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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


台湾人日本軍兵士数百名を救った

廣枝音右衛門大隊長と報恩感謝を今につないだ人たち

27/02/2015

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はじめに

これは、大東亜戦争末期、日本軍マニラ海軍防衛隊の絶体絶命のピンチに、自ら責任をとり、部下の台湾人日本兵を救った海軍警察隊大隊の長物語であり、命を救ってくれた報恩感謝に燃えて、一九七六年から慰霊祭を続けてきた台湾人元日本兵とそれを引き継いだ日本人の物語でもある。

 

 

アメリカ軍、フィリピン奪還へ


廣枝音右衛門さんの話を進める前に、大東亜戦争におけるフィリピン・マニラの戦局の話をしておかなくてはならない。

昭和十七年(一九四二年)一月二日、マニラは日本軍によるリンガエン湾(マニラ北東約二百キロ)上陸からわずか十一日で陥落した。ここに、フィリピンでの日本の軍政が始まった。

だがその後、昭和十九年(一九四四年)十月、アメリカ軍によるフィリピン奪還作戦が開始され、昭和二十年(一九四五年)一月九日、アメリカ軍は百六十隻あまりの艦隊を揃え、十九万の兵力を、三年前に日本軍が上陸したルソン島リンガエン湾に上陸させた。

リンガエン湾から南下してマニラに向かったアメリカ軍は建武集団(註:日本軍第四十一軍の中の三集団のうちのひとつ)を撃破し、一月下旬にはマニラ郊外へ。

二月三日:圧倒的な兵力と物量を誇るアメリカ軍(三万五千名)はまたたく間にマニラ市の中心部へ。一万五千の兵力を持つマニラ海軍防衛隊(岩淵三次少将)と対峙。日本軍はたちまち劣勢に。

二月八日:振武集団はマニラ海軍防衛隊支援のために第一次総攻撃を敢行。しかし、日本軍挽回ならず。
 

廃墟と化したマニラ市街



二月十日:この頃からアメリカ軍は街中に火を放ち、マニラ市は火の海と化した。結局マニラ市街戦が終局するまでこの大火は消えること無く、美しかったマニラは焼き尽くされた。

二月十二日:アメリカ軍は無差別砲撃を開始。日本兵の多くは、当時一万人を超えるマニラ市民が暮らしていたイントラムロス要塞に籠城。

二月十七日:アメリカ軍イントラムロスへの砲撃を決定。城内めがけ一斉砲撃。
 

イントラムロス地区の米軍M-4 シャーマン戦車


二月二十日:アメリカ軍の日本語による投降勧告開始。

二月二十六日:マニラ海軍防衛隊岩淵司令官が自決。

二月二十三日:午後一時頃、「敵だ!」という声で、廣枝隊はとっさに左右に分かれた。(詳細は【「敵だ!」廣枝隊はとっさに左右に分かれた】へ)

三月三日:一ヵ月間に及ぶ「マニラの戦い」は決着し、アメリカ軍は戦闘終了を宣言。マニラはこの日陥落。

三年弱に及んだ日本のフィリピン支配は幕を閉じた。日本軍兵士の戦死は一万二千名とも一万六~七千名とも。だが、日本軍とアメリカを含めた連合軍の戦いによるマニラ市民の死者は十万人にのぼった。
 

 

 

廣枝音右衛門大隊長
 

廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)氏は明治三十八年十二月(一九〇五年)二十三日、神奈川県足柄下郡片浦村(現在の小田原市)で生まれた。逗子開成中学、日本大学予科と進み、昭和三年四月、二十三歳のときに幹部候補生として佐倉歩兵第五十七連隊に入隊、軍曹となり満期除隊後、湯河原の小学校教員などをへて、昭和五年(一九三〇年)台湾に渡り、競争率百倍という難関を突破して台湾総督府巡査となる(二十六歳)。

この時代は台湾における警察官の任務として、治安維持は当然として、内地の日本人と同等の教育・文化水準に引き上げるということで、行政面でも重要な役割を託されていた。

廣枝音右衛門氏は三十二歳で巡査部長、三十四歳で警部補、昭和十七年五月には三十八歳で警部に昇進した。

新竹州竹南郡政主任勤務(新竹州警部)の時の一九四三年(昭和十八年)に、大東亜戦争の戦線の拡大で、台湾で結成された総勢二千名におよぶ海軍巡査隊の総指揮官に海軍巡査として任命され(三十九歳)、マニラの守備に就いた。

昭和十八年十二月八日朝、廣枝隊長率いる海軍巡査隊は、高雄港より砲艦「武昌丸」に乗り込み、十日、マニラ湾南部のガビデ港に入港。廣枝隊長は家族四人を残しての離台であった。

巡査隊の任務は主に物資の運搬、補給など後方支援であったが、廣枝隊を迎えたマニラの戦況は、日本軍に急降下的に悪化していった。

 

棒地雷と円錐弾が支給された


廣枝隊の生き残りとして、劉維添(りゅう・いてん)さんという方がおられた。残念ながら、二〇一三年九月にお亡くなりになった。享年九十一歳だった。

劉維添さんは、昭和十八年(一九四三年)に、志願兵で海軍巡査隊に入隊して、マニラで従軍。劉さんの所属する海軍警察隊は、海軍陸戦隊としてマニラ海軍防衛隊(通称マ海防)の指揮下に入り、劉さんは小隊長となった。

二月十二日からのアメリカ軍の無差別砲撃で、艦隊司令部のある農務省ビルは逃げ場が無いほどの迫撃砲を受け、劉維添小隊の隊員達も四名が重傷、劉小隊長自身も軽傷を負った。劉小隊長はすぐに砲弾をくぐり抜け、廣枝隊長に報告。廣枝隊長はすぐさま重傷者のところに駆けつけ、次々と抱き寄せては大声で名前を呼び、目に涙をためながら励まし続けた。

部下思いの廣枝隊長は迫撃砲弾が降り注ぐ中、五キロも離れた病院へ重傷者たちを自ら護送した。しかし、重傷者たちは結局帰らぬ人となった。

日本軍艦隊司令部も陥落の危機に直面し、昭和二十年二月中旬には農務省ビル近くのイントラムロス要塞への全軍集結が決まった。夜中、敵の目をかいくぐるように、広いルネタ公園を匍匐前進(ほふくぜんしん:被弾を避けるため腹を地面に擦りつけて手足を使って移動すること)で移動した。

やっとの思いで、イントラムロスの城内に入場すると、所持していた歩兵銃は取り上げられ、代わりに棒地雷と円錐弾を支給された。共に対戦車用の攻撃手段で、棒地雷とは一メートルほどの竹槍に地雷をくくりつけたもの。

「敵戦車に体当たりして全員玉砕せよ」との総攻撃を意味する。

海軍陸戦隊はこの時期になって、特攻隊として突撃命令が下されたのである。以後、連夜のように一個小隊規模で突撃して行った。城外の公園はすぐに死体の山と化した。

廣枝隊にも突撃命令が下りていた。軍の命令は絶対だ。しかし、廣枝隊長は隊員に突撃の命を下さなかった。

 

「敵だ!」廣枝隊はとっさに左右に分かれた


二月二十三日午後一時頃、「敵だ!」という声で、廣枝隊はとっさに左右に分かれた。劉小隊長は八名の隊員と共に右へ、廣枝隊長はその他の部下と共に左へと二手に分かれた。

劉小隊長が廣枝隊長を目にするのはこれが最後となった。壕に入った廣枝隊長はいよいよこれまでだと観念したのだろう。同じ壕にいた部下の楊坤芳氏に自分の軍刀を託して、話した。

「お前達は台湾から来た者だ。家には妻子父母兄弟が待っているだろう。連れて帰れないのが残念だが、お前たちだけでも、生きられるところまで行け。俺は日本人だから責任はこの隊長が持つ」

一九四五年二月二十三日午後三時頃だった。

そう言い遺して廣枝隊長は、拳銃で頭部を撃ち自決した。廣枝隊長四十歳の誕生日であった。

廣枝隊長と別れた劉小隊は、その数時間後に城壁の向こうから福建語らしい言葉で投降を呼びかける声を聞くことになる。だが耳を澄ませると、どうやら台湾人の話す福建語らしい、ということになった。

当初、劉小隊長は仲間に自決を呼びかけたが、先に投降した台湾人日本兵による呼びかけもあり、投降後も身の安全が確保される望みを感じ、意を決して投降することになる。

直接廣枝隊長の遺言は聞かないまでも、普段からその気持ちは廣枝隊の隊員たちも十分汲み取っていた。

両手を挙げ、思いっきり叫んだ。
わーしーたいわんらん(福建語で「私は台湾人だ」)!」

こうして、劉小隊長以下台湾人日本兵たちの戦闘は終わった。即日で降参・投降した。マニラが完全に陥落する四日前だった。

※この項の引用文献:マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン【渡邊崇之@台湾】。生々しいやり取りは、生前、劉維添さんから渡邊崇之さんが(後述)聞き取ったもの。

 

左:自宅で台湾国際放送のインタビューに答える劉さん
右:マニラ市街戦奇跡の生還劇を語る劉さん

   

廣枝音右衛門氏への強い報恩感謝の一念


一死をもって台湾人日本兵の救命に代えた廣枝隊長の決断で、海軍巡査隊の台湾青年たちの多くの兵士が、一年の捕虜生活を経て故郷の台湾に無事帰ることができた。

戦後三十一年を経ても、そのときの「恩」を忘れぬ廣枝隊の部下の意思で、台湾仏教の聖地・獅頭山(しとうざん)観化堂で、廣枝音右衛門隊長を祀り供養する式典が、戒厳令下の昭和五十一年(一九七六年)九月二十六日に行われた。

「これは、廣枝音右衛門隊長の戦死の実情を根気強く調査した台湾新竹州警友会の人々の成果です。この台湾における慰霊顕彰の動きは、日本にも伝播し、廣枝隊長の義挙を末永く語り継ぐべく〈顕彰碑〉の健立となって実現した」と、渡邊崇之さん(後述)がご自身のコラムに書いている。

茨城県取手市の弘経寺にある廣枝家の墓域に建てられた「ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門」と書かれたその顕彰碑の後半には廣枝隊長のフィリピンでの義挙を讃える文言が彫られている。

 

廣枝隊長の顕彰碑 取手市



昭和五十八年五月、小隊長だった劉維添さんは、かつての上官の自決の地を訪れ、隊長終焉の地の土を集め、茨城県取手市に住むふみ未亡人に手渡すことまでされたという。(ふみ未亡人は平成元年二月十日、七十六才で死去)

しかし、歳月の流れと共に慰霊祭を続ける有志は数を減らし、二〇〇七年には劉維添さん一人となってしまった。それでも劉さんは、毎年一度も欠かすことなく慰霊祭を執り行ってきた。

 

 

左:劉さんご夫妻の記念撮影 自宅にて (2008年9月26日)
右:マニラ市街戦奇跡の生還劇を語る劉さん (2009年9月26日)


   

バトンは劉維添さんから渡邊崇之さんに


二〇一三年九月二十一日の慰霊祭当日の深夜。劉維添さんは、自宅近くの病院で亡くなられ、廣枝警部のもとへ旅立たれた。劉さんは、戒厳令下の一九七六年から、二〇〇七年からは最後の生存者となってからも「マニラの戦い」時の上官である廣枝音右衛門隊長の慰霊を続けてこられた。人が見ていようがいまいが、命の恩人にひたすら報恩感謝の念を注がれた稀有の方である。

劉さんからのバトンをうけた渡邊崇之さん。劉さんへの深い心情が吐露された渡邊さんのコラムを、ご許可を頂いて掲載する。(ああ! 劉維添先生逝く【渡邊崇之@台湾】2013.10.01より)

何ということだろうか! 台湾の父とも祖父とも慕う劉維添先生が身罷(みまか)られてしまった。(中略)

思い起こせば昨年(北村註:二〇一二年)の慰霊祭にも予兆があった。慰霊祭当日、心臓発作を起こされた劉先生は病院へ搬送中、その責任感から必死の思いで自らお電話を下さり、慰霊祭には急遽参列できなくなる旨の一報を頂いた。幸い午後には回復されてご自宅に戻られ、無事に慰霊祭参列者と対面を果たすことができた。

そのとき劉先生は参列者に向かって、「皆さん、この度は皆さんと共に慰霊祭に参列できず、誠に申し訳ございませんでした。来年は必ず良くなって皆さんと共に山(獅頭山勧化堂)の上でお会いしたいと思います。ですから、それまで皆さん、どうか私を死なさないでください。それまで私を生かしてください。どうか宜しくお願いします」 と必死で声を振り絞った。(中略)

思えば、劉先生もあのときから一年、参列者との約束を果たすため、必死の思いで生き抜いていたのだ。(中略)

「渡邊さん、後は貴方に託します。貴方がいるから私は安心して逝けます。ひろえ(台湾の方々は親しみを込めて廣枝警部のことをこう呼んだ)隊長と天から貴方をいつまでも見守っていますよ」(中略)

劉先生に出会ったのは仲間の生存者四名が立て続けにお亡くなりになり、初めてお一人で慰霊祭を執り行われた翌年の二〇〇八年初夏のことであった。

勧化堂にひっそりと安置されている廣枝警部の位牌を前に背筋をピンと伸ばして報告されるそのお姿は、若き日の中山(劉先生の日本名)小隊長そのものだった。
「ひろえ隊長! 本日はわざわざ臺北より渡邊さんがお越しになられました」(中略)

廣枝警部の位牌に語り続ける劉先生。(中略)何度もこの軍人同士の会話を聞いているうちに、私はいつしかこの時間軸で連なった歴史のバトンリレーのトラック上に在り、劉先生からのバトンを受け継ぐ準備運動をしているようであった。そして、自然とこの慰霊祭を今後五十年、自らが引き継いでいくことを劉先生に誓っていた。

あれから五年。とうとう劉先生はしばらく二人で握り合っていたそのバトンを手放し、廣枝警部のもとへ行ってしまわれた。

「廣枝隊長! 本日一時二十分、劉維添先生が満九十一歳でお亡くなりになりました。今後は私が劉維添先生に代わり、四十五年間この慰霊祭をここにいる皆さんと共に守ってまいります」

一人でバトンを握りしめることになったその言い知れぬ寂しさを振り切るように、私は廣枝警部の位牌の前で改めてそう誓った。(中略)

そして、この二人の絆のバトンリレーを戦後世代の私たちはできる限り長く、正確に後世へと伝えて行かねばならない。それがこの時代に生き、ここ台湾に住む日本人の使命なのだと思っている。(後略)

 

体調回復直後の劉さん(左)と渡邊崇之さん(2013年))

 

 

【渡邊崇之さんご紹介】

一九七二年生まれ。中央大学卒。亜州威凌克集団代表として活躍。
現在は在アジア日系企業の経営支援、及び日本企業のアジア進出支援コンサルティングを手掛ける一方で、アジア各地で実際に複数業態の店舗ビジネスを展開している。

 

【この記事に協力してくださった方々】

『台湾の声』編集長
林 建良先生
台湾で、中国医学を学んだ後に、東大で医学博士号をとり、現在は栃木県で、地域医療に携わっていらっしゃる。めちゃくちゃ親切な医師です。代表的な著書に『中国ガン・台湾人医師の処方箋』(並木書房)など。

『台湾在住ジャーナリスト』
片倉佳史さん
プロレスファン。この方も素晴らしく親切な方。台湾ツアーを主催されている。鉄道に造詣が深く、台湾の鉄道に関する著作も著している。 「台湾に残る日本鉄道遺産」交通新聞社新書、二〇一二年など著書多数。

厚くお礼を申し上げます。



あとがき

明治二十八年(一八九五年)、下関条約で台湾は日本に割譲され、台湾の人々は日本人となった。半世紀の長い統治の中で、彼らは日本式の教育を受けた。昭和十二年(一九三七年)の日中戦争から終戦までの間に、二十万七一八三名の台湾人日本兵と軍属が「日本人」として戦場に送られ、三万三〇四名が戦死し(数字は厚生労働省による)、多数の傷病者を出した。

日本は敗れ、台湾「放棄」。昭和二十七年(一九五二年)に発効した日華平和条約により、台湾の人びとは日本国籍を喪失する。

劉さんたち元日本兵には口には出せない苦難の道があったに違いないが、国境を越えても報恩感謝の思いを持ち続けてこられた劉さんたちから、「『忘恩』は人間が犯すことのできる最大の犯罪」と述べた南米解放の父、シモン・ボリバルを思い出す。後継の渡邊さんは三十五歳の時に、当時、八十五歳だった劉さんに「劉さんの年になるまで廣枝音右衛門隊長の慰霊祭をやります」と約束したという。偉業を継ぐ渡邊崇之さんの御健康・ご長寿を祈りたい。


【参考・引用サイト】

●臺灣通信(第七十回)「廣枝音右衛門氏」(作成日:2013年1月31日 ) 作成者: 傳田 晴久

●劉 維添さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブスNHKオンライン

 

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