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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


世界最長の郵便配達~QLDの空飛ぶ飛脚~

知られざる土地のプチ物語

29/12/2015

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知られざる土地のプチ物語

 

ジェフリー・ブレイニーの著書『距離の暴虐』(邦題)(The Tyranny of Distance:英語)の冒頭にこう書かれている。

 

スイスは山を特徴としてなすように、オーストラリアの特徴は距離である。海路によっても空路によっても、ヨーロッパからの距離は一万二千マイル(二万一千六百キロ)である。(中略)オーストラリアの一方の海岸から反対側の海岸までの距離、あるいは海岸から乾燥大陸の内陸までの距離は、オーストラリアが欧州から孤立しているのと同じくらい頑固な問題である。(前書きより)

 

かつてクリッパールートという海のハイウェーでバタヴィア(ジャカルタ)に向かったオランダ船も、オーストラリア西方で、正面から五階建てのビルのような波が襲う“吠える四十度”の荒れ狂う暴風圏の南緯四十度線を越えなくてはならなかった。狂う五十度、絶叫する六十度という難所もある。 「距離の暴虐」は、オーストラリア国内にもある。今回取り上げる世界最長の郵便配達飛行も、そういう距離の暴虐に挑んできた人たちが作り上げたものである。

 

 

 

 


ヨーク岬半島とは


今回のストーリーの舞台はヨーク岬半島。クィーンズランド州北端部、ヨーク岬からケアンズに至るまでの南北八百キロに及ぶ三角形の半島をヨーク岬半島という。半島の先端、ヨーク岬はオーストラリア大陸の北端である。半島の大部分には人は住んでいない。

一六〇六年にオランダの探検家ウィレム・ジャンス(ヤンツ)が半島の西の海岸に到達し、タスマンは一六四四年にここをカーペンタリア・ランドと命名した。一七七〇年にはジェームズ・クックが東の海岸に到達した。一八六三年のジョン・ジャーディンによる入植地開拓、一八六四年のジョンの息子であるジャーディン兄弟の調査から、半島の開拓は始まった。



今回の飛行ルート


日本の面積の数倍もあるクィーンズランド州では、一日二千キロ、二十ヵ所に着陸という世界最長の郵便配達距離を誇る郵便機が飛ぶ。このヨーク岬には、国から委託を受けて都市と過疎地を結ぶ郵便配達機が飛んでいる。

私は、ある日、二番目に最長の千五百キロという郵便配達の飛行コースを飛んでみた。コースは、ケアンズ⇒ローラ⇒レイク・フィールド⇒シルバー・プレインズ⇒コーエン⇒ワトル・ヒルズ⇒ヒースランド⇒モアトン⇒バタヴィア・ダウンズ⇒サドゥリー⇒マールナ⇒ワトソン・リバー⇒ピカニー・プレーンズ⇒アーチャー・リバー⇒コーエン⇒ローラ⇒ケアンズ。

夜明け前に、ケアンズ空港のケープ・ヨーク・エア・サービス社の格納庫に行った。数人の社員がきて、僻地に配る郵便の仕分けが始まっていた。郵便・新聞・野菜・果物・自動車部品も、そのどれをとっても、過疎地に住む人々にとって必需品なのだ。

「コーエン行きの新聞がたくさんありますから…重い新聞は、前の方に積んでください」と、機長ケンの指示が飛ぶ。飛行機は、セスナ・キャラバン二〇八型機。 機長は、ケン・ハワード五十六歳。副機長はボブ・ハリス五十五歳。今日、操縦桿を握るのは、副機長のボブさん。三本線だが、ベテランである。

午前七時前に積み込み完了。離陸許可を得て朝日を受けながら離陸した飛行機は、陸の孤島ヨーク半島へと樹海と赤土の上を飛び続けた。私以外に乗客が三~四人いる。

 

 

 

①ロ

 

一回目の着陸はローラ。国立公園の真ん中に降りた。操縦桿を握るボブの多忙が始まる。書留郵便物を渡し、受け取りのサインをもらう。


人口百二十人の小さな町ローラは、一八七三年から一八七四年のゴールド・ラッシュに沸いた。その後、放牧地となり、今は国立公園の一部になっている。
この地を最初に訪れた白人は、ウィリアム・ハンであった。ノーマンビー川をさかのぼっていったときに、大きな水源のひとつをみつけた。そこが、居住地として開けてローラとなった。


彼の探検隊は、キャンプ地で黒人に襲われた。この地域には、二つの人食い人種がいた。何回か、白人への虐殺が起きているのも、金鉱山に行く労働者や白人を保護する騎馬警官が数百のアボリジニーを射殺したことへの報復であったろうと想像される。

最も悲しい虐殺は、ヨハネス・ストローとその妻子だ。槍で刺され、荷車を燃やされ、死体を埋められた。三本の木が植えられ、今もその慰霊の場所に立っているという。近くのラグーンは、「ストロー・ラグーン」と名付けられた。


郵便機はエンジンを切らずに、そのまま次の目的地に向かって離陸。

 

 

②レクフィールド

 

人口百八十四人(二〇一一年)のレイクフィールドに着いた。原住民のおじさんが出迎えた。手紙を渡したボブとほんの少しの会話だったが、声に歓喜が感じられた。短い会話を残して、飛行機はエンジンを響かせて滑走し始めた。


この低湿地帯を五本の川が流れている。雨季に入れば洪水状態になる。川やラグーンにあり余るほどの水が、野生動物の理想の住み家にしている。アヒル、ガチョウ、サギ、ブロルガ(ツル科の鳥)や、また淡水系と塩水系のワニなどの一大天下なのだ。まさに、人間のためのナショナル・パークではなくて、生物のためのナショナル・パークだ。


ここには一万二千頭の赤いコブ牛がいる。ここを最初に探検した白人はウィリアム・ハンといい、一八七二年だった。マッケンジーという人が、一八八一年にレイクフィールドに入った時には、ここは、アボリジニーの狩場だったらしい。彼らは開拓移民に敵意を抱いて、マッケンジーが自宅の庭を歩いていると、矢が飛んできたという。


レンジャーの元責任者R・J・ティースは、「飛行機による郵便配達無くして、ここでの生活は想像もできない」と書いた。そして、現役レンジャーは言う。「開拓者たちの生活は厳しかったろう。孤立したここが発展するなど、夢にも思えなかったはずだ」 レイク・フィールドは、現在では、年間八千~一万の訪問客がある。

 

 

③シバー・プレーンズ

 

シルバー・プレーンズに着いた。ド田舎の停車場を思わせる飛行場のプレート(写真左)。赤シャツの男性が出迎えた。品物の購入代金を支払っている。機長は集金係もするのだ。
そして、離陸。飛行コースから見る限り森林か赤土。ヨーク岬に続く一本道が見えるだけで、人の生活が見えない(写真右)。陸路は四輪駆動車か馬、はたまた戦車しか近づけない大樹海が眼下に広がる。

 

 

 

④コエン

 

コーエンに着陸。出迎えたのは、歯が抜けたままの老人だった。ボブは、ここで、多くの郵便物を下ろした。人口は三百十二人(二〇一一年)。


コーエン飛行場が建設されたのが一九三七年。第二次世界大戦中、日本軍による侵略の脅威から、オーストラリア空軍の前線基地となったことは忘れてならない。


コーエンは、オーストラリアで、馬輸送の郵便物が届いた一番最後の町だ。馬の背になる郵便配達は一九五一年まで行われた。一九五六年からは、〝ブッシュ・パイロット〟が郵便機で運んだが、それでも雨季はぬかって飛行機の着陸はできず、馬が運んだこともしばしばだった。


騎馬郵便配達人で一番の有名人は、ジム・マクドゥーウェル。彼はローラからコーエンまで十七年間を郵便配達に尽くし抜いた。その間の配達距離は十四万四千三百キロに達したという。今は、ここまで全天候型の道路が完成し、かつてのような完全孤立はなくなった。


ここに豊かな金鉱脈の「ウイルソン」が発見されたのが、一八八七年。続いて一八九三年に最高の金脈「ザ・グレイト・ノーザン」が発見される。これによって、コーエンの町ができあがった。一九一六年までに、ここから五万六千オンスの金を産出したという。

 

 

⑤ワル・ヒルズ

 

この日、五回目の着陸はワトル・ヒルズ(人口四百五十人)。飛行場の看板を見て頂きたい。まるで軍隊の野営場の雰囲気だ。十数人の村人が出ていた。賑やかな出迎えだった。過疎に住めば住むほど、人は手紙のありがたさを知るのだろう。


重病は、ロイヤル・フライング・ドクターに頼るしかない。しかも夜間の着陸はできないので、病院への搬送は、夜明けから日没まで。過酷な生活環境である。夜何か起きても、明け方までは耐えるしかない。


「上空からはあちこちに山火事が見られた」と私がいうと、すぐさま住民の一人が、「山火事から自宅を守るために、多くの労力を割いている」と言った。そして、子供たちは、通信教育とラジオの教育放送で教育を受けているという。


パスコー川やハン川沿いにある熱帯雨林は、上の写真に見られるような、地域で生息するクスクスやヒクイドリ、イチジク・インコ、イーミュー、ワラビー、ディンゴ、野生の豚など、ワトル・ヒルズに域内に住む動物たちに十分な住み家となっている。


出迎えた住民が横一列になり、手を振って、離陸する郵便機を見送る。何か感動的な光景だった。

 

 

⑥ヒスランド

 

六回目の着陸はヒースランド(人口の詳細不明)。国立公園を守るレンジャーが出てきて、郵便物を渡すとすぐ離陸だ。たったこれだけのことをするためにケアンズから4WDで走っても、三~四日はかかるという。


ヨーク岬から南百六十キロの一帯のここは、一九八八年から、動物検疫緩衝地帯となっており、半島の東西を横断するフェンスが設けられていて、トーレス海峡を通ってニューギニアから入ってくる外来の病気から野生動物を守る防疫最前線でもあるという。

 

 

⑦モトン

 

七回目の着陸は、モアトンだった。ボブが、「ここで三十分の休憩だ。お茶を飲んで、サンドイッチを食べなくちゃ」と言いながら、パイロットの二人は袋からリンゴも出した。

駅ホームの立ち食いそばの様相であり、いかにも三時のおやつ風でもある。温かいお茶をと、お湯の入ったポットが届いた。現地の人の親切心が、心にしみる。週に一度の談笑。生活のこと、気候のこと、ケアンズのゴシップ…話は弾んで途切れない。ここで三十分しか昼食時間が取れない理由が、ケアンズに着いた時間を見て分かった。


モアトンは、ウェンロック川の土手に位置する。一九三九年という早い時期にオーストラリアは電話・通信の普及では世界第七位だったが、ヨーク岬では、郵便物は第二次世界大戦終了後まで荷馬に運ばれており、遅れていた。ヨーク岬でダイヤル通話が可能になったのは、マイクロ通信施設が建設された一九八七年になってからだった。


それでもモアトンとメインの間の九十キロは、通信線の完成直前まで、馬に乗った配達人が郵便・電報を運んでいた。


一八八七年に完了したモアトン通信局と通信線の全線は、北方沿岸に対する脅威に備え、質の良い通信網が必要とされた第二次世界大戦も含めて、ほぼ六十年間オーストラリアの国土防衛に貢献した。

 

 

 

 

⑧バヴィア・ダウンズ

 

八回目の着陸は、バタヴィア・ダウンズ(人口約四百五十人)。飛行機が停止する前から、四本線の肩章のケンが下りる準備を始める。ここでは人の出迎えはなかった。が、しっかりと郵便受けが待っている。そこに郵便を差し込んでいく。終わると、ボブは確認するように「OK」と声を出し、操縦席に座った。


バタヴィア・ダウンズという名は、域内を流れるバタヴィア川に由来し、かなり昔にオランダの探検隊が付けた名前だという。一六〇六年のヴィーラム・ジャンソンか一六二三年のジャン・カーステンソンのいずれかが発見し、オランダ領東インドの首都のバタヴィアに因んで命名したといわれる。ジャン・カーステンソンは、オランダ東インド会社の委託を受けて探検した。オーストラリアは第二次大戦中、同名のインドネシア共和国の首都との無用の混乱を避けるために、川の名前をウェンロックに変更した。


面白い話がある。
ここが一番成功したのは、一九四〇年代後半から一九五〇年代にかけて、ジョン・ケリーという人の所有地となった時であった。その後、土地所有者となったアメリカの企業Duda Brothersは、さらに三地域を取得して、広さは五千平方マイルとなった。想像もつかない広さだ。同社は、この広大な地域にフェンスを作り、土地を整地するという向こう見ずなプロジェクトに乗り出した。広大な地域に無謀な計画は事実失敗した。

 

 

⑨ワソン・リバー

 

十一回目の着陸は、ワトソン・リバーだ。気心知れた男同士の短い会話。手紙を渡し終わって、機長がポンと相手の肩を叩いて別れだ。その「ポン」にすべての気持ちが込められている。


ワトソン・リバーは、ボーキサイトの産地ウィーパの南東五十キロほどの所にある。ここも、前述のアメリカ企業Duda Brosが買い取った土地である。


一九八七―八八年の雨季の話だ。当時土地の所有者であったキャメロンと妻ドーリーンが、週一便の郵便機から受け取るために、マールナに行った。彼らは、ドラム缶で筏を作り、そこに四輪バイクを固定した。キャメロンは、バイクの先端にロープを結わいつけ、妻と子供を乗せ、もう一方の端を自分の口にくわえロープを引っ張って川を泳いだ。何回かストームが来て、苦労の甲斐もなく結局飛行機は、ぬかるむ草地の滑走路には着陸できなかった。


その後、ワトソン・リバーの地を購入したクォーターメイン一家が、一九八八年の雨季の終わりに、バイクで自宅に向かっていると、ワトソン・リバーの土手に三メートル強の塩水ワニを見つけた。前述のキャメロンが、いつも泳いで渡っていた川である。


やがて、一九八九年には、ワトソン・リバーは全天候型の滑走路となり、DC3型機ですら容易に着陸できるようになった。ちなみに、この半島の冬の乾季は、五月~十一月まで。雨季は十二月~四月である。

 

 

⑩アチャー・リバー

 

十三回目の着陸は、アーチャー・リバー。グリーンのTシャツを着た男性が出迎えた。荷物を小型トラックに乗せるまで、親切な機長のボブが手伝う。なかなか大変な仕事である。 


ヨーク岬に行く人、岬から戻る人には、アーチャー・リバーの南岸にできた町は、砂漠のオアシスの存在であったらしい。ここから一番最寄りの町が八十キロ北寄りのコーエン。ここには、一九八三年に建てられた、ジョン・メホノシェン夫妻経営のロードハウスがある。


一八八〇年代以来、雨季が、多くの旅人にここで足止めを食らわせてきた。このアーチャー・リバーから北行きの道は、すべての地域と断絶してしまう。それは、馬の背を借りてもだめであった。


この川は、一八六五年にヨーク岬まで探検をしたロックハンプトンのジャーディン・ブラザーズが発見したが、彼らは、開拓先駆者であるアーチャー・ブラザーズに因んでその名をつけた。


給油のための最後の着陸は、コーエンだった。郵便を配り終えても、ブッシュ・パイロット二人の忙しさはまだ終わらない。お粗末な給油装置しかない空港で、航空燃料の入った重いドラム缶運びをしなくてはならない。別の飛行機のパイロットが手伝いに飛んで来た。僻地では、他人の仕事も自分の仕事なのだ。


給油を終えると、ボブは言った。
「ケープ・ヨーク航空の郵便機は週一便だから、住民にとって命の綱だし、我々にも価値ある仕事だ。良いニュースを持ってくることもあるし、悪いにニュースを運ぶことだってあるさ。ときには弁護士からの郵便で、サインが必要で、証人としての私の目の前でサインをしてもらって、ケアンズにもち帰ることもある。ケアンズまで来られない人たちには、例えば、眼鏡を代行で買って発砲スチロールの箱に入れて上空から投下することもあるよ」


「今日は、良いニュースを運べたかな?」と、機長は一日を振り返りながら、ケアンズに向かった。半島の中の小さな村落から見ると、ケアンズの日没の電気の明かりは、超大都会のそれに見えた。この日の着陸回数は十六回。総飛行距離は一四九六キロだった。ケンとボブの顔に、充実感と誇りが読み取れた。(おわり)

 

 

 

 

参考資料:
WINGS OVER THE CAPE (Glenville Pike 著)

 

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