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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


ウズベキスタンの抑留日本兵のこの偉業!

01/07/2016

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北村はじめのちょっと立ち読み㊻ 2016年:「国際豆年」

 

 

日本から直行便で9時間あまり。中央アジアのウズベキスタン。シルクロードの〝親日国〟だ。漢字による当て字は月即別。かつてのソ連邦の一角を占めたウズベクに息づく「日本人伝説」がある。第二次大戦後、日本人抑留者たちが残したすばらしき「遺産」に、今もウズベク国民の心の中に感謝の気持ちが宿り続けている。

 

 

 

ウズベキスタンとは…

 

十九世紀に北からのロシア帝国に征服され、ロシア革命後はソ連邦下の共和国となり、その後ソビエト共産党政府の統治下に入り、ウズベク・ソビエト社会主義共和国となった。


一九九一年のソ連崩壊でウズベキスタン共和国として独立し、同時に独立国家共同体(CIS)に加盟。人口の八割近くをウズベク人が占める。そして、大多数がイスラム教徒である。


中央アジアのタジキスタン、ウズベキスタン、など「スタン」は国を意味し、それぞれタジク人の国、ウズベク人の国となる。旧ソ連邦に属した各自治領、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの五ヵ国、これにアフガニスタンを加えた六ヵ国が中央アジアである。


ウズベキスタンは、北はカザフスタン、南はトルクメニスタン、アフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと国境を接している。世界には海と接していない「内陸国」が四十三ヵ国ある。そのうち、国境を接する すべての国が内陸国である国、すなわち、国境を少なくとも二回越えないと海にたどりつかない国を「二重内陸国」という。ウズベキスタンは、リヒテンシュタインとともに、世界に二つしかない「二重内陸国」である。

 

 

ナヴォイ劇場

 

日本から遠く離れた中央アジアのウズベキスタンの首都タシケントには、知る人ぞ知るナヴォイ劇場がある。レンガ造りで、ビザンチン様式の美しい、オペラとバレエのための劇場だ。


第二次世界大戦でソ連の捕虜となった日本人が建設に携わったことで知られるナヴォイ劇場の正式名称は、アリシェル・ナヴァーイー記念国立アカデミー大劇場。アリシェル・ナヴァーイーは、ウズベキスタンの伝説的な英雄で、文学、伝承でも度々取り上げられる人物。


ナヴォイ劇場は、アレクセイ・シュチューセフが設計して一九三九~一九四二年、一九四四~一九四七年に建設され、一九四七年十一月にアリシェル・ナヴァーイー生誕五百周年を記念して初公開されている。劇場の収容観客数は千四百人で、舞台の広さは五百四十平方メートルである。


ソ連は、レーニン政権が樹立した一九一七年十一月の革命三十周年にあたる一九四七年十一月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていた。そのため大戦後、ソ連は日本人捕虜を活用して革命三十周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵四百五十七人の日本兵が建設に携わった。ソ連の捕虜になったのは合計六十万人とも言われ、満州で捕虜となった日本兵はシベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設に従事しており、この劇場建設の任務は特殊業務であった。

 

 

首都タシケントには次のような碑文がある。

 

 

[日本人抑留者記念碑文]

一九四五年から一九四六年にかけて、極東からウズベキスタンに強制移住された日本国民二万五千百十九余名の内、九千七百六十余名が過酷な条件のもとで、数年にわたりタシケントの都市建設に貢献した。望郷の念むなしく七十九余名がこの地に眠る。この厳粛な歴史を後世にとどめ、永遠の平和と友好を念じ建立する。主な労働場所:ナヴォイ劇場、電線工場、運河建設、住宅建築、道路建設など。
<二〇〇二年五月二五日 日本人墓地整備と抑留者記念碑建設代表発起人会>

 

ウズベキスタンに連行された約二万五千人の抑留者たちは、十三の収容所に分けられ、過酷な労働を強いられた。道路、工場、運河、炭鉱、発電所、学校などの社会基盤の建設にあたった。厳しい気候条件、十分な食事を与えられない収容所生活、そして、就労させられた危険な仕事などの結果、病気や事故などで八百十三人の日本人抑留者がウズベキスタンの地で命を落とした。


奉天(現在の瀋陽)で現地編成された第二十八大隊(千人)がソ連の捕虜となり、「ウラジオストク経由で帰国させる」と言われて一両の貨車に六十人詰め込まれるという家畜状態で一九四五年九月十七日に汽車に乗せられ、四十日かかって着いた所はウラジオストクならぬタシケントだった。


その中で、ナヴォイ劇場の建設に携わったのは、永田行夫元陸軍技術大尉率いる四百五十七名からなるタシケント第四ラーゲリー(強制収容所)隊だった。永田隊長は、当時、二十四歳。永田隊は当初二百四十人だったが、後に増援部隊が転入してきて、最終的に四百五十七人になった。 


永田隊長は、仕事の開始にあたり、隊員に、大目標を示した。
「我々の仕事は劇場を建設することだが、最も重要な使命は、全員が無事に日本へ帰国し家族と再会することだということを全員肝に銘じてほしい。そのためには色々不満や不安なことが出てくると思うが、全員で協力しあって皆で日本へダモイ〈帰国〉を実現することに気持ちをひとつにしてほしい」(嶌信彦著:「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」七十九頁)


厳しい収容所生活にありながら、永田は総監督となる部下にこう話している。
「私は、ソ連の歴史に残るオペラハウスになる以上、日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたいと思っている。捕虜としてやるのだから、別にそこまで力を入れなくてもよいだろう、という意見もあるだろう。しかし私の気持ちとしては、(中略)さすが日本人たちの建設したものは〝できが違う〟といわれるものにしたいと本気で思っている」(同著:百十八頁)


その上で、「全員が元気に帰国する」ことを使命として永田行夫隊長以下十八歳から三十歳の隊員を統率し、ウズベク人と協力して建築した。


過酷な環境の中、四百五十七人の日本人捕虜たちは、実直、勤勉に仕事に励み、予定工期を大幅に短縮し、わずか二年で、旧ソ連の四大オペラハウスのひとつとなるビザンチン様式の「ナヴォイ劇場」を、ロシア革命三十年にあたる一九四七年十月に完成させた。

 

 

 

 

収容所の仕事

 

劇場建設の仕事は班ごとに別れて行われていた。労働時間は規則正しく八時から十二時、一時間の昼食をはさんで十三時から十七時までの八時間労働。休日は日曜、元日、メーデー、革命記念日。


仕事内容は、土木作業、床工事と床張り、測量、高所作業(とび職)、レンガ積み(外壁作り)、電気工事、鉄筋と鉄骨組み立て、ウインチ、足場大工、大工に左官工事、板金、建物ができ上がって来たら電気配線工事、溶接、指物、壁などの彫刻など二十種類くらいの職種ごとの班に別れて、効率的に作業を進めた。


日本人で死亡したのは、劇場建設の高所作業に従事していた永尾清の転落事故と外出時に汽車に轢かれて死亡した野村浅一の二人。この二人はタシケント抑留日本人墓地(公営ヤッカサライ墓地)に当時死亡した日本人と共に埋葬されている。


転落事故が起きた日の永田隊長の話は、胸にジーンと迫る。
「今日、二人目の犠牲者が出てしまったことはご家族の皆さんに申し訳なく、残念至極の気持ちで一杯だ。(中略)諸君も毎日見ているからわかる通り、このナボイ劇場の完成も日一日と近づいており、日本人として誇りのもてる建築物を作ってきたと自負している。どうか、もう少し頑張って元気でいてほしい。(中略)多分帰国の日は近いと思う。ここでもう一度二人の御魂に祈りを捧げよう。また、一緒に働いていたウズベク人の何人かが、永尾君の亡くなった劇場玄関の所に花を置いてくれたそうだ。どうか、明日、近くを通ったら手を合わせてやってほしい。そしてウズベク人にも礼を言ってくれればと思う。また今夜は二人のことを思いだして語ってやってくれたらありがたい」(同著:百三十八頁)

 

 

 

 

収容所の食糧

 

食料は一日一人当たりの配給量が規則で厳格に決められていた。馬鈴薯は腐っている所が多いなど十分な量ではなかったが、三食規則正しく出された。

 

 

●米または雑穀(粟、燕麦、小豆など)三百五十グラム ●黒パン 三百五十グラム ●野菜(キャベツの漬物、砂糖大根、じゃがいも)八百グラム ●肉(骨付き羊、たまに駱駝や亀)五十グラム ●魚(塩漬け鰊)百グラム ●油 十グラム ●茶 一グラム ●砂糖 十五グラム ●塩 十グラム ●煙草(マホルカという植物の茎)十グラム

 

一見結構な量がありそうだが、穀物は籾付きだし、羊肉は骨ばかりだし駱駝肉は硬くて噛みきれない、じゃがいもは半分腐っていたりで、実際のカロリーは二千前後だと推定される。


ところが、ノルマの達成度合いによってパンの量に差をつけよとソ連から命令されたが、隊長を務めた永田行夫(当時二十五歳)の交渉により平等配分をソ連側に認めさせた。収容所長に対する永田の決め手の質問は、「ソ連の社会主義政策では、働いたうえで本人に分け与えられたものは、その本人が自由に処分してもよいんですよね」(同著百三頁)だった。


〝仲間が連帯し協働的関係にあることで得られる利益をそれぞれに配分する〟という人の善意を訴えた永田は、天晴なリーダーシップを発揮した。

 

 

収容所の暮らし

 

収容所では自由時間に、建設現場から材料を持ち出して、日用品で作れる物は何でも、建築現場の床材を利用した。麻雀パイ、紙から将棋、囲碁、トランプ、花札、さいころなどゲーム用品もすべて手作りだった。麻雀牌は木製で軽いので鉛を埋め込んで、模様は彫刻した。


鋸刃からナイフ、剃刀、鋏などなかなか切れ味のいい刃物を作った。


楽器も、太鼓、マンドリン、バラライカ、バイオリンなどを自作した。娯楽により捕虜たちの気分転換を奨励したり、地元のウズベク人を招いた演芸大会も行なわれた。演芸大会のための男女和服、かつら、刀も作った。技術を持った器用な人が多かった。永田は「他にすることがないので、エネルギーを注いだからだろう。建設現場で材料が何でも手に入ったという幸運もある。それに永田隊は航空関係が多く、機械や修理のエンジニアもたくさんいたし、元は大工だったという人もいた」と言った。


生活の悩みは住居であった収容所に多量にいた南京虫。ベッドの隙間に無数に生息し、当初かまれるとかゆくて寝られないこともあったが、徐々に免疫ができてかゆくなくなってきた。殺虫剤はないので、退治のために晴れた休日に庭にベッドを出して日光を当てて焼き、効果はあったが全滅させることはできなかった。


永田元隊長は当時をこう振り返っている。 「食事は、常に不足して、私も栄養失調で歩くのがやっとの時期があった。南京虫には悩まされ、月一回のシャワーは 石けんを流し終える前に湯が切れた。冬は、建設現場の足場板を持ち帰って部屋の薪にしていたが、後にばれて、厳禁となった」

 

 

 

報恩感謝の日本兵

 

当時首都近郊の「日本人強制労働収容所」近くに居住していた現地人は、「少年の頃、よく収容所の壁の隙間から、日本人収容者に自家製のパンや果物を差し入れていた」という。


ウズベキスタン中央銀行副総裁アブドマナポフ氏は、子供のころ、日本人が働く姿を見たことがあるという。子供心に、いつも疲れて帰ってくる日本人抑留者を見て同情した氏は、友人と一緒に、何度となく、宿泊所の庭先に、自家製のナンや果物を差し入れに行ったという。


現地は寒暖の差が激しいために、果物の糖度は非常に高く生育する。美味しかったに違いない。ウズベクの家族は、祖父母が孫と暮らすという昔ながらの「三世代同居、日本人家族の原型」を現在まで保持している。壁に囲まれた大家族の各家には、「葡萄」「杏」「桜」などの木が植えられており、当時の日本人捕虜の食糧事情を心配した現地人が食糧を差し入れてくれていたのだ。


すると、その数日後に、必ず同じ場所に感謝の品が置かれていた。精巧に作られた手作りのオモチャだった。日本人捕虜たちは、受けた恩に精一杯の謝意を表した。 強制労働で疲れ切った捕虜という身分であったにもかかわらず、日本人抑留者の行為は、道徳的規範として、ウズベク人の間で語り継がれるようになった。

 

 

 

大地震発生!

 

タシケント地震は一九六六年四月二十六日(現地時間)に起きた。マグニチュードは五・〇と大規模地震ではなかったが、直下型の地震で、震源が地下三~八キロと浅く、余震が千回以上続いたため、首都タシケントに大きな被害を及ぼした。十~十二秒間に渡って強烈な揺れが続き、建築物の倒壊が起きた地域はタシケント市内約十平方キロに及んだ。


この地震で十人が死亡し、約千人が重軽傷を負った。地震後、建造物の三分の二にあたる約三万六千戸の住宅、公共建築物が倒壊し、七万八千世帯、延べ三十万の人々が住宅を失った。二千年以上の歴史とシルクロードの中継基地としての痕跡を若干残すタシケントは、瓦礫の山となった。


しかし、この劇場はビクともせず、瓦礫の山の中に輝いていた。ナヴォイ劇場が地震前と変わりなくて立つ姿をみて、タシケント住民は日本人への畏怖と敬意の念を抱いた。 「日本人の建物は堅固だ」「日本人の建築技術は高い」と。親日感情が強い中央アジア諸国の中でもウズベキスタンの日本人への畏敬の度合いが飛び抜けているのは、永田隊長ら抑留者たちの誠意の取り組みの結果である。


そこに感動して、日本人抑留者の残した建築物の資料館を自費で建てた現地の人もいる。

 

 

 

ウズベク人の思い

 

ウズベキスタンのイスラム・カリモフ大統領は大の親日家で知られる。一九九六年、大統領は、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場側面の壁に設置した。カリモフ大統領はこのとき「私たちは日本と戦っていない。彼らは恩人だ、間違っても、決して日本人捕虜とは書くな」と厳命したという。


このプレートには、ウズベク語、日本語、英語、ロシア語の四ヵ国語で
「一九四五年から一九四六年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」
と記されている。


「子供のとき、毎週末、日本人捕虜収容所に連れて行かれた母親が私に言ったセリフは毎週同じだった。『息子よ、ご覧、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。人が見ていなくても働く。お前も大きくなったら、人が見ていなくてもしっかり働くような人間になれ』おかげで母親の言いつけを守って、今日私は、大統領になれた」―これは麻生副総理が伝えるウズベキスタン共和国のカリモフ大統領の言葉だ。

 

 

 

終わりに

 

永田隊は、二人が事故でなくなったが、残る全員が帰還を果たした。敗戦直後という地獄の中で、人類を結ぶ友情と平和のシルクロードをウズベキスタンに築いてくれた日本人抑留者に、心から手を合わせ、感謝と称賛の気持ちを表したい。部隊の名簿を持ち帰れないため、永田隊長は四百五十七人全員の名前と住所を必死に暗記して帰国後名簿を作ったという。帰国後は岡村製作所に入社し、役員まで勤め上げた。永田行夫元隊長は、二〇一〇年四月十一日に亡くなられた。合掌。

 

主な参考・引用文献


http://ameblo.jp/e-fh/entry-11662342902.html
2016年5月1日アクセス
https://ja.wikipedia.org/wiki/
2016年4月25日アクセス
http://www.smn.co.jp/takano/uzbek.html
2016年5月3日アクセス
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n197723
2016年5月15日アクセス
『文化遺産としての「ナボイ劇場」建設の“真実”』
シルクロード日誌5
『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』
2015年 嶌信彦
『追憶 ナボイ劇場建設の記録-シルクロードに生まれた日本人伝説-』
NPO日本ウズベキスタン協会編 
『ウズベキスタンの桜』
KTC中央出版 2005年 中山恭子

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