01/03/2018

1752年、ベンジャミン・フランクリンによる有名な凧による雷の実験。雷が電気現象であることを実験によって解明したのがフランクリンの凧揚げ実験である、と教えられてきた私たち。凧が雷雲の中に消えていき…などと、見たような説明も独走している。実は、彼は凧揚げ実験をやっていないのではないかという学者がでて、すでに15年ほど。少し真相に迫ってみた。


生誕から死没まで
ベンジャミン・フランクリン(以下フランクリンと表記)は、一七〇六年、米国ボストンで生まれる。ロウソクと石鹸の製造をしていた父は、二度の結婚で十七人の子供をもうけ、フランクリンはその十五番目であった。
十歳で学校教育を終え、十二歳から『ニュー・イングランド・クーラント』紙の印刷出版をしていた兄の徒弟となる。フランクリンは、記者や編集者として頭角を表すも、兄と喧嘩して縁を切り、一七二三年にフィラデルフィアへ移る。翌年には英国ロンドンに渡り、植字工として働いた。
一七二六年に帰国後、印刷業を再開。その後、『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買収して米国初のタブロイド紙を発行。一七三一年には、フィラデルフィアに米国初の公共図書館を設立。
一七五一年にフィラデルフィア・アカデミー(現在のペンシルベニア大学)を創設した。
一七七六年、フランクリンは、アメリカ独立宣言の起草委員となり、トーマス・ジェファーソンらと共に最初に署名した五人の政治家の一人となった。明るい未来への希望、独創と自由精神が渾然一体となったフランクリン・スピリットは、アメリカン・スピリットに通じている。
一七七五年~一七八三年のアメリカ独立戦争(英国本国とアメリカ東部沿岸英国領の十三の植民地との戦争)中は、欧州諸国との外交交渉に奔走。独立戦争へのフランスの協力・参戦と、他の諸国の中立を成功させた。
フランクリンは奴隷所有者であったが、改心しアメリカ建国の父の中で唯一奴隷制廃止を訴えた。八十四歳で死去。葬儀は国葬であった。
建国の父の一人として、現在でも百ドル紙幣は、フランクリンの肖像である。

科学的業績・発明
勤勉性、探究心の強さはつとに知られ、科学や発明にも興味を示し、独学でさまざまな業績を残した。
ライデン瓶(ガラス瓶の底と側面の内外に〝錫箔を張り〟絶縁体の蓋を通して内側の箔に電極をつけたコンデンサーのこと)の実験を知り、電気に興味を持つ。一七五二年、雷を伴う嵐の中で凧を揚げ、凧糸の末端にワイヤーで接続したライデン瓶により雷雲の帯電を証明するという実験を行った。また、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性があることも確認したという。
避雷針、フランクリン・ストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブ、遠近両用眼鏡、グラスハーモニカなどを発明した。これらの発明に関する特許は取得せず、社会に還元した。
このように、彼自身の努力と知性で立ち上がり、十八世紀で最も賞賛された人物になった。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーのひとつである。

私たちの心の中に生きているフランクリン
フランクリンが揚げた凧…これは世界の科学史の中で、長夜の夢を破った最も有名な実験のひとつだ。何世代にもわたって、世界の学童は、十八世紀アメリカの発明家・政治家であるフランクリンが、いかにして雷が電気であるかを証明するために、命の危険を冒して雷雲の下で凧揚げをしてきたかを教わってきた。
彼の行ってきた実験の公式説明は、一七五二年の夏に、フランクリンは、雲の中の帯電により雷が発生するという自分の理論をテストするために簡単な方法を考案した。彼は、金属スパイクを取り付けた凧を組み立てて、雷雨の間にそれを飛ばした…という物である。
教科書では、電気が凧の糸を伝って端っこ近くに結わかれたキーまで届いた。そして、フランクリンが拳骨をそのキーに近づけたとき、スパークが出た。彼は、これらの実験で、電気の一部を集電したとなっている。
フランクリンの命を懸けた実験は成功し、世界的名声と名誉あるロンドンの王立協会会員資格手にした。一七五三年には、フランクリンは王立協会からコプリー・メダルを受賞した。
科学実験で、これほどまでにアメリカ人芸術家のお気に入りになったものはない。額縁の中の絵になった凧揚げ、陶器に描かれた凧揚げ、教材、通貨、カレンダーに登場したフランクリン。アメリカの通貨に描かれた実験としては唯一である。

疑いの目を向けた文書のひとつ
この凧揚げ実験のストーリーに疑問を持ったのは、ノースカロライナ州の等温技術大学講師で歴史家トム・タッカー(以下タッカー博士と表記)氏がNASA(アメリカ航空宇宙局)に勤務しているときだった。彼は実験を説明したオリジナルの文書を分析した。彼は、フランクリンによる説明に食い違いがあることがわかった。
一七五二年十月十九日付けのペンシルベニア・ガゼッタ紙は、フランクリンが行った、最近の実験についての短い説明記事を載せた。
フランクリンは、雷雨の中で凧を飛ばし、電気を凧の紐で伝導し、紐の端に結わいたキーに帯電させた。この実験で、多くの人が想像した通り、雷が一種の電気あることを証明した。
「この発表の中には、特定される目撃者がいない。実験がどこで行われたかにも触れていない。正確な日付けもない。そして、この実験を実際行ったと、フランクリンはどこにも言っていない、書いてない。フランクリンは、この実験は誰でも行うことができたという点を初期の報告から削除したこと、凧と地上とをつなぐより糸が、電気を伝導するためには湿っている必要があったという点を主張した点にも注目した」と、タッカー博士は指摘している。
タッカー博士は、さらに自著で、こう綴っている。
「この凧(の実験)は、歴史的業績である。もちろん、子供のおもちゃを使った真面目な実験である。命をかけて科学の真実を求めて、自然の力と対峙した説明には、虚勢もある。この想像力の熱意の塊が、文学界の人や科学の歴史家を感化してきた。歴史というのは、執拗に年月、月日、文書にこだわるものだ。しかし、フランクリンは凧揚げの実験を告げておくチャンスを逃したくなかったのだろうか。十八~九世紀の人々は、この出来事で大歓喜した」。
「神は、まるで公平無私な美徳に満足するかのように、彼自身の大きい理論を確認する名誉をフランクリンに与えた」…このタッカー博士の説明で歓喜の様子が分かる。
この凧揚げの実験には、二つ目の側面がある。ひとつは、凧揚げという単純なものであること。そして、二つ目は、結果としてものすごく大きな反響を巻き起こしたにしては、凧揚げの実験報告は中身のない文章で書かれている。文書のひとつは、フランクリン自身が所有する新聞紙上で発表された(前掲の記事)こと。二つ目の文書は、それから十四年後に、フランクリンとのインタビューを元に仲介者が書き表したものだ。この文書には、新しい事実が入っていて、以前の話を御破算にしかねない。
第一報から十四年後に二番煎じの報告を出したのが、フランクリンの弟子にあたるジョセフ・プリーストリーという人。新情報として、凧実験の目撃者の名前が加わった。
目撃者とは、フランクリンの実子のウィリアムであった。科学者ではない。フィラデルフィアの上流階級の家庭では、ならず者として知られた息子である。
「一七五二年六月のいつか…というのが、これまでで最も具体的な時間である。その上、フランクリンはこれまでに実験について正式な報告書も書いていない。凧揚げの唯一の目撃者はフランクリンの息子だった。そして、息子は凧揚げについて一言も発していない。最後に、フランクリンが知っていたように、そのような実験はとても危険で、おそらく命を落としかねないものだった。
ウィリアムは、この凧揚げを見たのか? 知る限りにおいて、彼は、凧揚げについて、一度も書いたことがないし、一言も発言したことはない。〝すべて自分の中にしまっておけ〟と言った父親の子供のことなど知る価値はない」と、タッカー博士は切り捨てている。
そして、フランクリンの友人は、彼の矛盾に気づいて、ニューヨークから手紙を書いた。キャドワダラー・コールデンという人だ。
「私は、新聞で電気凧の説明を読んだ。一般紙からえられるよりも、より良く保存できるように、より信用が付くような方法で、より完全で特定な説明を発表することを希望する」と。
「フランクリン=コールデン書簡の調査では、コールデンからの別の要求には極めて迅速に答えたが、フランクリンが電気凧について答えた証拠はない」と、タッカー博士。


時間の問題と優先権の問題
凧揚げの実験で浮上してきた疑問は、フランクリンの報告のタイミングの問題だった。十四年後に人づてに出された報告では、実験は一七五二年六月となっている。日付けはないが、「月」が出されている。凧実験が最初に報告された新聞記事では、「月」も報告されていない。優先権の主張は大事なことである。
まず、フランクリンの説明には、彼が最初に行った実験であるという主張はない。二番目であるとも言っていない。彼が言ったのは、フィラデルフィアで実験を行ったと言っているだけだ。フランス北部のマリル・ヴィルで実験を行った人がいて、これは一七五二年五月十日となっている。
フランクリンの「六月」の主張は、優先権の主張ではなく、独立性の主張である。彼がフランスからのニュースを聞く前に、日付けを定めたのだろう。(当時はヨーロッパから船が情報を持ってくるのに六週間かかった)それは、「私もやった」という実験であるが、もちろんそれほど輝かしいものではなかった。何故なら、フランクリンは、フランス人が先に凧揚げ実験をしたということを認識したからであった。
タッカー博士は、こう疑問を呈する。
「もしフランクリンの凧実験が六月(それも六月の初旬だろうと見るが)にやったなら、なぜそのような重要な実験の報告を、四ヵ月近くも遅れてする必要があったのか」。
もうひとつのシナリオがある。一七五二年九月二十八日付けの『ペンシルベニア・ガゼッタ紙』で、フランクリンがベルギーで行われた初期の雷実験の記事を出した。記事は、ジェントルマンズ・マガジンの一七五二年七月号に似ており、恐らく、それから引用したと思われる。この雑誌の記事が出た後、フランクリンは自分の夢を追って『ガゼッタ紙』に凧の実験の記事(前掲の記事)を出した可能性はある。

実際に凧を揚げてみた
十八世紀中期に入手できる材料を使った実験の再現で、タッカー博士の疑問は確信に近くなった。
「私は凧の設計に従って、数回、試してみた。とても飛ぶものではない。たとえ凧が揚がったとしても、雷雲から電気を受けるに必要な高度に達する方法が全然なかった。私は、そのとき、〝非常に効率的な現代の凧〟を使って実験を試したが、それも及ばなかった」と。彼はイギリスの新聞、『テレグラフ紙』に話した。タッカー博士は、自分の凧揚げ実験でフランクリンの凧揚げ疑惑を確認した。
それでも、フランクリンの電気凧は十八世紀で最も有名な実験になり、フランクリンをヨーロッパとアメリカで有名にした。理論の正しさがあったからだろう。

凧を揚げてないという根拠の背景を探る
タッカー氏の主張をまとめてみよう。
理論を証明したと言われる実験は、フランクリンの想像の中でのみ起こったことではないか。
もともとフランクリンは冗談のつもりで実験の考えを提案してみたのではないかと想像する。フランクリンが早くから行っていた電気研究についてロンドンの王立協会に手紙を送っていたが、同協会が彼の手紙を無視していたので、イライラし、彼は微妙な冗談として王立協会説得の必殺技としての実験を提案したかもしれないと、みる。それは、彼の話し方の常道だった。彼の言い方によれば、「嵐の中で命をかけて凧揚げをしてみせる!」となる。ところが、この話がフランスに届くと、フランス人は真面目に受け取った。フランクリンは、フランス人のノリに合わせようと決め、本当に実験をしたと主張したとも考えられる。

もうひとつのフェイクニュース
雷雨の中の凧揚げに似た一件が、アメリカ独立戦争であった。
『ボストン・インディペンデント・クロニクル紙』付録(一七八二)
一七八二年に、一通の衝撃的な手紙がボストン・インディペンデント・クロニクル紙の付録に紹介された。それは、インドの兵隊が南北戦争の戦果として何百というアメリカ人の頭皮をイギリス王室と議員に送っているというのだ。頭皮は、若い少年少女の物だけでなく、婦人の頭皮も入っている。
その手紙の内容は、すぐ、大西洋を渡り、ヨーロッパ中に広まり始めた。ヨーロッパの世論に衝撃を与えた。しかし、実のところ、インド兵から頭皮を受け取ったイギリス人はいなかった。『ボストン・インディペンデント・クロニクル紙』付録は、フランクリンが印刷し、彼の友人に配布したフェイクの新聞であった。
フランクリンは、フェイクニュースを作り、ヨーロッパ大陸の意見を反英に変えることによってアメリカ独立戦争に理解を求めることを狙った。
いたずらを通して教化・覚醒を図るフランクリンらは、この時期、世論に重きを置き始めたともいえる。ある意味、実に民主主義的である。もともと、フランクリンは広報術を身に付けていた。アライグマの皮帽子をかぶって、気取ることなく、頭の良いアメリカの田舎者として世界に見せた彼自身のイメージそのものかもしれない。

おわりに
タッカー博士は、自著『運命とボルト』の中で、実験のことを暴露する一方で、タッカー博士はフランクリンの理論が完全に正しいことも強調している。
ロンドンの王立協会のメンバーになり、一七五三年に〝電気に関する興味ある実験と観察のために〟として、王立協会最高の章であるコプリー・メダルを受けたことは、冒頭で述べた。王立協会の女性広報担当も、「新事実が出ても、彼の会員資格を剥奪することはありそうにない。フランクリンには、釈明する機会がないので、誰でも、没後の会員剥奪は疑わしい」と言っている。
タッカー博士の主張には賛否両論がある。歴史家の中には、フランクリンが、科学界でうそつき呼ばわりされるようなことは決してしなかったであろうと主張する人もいる。
凧の実験話は象徴的なステータスを持っているので、フランクリンの伝記作家が、こういう話を認めたくないだろうと、私は思う。
「ただ彼が口先だけで理論を述べているわけではなく、科学に積極的に関わっていることをみせるために、彼が物語を創作したと思う」と、タッカー博士は書いた。
【引用・参考文献】
●『Bolt of Fate』Tom Tucker著
●『フランクリン自伝』鶴見俊輔訳 土曜社、2015
●『テレグラフ紙 』掲載年推定2003年6月1日ごろ
記事名:Shock horro - Ben's kite never flew(by Robert Matthews)
カナダに本社を置く「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」の表紙に、初めて、地球最後の日までの時間を示す地球終末時計が登場したのが、一九四七年。アメリカのハリー・トルーマン大統領が、広島と長崎に原爆の投下を命じた二年後のことだ。
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