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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


ベルリンの壁

RISE & FALL

27/08/2015

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はじめに

 

1945年にドイツが無条件降伏をして、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は終了した。しかし、この瞬間からドイツの分割統治が始まった。ドイツは東と西に分けられ、それぞれがソ連、アメリカによる統治のもとで再スタートを切ることになった。

しかし、首都のベルリンは、ドイツ民主共和国(以下東ドイツする)に入ったが、ここも東側と西側による共同管理となった。

ところが、1961年8月13日深夜2時、東ドイツの人民警察と人民軍が鉄条網とバリケードにより街を分断。何のため? ドイツ連邦共和国(以下西ドイツとする)への労働力の流出を防ぐためであった。その二日後には壁の構築が始まった。9月20日までに全長12キロの壁が完成。さらに西ベルリンの周囲は全長137メートルに及ぶ鉄条網で取り囲まれ、これ以後西ベルリンは陸の孤島となった。監視体制を強めた東ドイツは、東から西へ亡命する人を容赦なく射殺した。

 

 

 

当時の背景

 

東ドイツが徐々に境界を強化して、市民の旅行制限をしたので、一九四五年から一九六一年の間に、三百万人以上のほとんどの東ドイツ人が、ベルリンの『抜け穴』を通って西ドイツに逃げた。その数字は、東ドイツの人口のほぼ五分の一。それも最も若くて、最もダイナミックで、最も教養のある階級の人々だった。モスクワも、そのことには苦虫を噛み潰していた。だから、ソ連の次期指導者になるユーリ・アンドロポフは、東ドイツの指導者をたしなめた。

 

毎日境界を越えて西ベルリンに働きに出ていた東ベルリン人の数は五万人。彼らは越境者と呼ばれ、かなりよい給料をとりながら、その一方で、助成金付きの住宅に住んでいて、東ベルリンの経済に貢献しているわけではなかった。それでも、それは最大の抜け穴でもなかった。広範囲な消費財購買力を背景に、西ドイツのマークがついた製品は、東ドイツ製よりも四~六倍価値があったのだ。しかし、東ドイツという社会主義国内で助成金が出されている基幹物資に対する西側の願望 が、その差を余計に際立たせた。つまり、越境者だけでなく西ベルリン一般市民も闇市場で自分たちの金を両替できて、彼らがアディダスやフォルクスワーゲンを買わない限り、驚くほど安い東ドイツ製品が容易に購入できたのである。

 

 

どんな壁ができたのか!

 

 

入力壁沿いの照明付きの監視塔の数三百二棟
国境警備員の数一万四千人
国境警備犬の数二百六十頭 いずれもレールに付けられた長い紐で走れるようになっていた。
バンカーの数四十ヵ所 その側に警備犬が走り、バンカーを越えられないように鉄条網を丸く巻いてハザードにしてあった。
壁を越えて脱走して殺された市民の数二百三十九名(諸説あり) 負傷者二百六十名
脱走者の数五千四十三名 (東側兵士を含む)
壁の近くで逮捕された市民の三千二百二十一名

 

西ベルリンとの境界に造った塀から百メートル離れた東ベルリン領内に、さらにコンクリート塀か鉄条網のフェンスが立つ。それは、警報音がでる通電した警報装置なのだ。

国境警備兵用道路があり、警備者と武装警備兵が巡回している。ここまでが、人間のいる区域である。

その先には、車で脱出できないように、深さ三メートルから五メートルの深さの溝が掘られている。

その先に、夜でも不審な動きが一目でわかるように、街灯が設置されている。

さらに先に進もう。コントロールストリップ(別名死の道という無人地帯)という最後の地獄が待つ。脱走者の足形がわかるように柔らかい砂が敷かれた帯がある。時として、そこには地雷が仕掛けられている。

そして、その先に、西ベルリンと東ベルリンを分かつ高さ三・六メートルのコンクリート塀が立ちはだかっている。その塀の上は、脱走者が手で掴まりにくいように、アスベストで作られていた。そして、その壁は、ベルリン内部を四十三・一キロにわたってめぐらされていたのである。

そして、塀の向こう側の西ベルリン市民は、塀の際ぎりぎりまで近寄れるのである。その壁に、市民は随分落書きをしたものだ。

 

壁を越えれば死が待っている!

 

東ドイツの警察官だったハンス・コンラート・シューマンは、人民警察機動隊の隊員として国境警備任務に従事していたが、一九六一年八月十五日、ベルナウアー通りの有刺鉄線を越えて西側に逃げ、ベルリンの壁建築後の最初の亡命者となった。彼が鉄条網を飛び越える姿を捉えた写真は西側のメディアで大きく取り上げられ、冷戦を象徴するアイコンのひとつとなった。だが、多くの人の脱出が死に帰した。

 

 

最初の死

 

ギュンター・リトフィン(一九三七年一月十九日生まれ)は、東ドイツ(当時)に住んでいた人物であり、ベルリンの壁脱出失敗による最初の殺人被害者である。東ベルリンに住んでいたリトフィンは、西ベルリンで仕立て屋として働いていた。一九六一年夏、西ベルリンの職場近くに移住を計画していたが、八月十三日の「ベルリンの壁」建設によって職も新居も失う結果となった。 

リトフィンは西ベルリンへの移住を断念せず、自転車に乗って壁の建設現場を調べ始めた。彼の目的は、壁を越えることが可能な地点を探すことにあったが、母親や弟にはその思いを伝えることはなかった。ただし、リトフィンの伝記によると二人はその決意を感づいていたという。

一九六一年八月二十四日の午後四時過ぎ、リトフィンはベルリン=シュパンダウ運河のほとりを歩いていた。彼がSバーンの橋付近まで歩みを進めたところで、橋上で警備していた交通警察の警官に発見され、制止の声がかかった。リトフィンは命令に従わず、運河に飛び込んだ。二十メートルほど泳いだところで警官は威嚇のために何度か警告の射撃を行ったが、別の警官の自動小銃の射撃が、リトフィンに致命傷を与えた。銃弾は首から顎を貫通し、リトフィンの身体は水底へと沈んだ。

銃声は西ベルリン側にも届き、三百人以上の市民が対岸に集まった。

リトフィンを射撃した警官二名は、脱出を食い止めた功労者として東ドイツ政府から表彰を受けた。彼らは記念品として時計を受け取り、二百マルクの賞与をも得た。この二名はドイツ再統一後に殺人罪で起訴されて有罪となったが、執行猶予つきの判決だったため刑務所への収監は行われなかった。

 

 

最後の死

 

クリス・ギュフロイ(一九六八年六月二十一日生まれ)は、東ドイツに住んでいた人物である。一九八九年二月六日の深夜に友人とともにベルリンの壁を越えようとして発見され、国境警備兵に射撃された。友人は負傷し、ギュフロイは死亡した。ベルリンの壁脱出失敗による最後の殺人被害者であり、ベルリンの壁が崩壊するわずか九ヵ月前に起きた事件であった。トレプトウ地区の射殺現場には、ギュフロイのための慰霊碑が建てられている。

ギュフロイが東ドイツ脱出を決めたのは、テューリンゲンで国境警備兵として勤務している友人から「国境での発砲命令が失効している」という情報を聞いたことが契機であった。さらに二月の上旬にはスウェーデンの首相が東ドイツを訪問する予定だったため、その期間中はより安全であろうと思われた。結果的にこれらの情報は誤りであり、実際に国境での発砲命令が撤廃されたのは同年四月三日になってからであった。その誤りが、ギュフロイの命を奪うことになった。

 

 

どんな脱出手段があったか?

 

トンネル:東ベルリンから逃れる人々のために、いろいろな機関によって七十のトンネルが掘られた。最も有名なのは「トンネル57」である。一九六四年十月、東から西ベルリンに亡命した学生によって掘られた百四十メートルの地下トンネル。

それは、西ベルリンのパン屋の倉庫から掘って、東ベルリンの便所に達するものであった。国境警備兵に発見されるまで僅か三日間で五十七人の東ベルリン市民が西側に脱出した。これが最も多くの人を脱出させたトンネルである。「トンネル57」は、脱出に成功した人の数を示している。

BMW改造車:車の屋根に二枚のサーフボードをとりつけた隠れコンパートメントを作り、八人脱出を可能にした。

偽身分証明書:何千という東ベルリン住民が、西ベルリンの学生が作ったニセのパスポートとIDをもって脱出に成功した。

 

壁崩壊への道

 

ライプチヒで蒔かれた種


ゲーテなど多くの天才を生み出したドイツの代表的文化都市ライプチヒで起きた最初の民主化を求めるデモは、ほんのわずかの人々が参加しただけの小さなデモにすぎなかった。警察の取り締まりが及びにくい教会を拠点に集まったアーティストや牧師など、数十人が逮捕覚悟で行なったデモは、毎週月曜日に静かに行なわれたのだった。

「我々はここに留まる」「我々こそが国民だ」のスローガンが合言葉になった。彼らは西ドイツに逃げ出すのではなく、あくまでこの国に残って改革を実現すると主張していた。

当初、デモの開催を無視していた警察は、デモ隊の数の増加に危機感をもち、ついに実力行使に出た。ところが、このとき、西ドイツのテレビ局がこの様子を撮影していたため、暴力によるデモ隊への攻撃は国外から強い批難を浴びた。こうして、デモ隊は海外からの注目を浴びることで決意を新たにした。そして周辺諸国の状況も急激に変わりつつあった。

 

 

国外の変化


ベルリンの壁に最初にヒビを入れたのはソ連の衛星国・ハンガリーだった。

壁崩壊のおよそ半年前の一九八九年五月、ハンガリーはソ連の最高指導者ミハエル・ゴルバチョフのペレストロイカ路線に応え、西側の一員であるオーストリアとの国境を開放した。これで、東ドイツ国民がハンガリー経由で西側へ亡命するルートが浮上。

九月になると、ハンガリー政府は国内で亡命許可を待つ東ドイツ国民のオーストリアへの出国を正式に承認。その後三日間で一万五千人が西側に流入したという。本当の意味で壁を崩壊したのはハンガリーだった。

東ドイツのエーリヒ・ホーネッカー国家評議会議長は慌ててチェコスロバキアとの国境を閉鎖したが、手遅れだった。

この年の十月東独成立四十周年の記念行事に出席したゴルバチョフは、ホーネッカーにソ連が進めるペレストロイカを東ドイツでも実行するよう促した。しかし、こうした周囲の変化を東ドイツ政府の首脳陣は、まったく認識していなかった。高官の一人の発言にそれが裏付けられる。

「隣人が壁紙を張替えたとしても、我々が同じことをする理由にはならない」

このとき、ゴルバチョフはホーネッカーにこう言ったと言われる。
「歴史はあまりにも遅く来る者を処罰するものですゾ」

 

 

外から処罰が来た


早速、外から処罰がきた。中国で起きた「天安門事件」(一九八九年)だった。戦車の前に立つ青年。武器を持たない市民に発砲する中国の軍隊。東ドイツの政府SED(社会主義統一党)の指導部は、この時の中国政府の対応を批判するどころか、賛同の意を表明した。東ドイツ国民は政府のその態度に失望し、その後さらに西ドイツへの亡命者が増えることになった。

 

 

内からの処罰
一九八九年十月九日という日


一九八九年十月九日、ライプチヒでは、それまでの最大規模となる七万人もの参加者に膨れ上がった。デモ隊は、ロウソクの明かりを灯しながら静かに行進を行い市内を一周することになっていた。しかし、デモ隊の行進を阻止するよう指令を受けていた政府側の部隊は銃を装備して待ち受けていた。状況はまさに一触即発だった。
そんな中、ライプチヒ在住の東ドイツを代表する音楽家クルト・マズールは、市内の放送設備を使って、デモ隊と警察両者に暴力を用いないよう呼びかけた。国民的英雄が発したこの勇気ある放送が、デモ隊、警察両者の心に刺さった。

さらにこのとき、すでに東ドイツ政府の権力構造が崩壊し始めていた。デモ隊を制圧して責任問題になることを恐れた上層部は誰もが判断できず、結局は最上部から現場判断にゆだねるという返答が返ってきた。

そうした愚かなたらい回しが行なわれている間にデモ隊は警察本部などの建物前を通過し、無事に市内を一周することで、デモの成功を内外に知らしめた。このデモ自体もさらに規模を拡大させ、十月十六日には十五万人、十月二十三日には三十万人が参加した。

この間、自らの敗北を認めたエーリッヒ・ホーネッカーは、十月十八日書記長の座を去った。

 

 

最大の処罰が身内から
一九八九年十一月九日という日


十一月九日、東ドイツを率いる社会主義統一党スポークスマンのギュンター・シャボウスキー(下)は、国民の大量出国問題に関する記者会見で、政府が「すべての東ドイツ国民に国境検問所からの出国を認める」決定を下したと語った。いつからこの決定が適用されるのかと記者に質問されたシャボウスキーは、資料をめくりながら「私の理解では、直ちにだ」と回答。数時間後には、ボルンホルマー通りの検問所に市民が大挙して押し寄せ、壁を乗り越えていった。いわば、身内から出たさびだった。

必死で上層部に対応策を尋ねる国境の警備員たち。しかし、彼らに的確な指示を与えられる上役はもういなかった。こうして、東ドイツの社会主義体制は、その責任者たちが雁首そろえて持ち場を放棄してあっさりと終焉を迎え、「無血革命」という「ライプチヒの奇跡」が実現した。

後になって、政府はすべての国民の自由な国境通過など認めるつもりではなかったことが明らかになった。政府が狙っていたのは、東ドイツ国内で抗議活動を主導する一部の不満分子を国外追放して再入国させないというシナリオだった。

シャボウスキーはその計画が話し合われた会合に出席しておらず、誤った発表をしてしまった。東欧最強といわれた東ドイツの秘密警察「シュタージ(正式には国家保安省)」に社会主義体制の維持を断念させ、ベルリンの壁崩壊の引き金を引いたのは、次々に壁をよじ登るジーンズ姿の東ベルリン市民と、そして、身内の政治家も引いたのだ。

 

 

 

終わりに

豊かな西ドイツの生活ぶりを横目に、貧しい生活を強いられてきた東ドイツの国民の不満は蓄積された巨大なマグマとなり、そのマグマが小さなほころびを大きな裂け目へと拡大させた。

ベルリンの壁が壊されることになる一九八九年の年頭、ホーネッカー国家評議会議長は、こう発言した。
「壁の存在理由が除去されない限り、壁は五十年後、百年後も存在するだろう」
しかし、この年の十一月、皮肉にも撤去されたのは彼自身と壁だった。
冷戦の象徴であったベルリンの壁。かつて私が崩壊の十年ほど前に見た壁は、東ドイツが西ドイツに示した統一拒否の固い意志表示の象徴に映った。
「変えられないもの」が崩された歴史の転換点を、私は赴任したばかりのバンコクで指をくわえてテレビをみるだけだった。(終わり)

 

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