

 

 

坂口安吾作品にみる〝島原の乱〟

 

始めは一揆軍有勢で、正月朔日(ついたち)には幕府方の総大将板倉重昌が鉄砲に乳下を射抜かれて戦死した。(註1)幕府方の戦死は莫大であつたが、一揆軍は極めて少数の犠牲者しか出さなかつた。後者には鉄砲が整備していたからである。また、棒火矢(ぼうびや。鉄製の筒に火薬を込めて発射した火矢)というものを用いた。筒に矢をこめて打ったのである。(中略)

 

幕府方は鉄砲に辟易し、石火矢(いしびや。近世初期に西洋から伝来した大砲のこと)で対抗したが、当時の大砲は実戦の役に立たなかつた。板倉重昌に代った松平伊豆守は石火矢台というものを築かせて大砲を据え井楼(せいろう。敵陣を偵察するために、木材を井桁(いげた)に組み立てた物見やぐら)を作って、ここから敵状を偵察して大砲を打たせたが、駄目だった。石火矢台も現存しているが、城との距離は二百米(メートル)ぐらいしかない。それでも、届かなかったのである。なぜ、届かなかったかと言うと、当時大砲というものは、敵に実害を与へるよりも、その大仰な形や音響によって、敵を畏(おそ)れしめ、戦わずして降服せしめる戦法から製作されたからである。だから、弾丸は徒(いたずら)に大きく、一丁も飛びはしなかつた。(中略)

 

二月二十二日。伊豆守は二十一日の戦争に死んだ敵兵の腹をさかしめ、腹中の物が青草の類ばかりで米食の跡のないことを見届け、総攻撃を決意した。このことは、伊豆守の子供の日記にある。つまり、解剖学まで応用し、科学の粋をつくした力戦苦闘なのである。そうして、弓の矢が届いたのに、大砲の玉が届かなったという結果を残しているのである。(坂口安吾著「島原の乱雑記・三 科学戦」から)

 

(註1)「正月朔日には幕府方の総大将板倉重昌が鉄砲に乳下を射抜かれて戦死した」と書かれているが、天草は天草筒とよばれる銃身が長く、射程距離も長くて命中率のよい鉄砲の生産地で、村々には砲術に長けた浪人を鉄砲頭とした郡筒(こおりづつ)といわれる鉄砲隊もあったのです。

 

これも甲斐守輝綱の日記から。

 

この戦争に、忍術使いが登場した。二月十五日、甲賀者を城中に忍びこませたのである。忍術使いは近江の甲賀から呼びよせたものであつた。忍術使いは失敗した。九州の言葉が分らぬうえに、切支丹の用語や称名を全然知らなかつたからである。忽ち看破され、慌てて逃げた。それでも忍びこんだ印に、塀に立てた旗をぬいて担ぎだしたが、石で強(したた)か頭をどやされ、決して見事な忍術ぶりではなかつた。(略)今日では、それに相応の訳語があるが、当時は適訳がなかったので、でうす(神)はらいそ(天国)いんへるの(地獄)くるす(十字架)といふ風に、こんな名詞まで外国語のまま用いひていた。こんちりさん、さからめんと、えけれぢや、どみんごす、などなど、千にも近い南蛮語がそのまま使用されていては、九字を切つても、間に合わない。

 

一方、一揆軍も大いに妖術を用ひたと言はれた。俗書では、天草四郎も忍術使ひになっているのだ。(坂口安吾の「島原の乱雑記・四 忍術使ひ」から)

 

島原の乱で三万七千の農民が死んだ。三万四千は戦死し、生き残った三千名の女と子供が、落城の翌日から三日間にわたって斬首された。みんな喜んで死んだ。喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平伊豆守(いずのかみ)の息子、甲斐守輝綱(かいのかみてるつな)(当時十八歳)の日記に、そう書いてあるのである。「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と。(中略)

 

原城趾は、往昔の原形をほとんど崩してしていない。有明の海を背に、海に吃立した百尺の丘、前面右方に温泉岳を望んでいる。三万七千人戦死の時、このあたりの数里四方は住民が全滅した。布津、堂崎、有馬、有家、口之津、加津佐、串山の諸村は全滅。深江、安徳、小浜、中木場、三会等々は村民の半数が一揆に加担して死んだ。だから、落城後、三万七千の屍体をとりかたづける人足もなく、まして、あとを耕す一人の村民の姿もなかった。白骨の隙間に雑草が繁り、なまぐさい風に頭をふり、島原半島は無人のまま、十年すぎた。十年目に骨を集め、九州諸国の僧をよびよせ、数夜にわたって懇に供養し、他国から農民を移住せしめた。(後略)(坂口安吾著「島原の乱雑記・一 三万七千人」から)。

 

原城跡から出土した人骨と十字架

 左:原城跡全景(南島原市教育委員会資料より) 右:現在の原城跡

 

松倉重政の苛政の一端

 

松倉氏の領地になってからの島原では、棄教を迫っても応じない信者には熱湯を浴びせかけるなど、一段と凄まじい迫害が行われました。

 

これに加えて領主の悪政と重税が領民を極限まで苦しめておりました。島原城の松倉重政はもと大和国五条で一万石の領主でしたが、大坂夏の陣での武功で一六一六年(元和二年)肥前国高来郡日野江(ひのえ)城、四万石に加増されました。

 

重政は大変な野心家で、七年あまりかかって十万石級の壮大な城を完成させました。公儀普請に際しては自ら進んで石高を超える負担を申し出て幕府の心証をよくすることに専念しました。

 

島原の地はもともと山が多くて田畑が少ないため、四万石という石高は実際は二万石あまりしかなく、領民の負担はただでさえ過重であったのに、領主のこうした支出をまかなうため、考えられないほど苛酷な税負担を強いられました。作物の大半は税として召し上げられ、家の中に棚をつれば「棚餞」(たなせん)、窓の数により「窓餞」(まどせん)、赤ん坊が生まれると「頭餞」(あたません)、人が死んで墓穴をほれば「穴餞」(あなせん)と考えられる限りの過酷な税を取り立てました。

 

こうした税を納められないと妻子や老人を人質にとり、常時水に漬かる水牢に閉じ込めて苦しむ様を見せ、それでも納められない者は両手を後ろ手に固く縛って燃えやすい簑を着せて火をつけ、熱さに飛び跳ね、転げ回って焼死する様を「簑おどり」と言って大勢の者に強制的に見せつけました。

 

最終回をここで終えるわけにはいきません。島原の乱で、ただ一人の生き残りがいたのです。

 

 

唯一の生存者南蛮絵師 山田右衛門作

 

山田 右衛門作(やまだ えもさく、一五七五年(天正三年)?~一六五七年(明暦三年))は、島原の乱で原城に立て篭もった中で唯一の生存者。

 

ポルトガル人に絵を習い、南蛮絵師として有馬直純・松倉重政・松倉勝家に仕えていた。島原の乱が発生したときには口之津に住んでおり、村人全員とともに城に立て篭もった。城内では天草四郎につぐ副将であり、本丸を守備。世界三大聖旗にも数えられる「天草四郎陣中旗」(天草切支丹館蔵、国の重要文化財)を描いたのも山田とわれます。

 

幕府軍との交渉のための矢文(やぶみ)の文章の作成もしており、その役目を利用して幕府軍に内通していました。内通が発覚して原城天草丸の有馬牢に入れられるも、間もなく落城。落城の際は幕府軍鍋島の者に斬られかけたが、矢文を見せて生き延びました。

 

家木裕隆氏の研究を引用させてもらいます。

 

もう誰の目にも最後の時が近づいていることは明らかでした。一揆軍は寄手(よせて=攻城軍)の油断を見すまして夜討ちをかけ、兵糧、弾薬などを奪い取る捨て身の作戦を立て、二月二十一日、朧月も雲に隠れた夜の闇に乗じて鍋島、黒田、寺沢の陣をめざして城兵五千がどっと打って出ました。井楼、陣小屋、竹束などに火を放ち敵陣深く攻め入りました。

 

しかし、一揆勢の討死二百九十二人、幕府軍討死七十五人と夜討ちは失敗でした。松平信綱は、籠城の一揆軍の戦死者の腹を割かせてみると胃の中は青草ばかりで、城中の兵糧が尽きたことを知り、いよいよ総攻めを決意しました。

 

この間に山田右衛門作の身に大変なことが起っていました。右衛門作は十八日に旧主有馬の陣に矢文(やぶみ。手紙を弓矢を使って遠くから放ち、文書を送る手段の一つ)を射て「城中には心ならずも籠城した者もいるので、総攻めの日時をあらかじめ知らせて頂けば、私の手の者に城中の小屋などすべてに放火させ、私は四郎時貞を船で落ち延びさせる形にして生け捕って差し上げましょう」と誓紙(せいし=誓いの言葉を書いた紙)を差し出しました。

 

ところがこの矢文の発見が遅れ、寄せ手(攻城軍のこと)からは二十日になって遅延の詫言(わびごと)とともに総攻めの手筈や合図を定め城中に射返しました。何とこの矢文は右衛門作の手に届かず、城中夜廻りの者に拾われ、四郎時貞にバレてしまったのです。

 

四郎は驚き怒り、右衛門作を捕え、手枷(てかせ)・足枷(あしかせ)で大江口(田町門)の狭い牢に閉じ込め、妻や子を見せしめに本丸枡形(ますがた)で処刑しました。右衛門作を生かしておいたのは城外への通信をさせ敵を欺く手段を残しておくためでした。

 

しかし、その天草四郎時貞も細川勢の陣野佐左衛門に討ち取られました。陣中旗は鍋島大膳が分捕りました。

 

落城の日、松平信綱は城中を探させ、大江口の牢に閉じ込められていた山田右衛門作を発見しました。引き出された右衛門作と対面した信綱は、何とか乱を終らせようと苦しんだ右衛門作の命を助けようと思いました。

 

救出された時弱り切っていた右衛門作は信綱の保護の下に長い取調べを受けました。彼の供述書である『山田右衛門作口書写』は各藩からの上申書が自藩の功績を強調して書かれている中で、この乱の史実を忠実に伝える貴重な資料となっています。


右衛門作が描いたといわれる 陣中旗。正式名は「倫子地著色聖体秘蹟図指物」

 

島原の乱の精算

 

幕府軍は戦後、原城を徹底的に破城しました。その一方で、肥前島原藩第二代藩主松倉勝家(初代藩主・松倉重政の嫡男)は苛政により乱を引き起こした責任を問い、所領没収の上、大名としては異例の罪人扱いの斬首に処しました。

 

また、唐津藩寺沢堅高が四月十二日、天草四万石を召上げられ、この処分を不服とした堅高は江戸の海禅寺に入って自害しましたので家は断絶しました。

 

伊達政宗が、家臣の戒めに紹介した古歌が、『人は堀 人は石垣 人は城 情けは味方 怨は大敵』です。伊達政宗は関が原の戦いには参加せず、会津で上杉景勝と戦い、上杉景勝に勝った時、伊達政宗は家康から百万石もらえる保障を得ていたのに、南部氏(家康側)の領土を侵害して、家康の怒りを買い、百万石のお墨付をほごにされたのです。関ヶ原の戦い後、伊達政宗への恩賞は、四万石でした。しかし、藩祖・政宗は情熱を燃やし始めました。〝米の生産量では日本一にしてみせる〟と。新田開発を奨励し、北上川の流れを付け替え、人材を登用して洪水対策も行い、百万石を越える豊作を実現しました。

 

主な参考・引用文献

『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
島原一揆異聞 坂口安吾 
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45860_32936.html
島原の乱雑記 坂口安吾 青空文庫 
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45863_33229.html
旧制 第三高等学校 同窓生の講演集「神陵文庫」第26巻
島原の乱でただ一人生き残った男・絵師山田右衛門作の生涯.pdf
神田千里『島原の乱』中央公論新社、2005年。ISBN 978-4121018175
神田千里『宗教で読む戦国時代』講談社、2010年。ISBN 978-4062584593
東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 『オランダ商館長日記 訳文編之三(上)』。
ISBN 978-4130927208
服部英雄「原城の戦いを考え直す - 新視点からの新構図」
『歴史を読み解く―さまざまな史料と視角』青史出版、2003年ISBN978-4921145194
http://hdl.handle.net/2324/17117

 

 

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