オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」
娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


ロシア・バルチック艦隊発見

奥濱牛から 久松五勇士へ

28/04/2016

このエントリーをはてなブックマークに追加

 北村はじめのちょっと立ち読み㊺ 2016年:「国際豆年」

 

 

 

最初にお断りしておきたい。この特集は、戦争礼賛・戦争賛美や戦争を煽るものではない。次に、明治時代のことゆえに、久松五勇士の活躍の時系列的な日付け・時間が必ずしも公式に確立されていない。軍事的・学術的側面から検証を加える余地があることを冒頭にお知らせしておきたい。

 

はじめに

 

久松五勇士とは、一九〇五年、当時世界最強のロシアのバルチック艦隊の通過を軍令部に知らせるために石垣島の電信局にサバニで行った宮古島の五人の若者である。久松五勇士は高い航海能力と強い責任感、使命感で任務を果たした、宮古島が世界に誇るべき海の男たちだ。この男たちのことを、現代の私たちはもっと知るべきだと思う。

日露戦争で日本軍の連合艦隊は、すでに一九〇四年(明治三十七年)八月の黄海海戦でロシアの旅順艦隊、続いて韓半島の蔚山(ウルサン)沖海戦ウラジオストク艦隊にも勝利し、極東海域の制海権を確保していた。しかし、その後も日本軍連合艦隊は、バルチック艦隊を迎撃する準備と情報収集を続けていた。

それは、日本としてはバルチック艦隊がロシア・太平洋艦隊と合流する前に、何がなんでもこれを叩かなければ、日本の最終勝利はなくなるからだ。連合艦隊参謀の秋山真之の言う「皇国の興廃(日本の存亡)」は、敵の動きを一刻も早く補足し、バルチック艦隊に勝利できるかにかかっていた。

 

 

 

時は一九〇五年(明治三十八年)。五月十九日、バルチック艦隊が、フィリピンのバシー海峡通過という情報を入手した後、日本軍は艦隊の行方を見失った。日本軍が血眼でその後の行方を追っている中、五月二十三日、宮古島の沖合で漁をしていた奥濱牛(おくはま うし)という宮古島の青年漁師が、バルチック艦隊を目撃する。

奥濱青年の乗った帆かけ船の近くをバルチック艦隊が通過し、艦隊でも、彼の乗った船を視認していたが、ロシア側は彼を捕まえなかった。奥濱の船が立てていた大漁旗の龍の絵柄と、沖縄の海人(うみんちゅ)独特の長髪が、艦隊側をして彼を中国人と誤認させたらしいのだ。

奥濱は、バルチック艦隊の通過を見届けると、即座に網をあげ、宮古島の漲水港(はりみずこう/現・平良港)に急いだ。

五月二十六日午前十時ごろ(二十五日という説もある)、漲水港に帰港。巡査を伴い役場に駆け込み、発見の知らせを伝えた。

奥濱がバルチック艦隊を目撃してから、漲水港まで、八十キロメートル進むのに、なぜほぼ三日かかったのか。その理由は、サバニと言われる丸木をくり抜いた手漕ぎだったこと。そして、五月中旬から下旬にかけてこの海域は梅雨前線による偏西風の影響で高波も発生していたことが、現存する明治三十八年五月二十六日、二十七日の天気図からも読み取れるという。

そして、漲水港の駐在所で状況を話し、すぐさま駐在所の警察官と一緒に、宮古島の役場に駆け込んだ。その報せに、通信施設がまったくない宮古島役場は大騒ぎとなり、どうやって本土に伝えるかの緊急協議が始まった。

 

 

 

 

では、このバルチック艦隊は、どこを発って、どういう経路で宮古島沖まで来たのかを、かいつまんで説明したい。

一九〇四年、ロシアは、海上戦力で日本海軍に対抗するため、バルト海を担当するバルチック艦隊の主力を極東へ向かわせることを決定した。十月十五日、ロジェストヴェンスキー提督率いるバルチック艦隊は、当時の皇帝に見送られてリバウ軍港(現:ラトヴィア共和国のリエパヤ)を出港した。

日本とイギリスは日英同盟を結んでいたため、ロシアは日本艦隊が極東までのルート上のどこかで奇襲攻撃をかけてくることも想定した。ロシアは世界各地でエージェントを雇い、日本艦隊の動向を監視させた。だがこれが裏目に出た。エージェントは報奨金目当てに、日本の水雷艇を発見したと世界各地から情報を送ってきたのである。

十月二十一日夕刻、神経過敏になったバルチック艦隊は濃霧の中、ドッガーバンク付近を進んでいた。単艦で百キロあまり先行していた工作船「カムチャツカ」から、二十一日午後八時四十五分、旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」へ、「水雷艇に追跡されつつあり」との無線通信が送られてきた。

К・スヴォーロフ:「何隻どの方向からか」
カムチャツカ:「四方から」
К・スヴォーロフ:「水雷艇は何隻か。詳細を知らせ」
カムチャツカ:「水雷艇約八隻」
К・スヴォーロフ:「距離は」
カムチャツカ:「一ケーブル」(百八十三メートル)

「カムチャツカ」は通信を断ち、艦隊は緊張に包まれた。

 

 

 

十月二十二日午前〇時過ぎ、突然「戦闘配置につけ」のラッパが鳴り、次いで「水雷艇だ、魚雷攻撃だ」「駆逐艦だ、我々はやられた」という声が聞こえてきた。ロシア軍がイギリス漁船と日本軍を間違えたのだ。混乱したロシア軍は、同士撃ちを始めた。結局、イギリス側の損害は漁船員三人死亡、負傷者六人で終った。なぜこの程度の人的被害で済んだか? ロシア軍の砲手のレベルの低さだった。ロシア戦艦「オリョール」にいたっては、五百発を発砲して一発も命中なしの無駄撃ちだったという。

ようやく事態を把握したロジェストヴェンスキーは、狂ったように怒鳴り続けた。
「あれは漁船だぁ!」

このドッガーバンク事件は、バルチック艦隊内部の統率力がいかに低く、また、兵士の技術レベルや能力がどれほどひどいものであったかを象徴する出来事となった。

その上、後始末に誠意がなかった。バルチック艦隊は、犠牲者を救助せず現場を離れ、さらにドーバー海峡を素知らぬふりで通過したのだ。イギリスは巡洋艦隊を出動させ、スペインの港まで追尾した。

スペインの港でロジェストヴェンスキー提督は謝罪し、イギリス側は一時的に収まったが、パリで国際査問委員会が開かれることになった。以下は割愛する。

この結果、イギリス海峡から地中海に入り、スエズ運河を通過して太平洋に行く最短コースは、イギリスがスエズ運河通過を拒否し、バルチック艦隊はあえなく、ドイツの補給船をチャーターしてアフリカ最南端の喜望峰経由という、世界の海軍遠征史上に名を残す三万三千キロの大遠征となった。さらに世界的に無煙炭を支配していたイギリスは、無煙炭の補給も拒否した。

そして、喜望峰を回り、インド洋に入り、一九〇五年三月に、フランス領マダガスカルのノシベ港に寄港したときに、旅順の陥落を知り、ロジェストベンスキー提督は唖然とした。旅順艦隊との合流が、バルチック艦隊の当初の狙いだったので、この航海の意義を根本から失ったことを自ら知った。

そして、五月十四日、仏領インドシナのカムライン港(現:ベトナム中南部カインホア省)への寄港も、イギリスの外交圧力で、短期間で追い出された。
その後、日本軍は五月十八日にフィリピンのバシー海峡で艦隊の航行を確認するが、その後見失うことになった。

二十六日午前〇時過ぎ、バルチック艦隊随伴の石炭運搬六隻が、二十五日上海に入港したという情報が軍令部に入った。この切り離しは、バルチック艦隊本体が、間違いなく対馬沖を通過すると、日本軍は読んだのだ。

こういう流れの中で、五月二十六日に奥濱が、艦隊発見の知らせを届けた。奥濱の出身は沖縄県島尻郡粟国村九五〇一番地。バルチック艦隊を発見した明治三十八年五月の時点で二十九歳であったと言われ、没年は大正五~六年頃、四十~四十二歳で亡くなっていると思われるが、正確な生年・没年は不明である。

 

 

 

 

話は戻って、駐在所の内田輔松所長は、すぐに奥濱とともに宮古島の島司(区長)の橋口軍六に報告した。橋口島司と役員たちは、この重大ニュースを、東京の海軍最高決定機関である軍令部に伝えようとしたが、一番近い電信発信場所が、石垣島の八重山郵便電信局だった。

そこで区長と役員たちは、大急ぎでサバニで外洋の高波を越えて確実に石垣島までたどり着くことのできるすぐれた操船技術をもった若者、サバニを長時間こぎ続けることのできる強靭な体力を持つ若者を選ぶための会議をし、五名を石垣島へ送ることを決めた。選ばれたのが、次の五人だった。

松原村から二組の兄弟

垣花 善 (かきはな よし) 兄
一八七六年生まれ 二十九歳
垣花 清 (かきはな きよし) 弟
一八八三年生まれ 二十二歳
与那覇 蒲 (よなは かま) 兄
一八八〇年生まれ 二十五歳
与那覇 松 (よなは まつ) 弟
一八八二年生まれ 二十三歳

久貝村からは、松原の与那覇蒲と同姓同名で五人の中では一番若い
与那覇 蒲 (よなは かま)
一八八四年生まれ二十一歳

電信文を石垣島に届けることは極秘扱いとされ、極秘で選ばれた五人は、五月二十七日の早朝、鎮守で任務遂行の祈願をし、朝八時頃、橋口島司(区長)から軍令部への電文を受け取り、極秘で石垣島に向けて出発した。宮古島から石垣島北部の伊原間(いばるま)までは直線距離で百五キロほどだが、五人は出発から十五時間ぶっとおしで丸木舟を漕ぎ、午後十一時頃に石垣島の東海岸の伊原間の近くまできた。休みなく十五時間漕いで、平均時速7キロは、外洋の波などを考えると、素晴らしい操船能力と体力だと評価されている。

ところが、せっかく石垣島に着いたが、干潮のために港に入れず、満潮を待って港に船を付けたが、無慈悲なことに、郵便局は港の島反対側にあった。

さしもの強靭な体力を持つ精鋭五人も疲労困憊していたが、五人の若者はあきらめなかった。三十キロの山道を五時間かかって(十分で一キロのペース)走り続け、五月二十八日午前四時、石垣島八重山郵便局に到着した(註:ここでも五人が上陸したという説と、五人がそのままサバニで石垣村の郵便局に行ったという説と、二人が上陸し、残りがサバニで石垣村へ行ったという説、さらには上陸後馬を借りたという説など確定していない説が存在している)。

奥濱が役場に発見を報告してからなんと十六時間後だ。この勇気と悲壮なまでの使命感はいったいどこからくるのだろうか。

局員は、五人から文書を受け取り、電信を那覇の郵便局本局へ打った。電信はそこから沖縄県庁を経由して軍令部へと伝えられた。 そのときの電文だ。

 

 

 

 

サバニとは食堂メニューの鯖煮ではない。鱶舟と書く。琉球列島の漁業従事者に古くから使われていた漁船だが、日常の荷物運搬等に欠かせない生活の足でもあった。推進方法はエークと呼ばれる櫂、四角帆、エンジンの三種類である。独特な形状をもつエークは漕ぐだけでなく、帆走時には舵としても使われる。戦後のエンジンの普及で、伝統的なサバニの帆漕技術は急激に失われ、近年はエンジン推進が主流である。

 

 

 

 

五人の活躍や勇気ある命がけの航海は、軍事上の機密扱いで、その後長く宮古島の人々や全国に知られることはなかった。宮古島に戻った後も、五人は区長との約束を固く守り、決して自らが石垣島に行った目的について語ろうとはしなかった、という。

一九二〇~一九三〇年代になって、五人の活躍は宮古島でもうわさ話として広がり、新聞で全国に紹介されたり、国や県から表彰されたり、教科書にも載ることになった。しかし、太平洋戦争後は軍への協力者として非難されたり、勇気ある行動を無視されたり、時代に翻弄され、イデオロギー論争に巻き込まれ、正当な評価がなされなかった。

宮古島を代表して石垣島にサバニで行った五人は、サバニで漕破し、伝統的なサバニが手漕ぎで島から島へと外洋を渡ることのできる船であることを示し、優れた船である史実を残した。その高い航海能力と宮古島が世界に誇るべき強い責任感、使命感で任務を果たした宮古島のヒーローであることは間違いない。

驚くべきは、宮古島の小さな村の漁師が、当時の日本の戦況、連合艦隊がロシアを迎え撃たねばならず、それを血眼で探している、という状況を知っていたということだ。そして、波の荒い外洋を命を賭して漕ぎ続けた漁民がいたことに、大いなる感動を覚える。

私は、一四九二年十月十二日(明応元年)、「コロンブス」船団のラ・ピンタ号というカラベル船で見張りをしていて、十キロ先に、「コロンブス」船団で最初に陸地(現サン・サルバドル島)を発見したスペイン人船員のロドリゴ・デ・トリアナという名の船員を思い出す。コロンブスの名は残っても、彼の名は無名だ。

スペイン王朝がこの航海を支援した狙いは、新大陸を発見することではなく、海路による東方への最短経路を探し出すことだった。私は、奥濱青年と久松五勇士に、何か共通するものを感じるのだ。

ところで、この五勇士のストーリーには、時系列で権威ある確定された日時が示されていない。久松五勇士の話が新聞を通じて国民に伝えられたり、教科書に掲載されたとき、「久松五勇士の報告は、実はほかの報告よりも一時間遅く軍令部に届いていた」 という内容になっていたという。

この「遅かりし一時間」があったという設定には、意図した時間隠しがあるという指摘には説得力がある。

歴史研究者らによるもうひとつの考えとして、実は久松五勇士の電信報告は遅れておらず、バルチック艦隊発見の最初の報告だったが、当時の軍令部では民間人が第一発見者であっては軍の体面上、規律上示しがつかないので、軍部が後日 「遅かりし一時間」とのストーリーを作り、新聞社に流したのではないか?という説もある。 

しかし皆さん。日本海海戦は、一九〇五年五月二十七日の午前十時に両艦隊が対馬沖で遭遇し、翌二十八日午前十時五十三分に戦闘は終了してしまった。

 

 

 

 

 バルチック艦隊の物的損害 

●戦艦八隻のうち六隻撃沈、二隻捕獲(降伏)
●装甲巡洋艦三隻のうち二隻撃沈、一隻自沈
●巡洋艦六隻のうち一隻撃沈、一隻自沈、三隻抑留
●装甲海防艦三隻のうち一隻撃沈、二隻捕獲(降伏)
●駆逐艦九隻のうち三隻撃沈、二隻自沈、一隻捕獲(降伏)、一隻抑留
結局、目的通りウラジオストックにたどり着けたのは、ヨットを改造した仮装巡洋艦一隻、駆逐艦二隻のみで、実質的にはバルチック艦隊は壊滅した。

 日本側の損失 

水雷艇三隻だけだった。

 人的被害 

ロシア側
戦死四千五百四十五人、捕虜六千百六人。
日本側
戦死百七人。
(数字は『海の史劇』による)

 

 

終わりに

 

この海戦に限っていえば、空前の大勝利だった。日本はロシアの属国にならずに済んだ。大海戦にもかかわらず、日本側の戦死者の少なさは驚異的だ。ロジェストベンスキー提督は、負傷し、捕虜となった。日本とロシアは戦争終結に向けて動き出した。しかし、借金で戦った日露戦争に勝利はしたが、戦後賠償金は取れなかった。そして、その後、日本海軍を縮小する者は誰もいなかった。日本海軍の規模を維持して行ったことが、その後の日本の歩むべき道をおかしくしていったと考える。
(おわり)

 

 

 

【参考・引用文献】
http://www.miyakojima-kids.net/HISAMATSU_5_YUSHI.HTML
アクセス2016年3月1日 http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/ad0da2c30369f379e4ec24b96f29849c
アクセス2016年3月1日
Credland, Arthur (2004). North Sea Incident. Hull: Hull Museums and Galleries. Westwood, John N. (1986). Russia against Japan 1904–05: A New Look at the Russo-Japanese War. Houndmills.
アレクセイ・ノビコフ=プリボイ(著)、上脇進(訳)、『ツシマ〈上〉バルチック艦隊遠征』、原書房、2004年
『最新版 沖縄コンパクト事典』2003年3月・琉球新報社発行

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

1752年、ベンジャミン・フランクリンによる有名な凧による雷の実験。雷が電気現象であることを実験によって解明したのがフランクリンの凧揚げ実験である、と教えられてきた私たち。凧が雷雲の中に消えていき…などと、見たような説明も独走している。実は、彼は凧揚げ実験をやっていないのではないかという学者がでて、すでに15年ほど。少し真相に迫ってみた。

この記事を詳しく見る

第二次世界大戦は、一九三九年から一九四五年までの六年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソ連、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争だった。

この記事を詳しく見る

落語には枕がつきものだ。枕とは、演目へ入るさいの導入部分のこと。客席が本題の演目に入りやすくするための工夫のひとつである。 春風亭小朝師匠の枕話で、有名なのがある。「うちの師匠が脳梗塞で倒れまして。命はとりとめたんですが左半身がマヒしちゃうようなことになりましてね。看護婦さんが師匠にそのことを言いましたら、そっとおちんちんを右に寄せました」。 ある落語家が、枕で、日本の三大シツゲンというのがありまして…尾瀬沼、釧路、渡邊ミッチー…結構の笑いを客席からとった時代があった。ミッチーこと故渡邊美智雄代議士の

この記事を詳しく見る

プロローグ NSW州最西部の町ブロークンヒルに、シドニーからドライブしたことがある人は、少ないだろう。シドニーから陸路一千キロは、ジェフリー・ブレイニーの著書のタイトルではないが、やはり“距離の暴虐”を感じる。 最寄りの最大の町は、南に三百キロ行ったVIC州のミルジューラ。最寄りの大都市では、南西に五百キロのSA州の州都アデレードだ。このような遠隔地での位置関係のために、ブロークンヒルはSA州と強いつながりを持ち、NSW州にありながら、東部標準時間より三十分遅れた中部時間で生活している。 かつてこの

この記事を詳しく見る

CATEGORY

北村はじめの『ちょっと立ち読み』

フランクリンは、ほんとうに凧を揚げたのか? もう一人の命のビザ発行者 卓袱台(ちゃぶだい)をひっくり返す言葉  ブロークンヒル 日本のウィスキーの父と母 元奴隷・元スパイ 豪州と日本に見るドイツ人捕虜 不毛の大地を潤した日本人水利技師 八田 與一 宇宙の銀河の数 学生三大駅伝三冠 箱根駅伝三連覇へ王手だ! キリシタンの夢を叶え続けた オバマ大統領の広島演説を読む ウズベキスタンの抑留日本兵のこの偉業! ロシア・バルチック艦隊発見 気高き 真白の 新年だ!御神酒あがらぬ神はなし 世界最長の郵便配達~QLDの空飛ぶ飛脚~ 鉄道王雨敬 ベルリンの壁 世界一 質素な大統領 いま、イギリスの ストーンヘンジがすっごく面白い! 台湾人日本軍兵士数百名を救った 「よお、備後屋、相変わらずバカか?」 日本の城物語(4/4回) 日本の城物語(3/4回) 日本の城物語(2/4回) 日本の城物語(1/4回) 2014年は「国際農家年」 2014年は「国際農家年」  おもしろ歴史散歩! 監獄の島 造船の島 故吉川利治教授からの聞き書き 2014年は「国際農家年」 江戸城に激震を起こした 絵島事件! 日米開戦阻止に 奔走した日本人がいた! 野口英世 この母ありて この息子あり 歴史の聞き書き ベトちゃん・ドクちゃん看護秘話 北村 はじめの『ちょっと立ち読み』 バレンタインデー雑学誌 ネッド・ケリーの前座を つとめた盗賊たち シンガポール血の粛清 陰で救った篠崎護 2013年は「国際水協力年」: アウトバック de 廃車復活戦 ルポ:彷徨える ベトナム軍退役兵士 東京大空襲から66年 ナナメ後ろから見た タスマニア物語 倫敦 ゴーストハンティング タイタニック沈没から100年(2012年) 戦争から平和へ ダンシングマン逝く

CATEGORY

娯楽記事

Side 1
Side 2

FOLLOW US

SNSで最新情報をゲット!

NEWSLETTER

メールで最新情報をゲット!

メールを登録する

COUPON

オトクなクーポンをゲット!

全てのクーポンを表示
Suitecase