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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


世界の十字路 パナマ運河建設に貢献した唯一の日本人 青山士

北村はじめのちょっと立ち読み第二部⑫

28/10/2018

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ドイツの詩人・作家であるヨハン・エッカーマンはその著「ゲーテとの対話(下)」(山下肇訳・岩波文庫)の中で、一八二七年二月二十一日の日記にこう書いている。

“ゲーテは、生きているうちに見ておきたい「大事業」として三つを挙げた。パナマ運河の開通(開通:一九一四年)、ドナウ川とライン川の連結、スエズ運河の開通(開通:一八六九年)。
ゲーテは一七四九年に生まれ、一八三二年に亡くなったため、パナマ運河もスエズ運河も建設が始まったのを知る前にこの世を去った。

そのパナマ運河建設に、たった一人の日本人土木技師が参加している。青山士だ。今回の特集は、パナマ運河建設に携わった唯一の日本人を追ってみた。

 

パナマ運河小史

パナマ地峡に運河を作ることは、すでに十六世紀にメキシコを征服したスペイン人のエルナン・コルテスが考えていた。メキシコのアステカを滅ぼした例の奴である。

スペインの植民地時代を通じて、パナマ地峡は、副王領のペルーで産出した銀を本国に運ぶ「王道」だったが、運河の建設には至らなかった

一九世紀のなかばにアメリカのカリフォルニアでゴールド・ラッシュが起きて、アメリカ大陸の東西を結ぶ交通路の開拓が必要になると、この地峡の重要性が急上昇した。アメリカの民間会社が一八五〇年にパナマ地峡横断鉄道の建設に着手し一八五五年に完成した。

アメリカ大陸横断鉄道がまだ完成していなかった当時、一八六〇年には日米修好通商条約の批准書を携えた幕府の最初の訪米使節団が、パナマ経由でワシントンに行く時に利用した鉄道である。
パナマ地峡の運河建設に最初に着手したのはフランスの民間会社だ。コロンビア政府から運河建設のための権利を獲得し、スエズ運河を建設したフェルディナンド・ド・レセップスの指揮のもとで一八八一年に建設を始めた。しかし、想像以上の難工事、資金の枯渇、マラリアや黄熱病の猛威から、一八八九年に五分の二を掘ったところで運河の建設は中断。

二〇世紀の初頭にそれを引き継いで完成させたのがアメリカ政府だ。一九〇四年、ルーズベルト大統領のとき、フランス・パナマ運河会社から、四千万ドルで資産と利権を買い取った。当時アメリカは、一八九八年のスペインとの戦争でフィリピンとグアムを獲得し、またハワイを併合するなど、アジアや太平洋への進出を始めていた。

スペインとの戦争で、軍艦「オレゴン」をサンフランシスコから南アメリカ大陸南端のホーン岬経由でフロリダまで回航させるのに六十七日も費やしたことは、アメリカに運河建設の必要性を痛感させた。パナマ運河があれば、「オレゴン」が航行した一万九千キロの約三分の一で済んだからである。

そこで 一九〇三年、アメリカは軍事介入をして、コロンビアからのパナマ独立を援助して,十一月六日にパナマ共和国を承認した。新たに独立したパナマと新条約を締結。アメリカは開削権の獲得、運河とその両側八キロの地域を永久に使用、占有、かつ支配する権限を得た。

アメリカ政府は一九〇四年に運河の建設に着工し、第一次世界大戦前夜の一九一四年八月十五日に開通した。その結果、それまで南アメリカの南端ホーン岬を迂回していた航路は著しく短縮された。運河の開通で、アメリカの、アジア、太平洋や南アメリカの太平洋岸地域への進出は飛躍的に容易になった。

パナマ運河の西インド諸島の人を描いた切手。

 

パナマ運河とは。

では、パナマ運河とはどんなものかご紹介しておこう。
パナマ運河とは、パナマ共和国のパナマ地峡を横断して大西洋(カリブ海)と太平洋を結ぶ運河のことだ。カリブ海側のクリストバル港から太平洋側のバルボア港に至る全長約九十キロの水路で、交通・軍事戦略上の要衝である。複線六対の門をもつ閘門(こうもん)式運河。 クリストバルから運河を十一キロ航行して人造湖のガトゥン湖に至る。ガトゥン閘門でガトゥン湖と同じ標高二十六メートルまで船舶は持ち上げられる。ガトゥン湖を四十キロ航行し、ペドロ・ミゲル閘門で船舶は標高十七メートルまで下げられる。さらにミラフローレス閘門で海水面まで下げられて、約十三キロの運河を航行して太平洋岸のバルボアに至る。パナマ運河は閘門式で、二重になったコンクリートの厚壁と水管による水流の動きを利用して、階段を上り下りするように船舶を昇降させ通航する仕組みである。

運河航行に約八~九時間を要し、一日四十隻が限度である。六万五千トン以上の大型タンカーや空母は通行できない。第二次世界大戦後の船舶の大型化によって、〝パナマックス〟という運河サイズに合わない船舶は通過できず、通行船舶数は一九六〇年代末の年間一万五千隻から伸び悩んでいる。

通行収入は五億四五七〇万ドル(一九九八会計年度)で、そのうち一億六九〇万ドルがパナマ政府に支払われた。残りは、すべてアメリカの収入だ。なんというやらずぶったくりだったのだろう。

 

青山士の登場!

青山 士(一八七八年九月二十三日 – 一九六三年三月二十一日)は、現・静岡県磐田市生まれ。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人であり、荒川放水路の建設、信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。

青山が東京帝国大学に進んだのは、師と仰ぐ内村鑑三が札幌農学校の同級生で親友であった廣井勇が主任教授を務めていたことから、内村鑑三に勧められたものである。青山は廣井の講義を聴き、パナマ運河への思いを募らせた。

一九〇三(明治三十六)年、当時二十六歳の青山は、 七月に東京帝国大学土木工学科卒業したばかり。恩師廣井教授からアメリカがパナマ運河建設のために技術者を募集していることを聞き、教授に紹介状を書いてもらい、同年八月十一日に横浜港から、日本郵船の旅順丸で単身渡米。公費ではなく、全て自費の渡航である。アメリカ西海岸のタコマ港から、アメリカに入った。それは、現地パナマでの測量・調査チームを立ちあげていたバー教授との繋がりをたよってだった。

 

バー教授のサポート

青山が携えた廣井勇の紹介状の宛先は、コロンビア大学教授ウィリアム・H・バーだ。バー教授はアメリカ政府のパナマ運河工事委員会(Isthmian Canal Commission)の委員でもあった。下船した青山は、バー教授宛ての手紙を投函した。

青山は、キリスト教徒でもあった。青山は、タコマで数ヵ月、生活費稼ぎのために種々のアルバイトをしたり、英語の勉強をしたり、パナマ運河建設の調査・測量チームとの合流の呼びかけに備えた。

パナマ独立から二ヵ月後の一九〇四年一月に、日本とパナマは、外交関係を樹立した。青山にとっては、意味のある年だったかもしれない。その二ヵ月後の三月、アメリカ政府のパナマ運河工事委員会が発足した。五月に、パナマ運河工事委員会の理事であるバー教授から、青山に、「末端測量員として採用する」旨の連絡があり、青山は六月一日にニューヨークからパナマに向かった。国防省からの採用通知書には、月給七十五ドルと記入されていた。

バルバドスからパナマに運ばれる労働者

青山の採用当初の仕事は下級測量員。ポール持ちとして、二年間熱帯ジャングルに分け入り、マラリアに罹患し命を落としそうになりながらも、チャグレス川周辺で過酷な測量を経験している。

当初は下級測量員として採用された青山だったが、勤勉さと手腕を高く評価されて短期間の内に昇進を続け、測量技師補、測量技師、設計技師を経て最終的にガトゥン閘門の重要部分(側壁など)の設計を担当、ガトゥン工区の副技師長までに昇進した。青山の手際よい測量の腕、有能さはパナマ運河建設委員会からも高く評価されていた。

 

ゴールド組 シルバー組

給与体系では、青山はゴールド組になった。以後七年間アメリカの土木技術者にまじって真面目に働いた。昇進してからの任務の中には、ガトゥン湖畔のガトゥン閘門壁の建設、およびコントロール係留壁の建設が入っていた。

英語で言う「ゴールド・ロール」というのは、給与支払台帳の省略形の通称である。もう一つの給与体系は、「シルバー・ロール」である。

銀組労働者用の給与支払い列車。コロンにて 1910年

この体系の起源は明らかではないが、一九世紀に、パナマ鉄道建設の労働者に支払われた給与体系から来ているものと思われる。つまり、アメリカ人にはゴールドで支払われ、現地の労働者にはシルバー・コインが支払われたのである。

しかし、パナマ運河建設地帯で採用された労働者の数は、パナマ鉄道建設の時の比ではない。待遇も単なる賃金支払い体系以上のものを意味した。ゴールド給与は、アメリカのゴールド・ドルで支払われ、額面でアメリカ国内以上の給与であり、主として、アメリカ本土からきた白人が対象だった。

単に給与が高いだけでなく、セミスキルの白人労働者ですら、パナマでの生活が何不自由なく暮らせるようになっていた。
例えば、家族持ちには、広い家、良質の食事と医療、子弟の学校は優れた、整った設備を有し、娯楽設備も充実し無料で使えた。

その他に、病気休暇、本国の州に戻る時の有給休暇と一時帰国費用の政府持ちは、募集時の重要なインセンティブになった。ゴールド・ロールにも、一部の黒人と非アメリカ人にこのような特典が与えられたが、給与は同一ではなく低く、病気休暇や有給による一時帰国などは認められなかった。

では、どのくらいの労働者が、パナマにいたのか。運河完成時には、四万五千~五万。この人数は、当時のコロン市とパナマ市を合わせた数字に等しいとされる。このなかで、女性と子ども二千五百人を含む北アメリカ人は六千人。そのうち、残りの四万四千が西インド諸島の人々で、シルバー・ロールの人たちだったという。

運河建設労働者の黒人居住区 出典:アメリカ議会図書館

 

評価の高まる 青山だったが…

青山は、ジャングル生活から出て、大西洋側のクリストバル工区に移り、月給百二十五ドルの測量技師補になった。ほどなく、昇級、昇進し、月給百五十ドルへ。

一九一〇年には、大西洋工区設計部の十人の設計技師の一人に昇進し、副技師長になったことは、前に述べたが、外国人技師としては、異例の昇進である。ここで、ガトゥン・ダム、及び閘門の測量調査や洪水吐と閘門の設計・製図をする。青山の月給は百七十五ドルとなり、まじめな仕事ぶりと、実力がさらに買われた。

当時の機械土木工学の先端知識を吸収し、実力が認められた青山は、一九一一年三月から、ガトゥン閘門の湖水側の翼壁、下流の繋船壁を担当した。運河最大のガトゥン閘門や、世界最大(当時)の人口湖がトゥン湖の洪水吐の設計・施工などをまかされる。しかし、運河中枢の設計担当からははずされていた。

二年余りの間、ジャングルの中で、測量や地質調査を行うなど、劣悪な自然環境の中で、七年半も、唯一の日本人土木技師として難工事に尽くした。その年の十一月十一日、青山は、パナマ運河の完成を見ることなく、六十日間の休暇をとって突然帰国した。

いくつかの理由が考えられる。アメリカ西海岸には反日運動が高まり、パナマ運河のように軍事的意味の高い施設で日本人技師が働くことは難しくなったことを、身をもって感じていたのではないか。これには日露戦争後にアメリカにおいて日本への警戒や外国人排斥運動が高まった影響もあり、新聞にはスパイではないかとの疑いも書かれたという。

帰国後送った辞表は、一九一二年一月九日に受理された。青山が設計・施工を手掛けたがトゥン閘門の中央部にある繋船壁やガトゥンダムの洪水吐(こうずいばき)は、今なお「現役」である。

パナマ運河開通で通過する初の船 1914年

 

パナマで培った実力を国内で発揮

パナマでの作業中に、青山は、工事の進捗状況や周辺の面白い話題をカメラで記録した。パナマでの経験は、日本に帰国するとすぐに力を発揮した。帰国した彼は、パナマの経験を引っさげて、一九一二(大正一)年から荒川放水路開削工事の陣頭指揮を取り、総責任者となった。一九二四年には何年も洪水を繰り返してきた荒川に岩淵水門を完成させ、洪水に苦しめられて来た首都東京の下町を救い、磨かれた腕を遺憾なく発揮した。

執拗な業者の賄賂をはねつけ、川幅五〇〇メートルの大工事を完成させた。

青山士が設計・施工に尽力した岩淵水門は、現場の土質が軟弱であったことから、放水路工事の中で最も難工事の一つだった。その岩淵水門の基礎は、川底よりさらに二十メートルの深さに鉄筋コンクリートの枠を六個埋めて固めてある。

当時「そこまで頑丈にする必要があるのか」という声もあった。青山は譲らなかった。結果的に同水門は、一九二三年 の関東大震災にも被害を受けず完成した。

その後、同水門は、新水門の改築によりその役割を終えたが、文化的価値が認められ、旧岩淵水門(赤水門)として存置されている。

河口に今も残る「完成記念石碑」に彼が選んだ文字には、関係者の努力を讃える言葉のみで、彼の名前はない。

荒川放水路完成後、青山は、一九二七(昭和二)年六月に陥没した大河津(おおこうづ)分水路の自在堰の補修工事に新潟土木出張所長(現国土交通省北陸地方整備局長)として携わり、分水路の復旧に尽力した(一九二七(昭和二)年~ 一九三四(昭和九)年)。大河津分水路の竣工記念碑には「人類ノ為メ國ノ為メ」と碑文を刻んでいる。

 

最後に

青山が一九三六年に、土木学会の「土木技術者相互規約調査委員会」の委員長になった時に、時の土木学会に提出した「土木技術者の信条および実践要項」草案がある。青山士に敬意を表しつつ、その中から二つをご紹介したい。

一、土木技術者は自己の専門的知識および経験をもって国家的ならびに公共的諸問題に対して積極的に社会に奉仕しなければならない。

一、土木技術者はその関係する事業の性質上、特に公正で清廉をとおとび、かりそめにも社会疑惑を招くような行為をしてはならない。

この文言は、恩師・東京大学廣井勇教授の「土木事業は民衆のための福祉である」という薫陶と全く軌を一にしており、もう一人の恩師、内村鑑三の精神とも響き合う。師弟を貫流する精神とも言える。。

メモ

青山の帰国から三年後の一九一四年八月。すでに第一次世界大戦が始まり、欧州航路に就航していた日本郵船の「徳島丸」は、ロンドンからインド経由で日本へ戻れなくなった。このため、ロンドンから西へ進み、この年の八月十五日に開通したばかりのパナマ運河を、日本船として初めて通過して、日本に戻った。「徳島丸」は、日本郵船の世界一周航路の最初の船になった。
第一次世界大戦後から,運河地帯の主権がどちらかにあるかをめぐってパナマ側の不満が高まっていたが、アメリカは、一九九九年 十二月三十一日に支配権をパナマに返還しアメリカ軍基地もなくなった。

青山が命がけで働いたパナマ運河。通航料ベースで言えば、日本は、いま、世界最大の利用国となっている。(おわり)

 

主たる参考・引用文献:
技師・青山士の生涯(高崎哲郎著 講談社)
https://thesilverpeopleheritage.wordpress.com/2008/05/01/the-silver-and-gold-roll-on-the-panama-canal-zone/ (2018年9月12日アクセス)
https://www.jsce.or.jp/library/jsce_history/70/jsce70-00-03.pdf (2018年月20日アクセス)

参考文献:
出典:小学館・日本大百科全書(ニッポニカ)
出典:株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
ブリタニカ国際大百科事典
朝日新聞出版発行知恵蔵
小学館デジタル大辞泉
世界大百科事典第2版
http://inyourneighborhood.blogspot.com/2008/03/few-facts-about-aklira-aoyama-japanese.html (2018年9月11日アクセス)
https://en.wikipedia.org/wiki/Panama_Canal_Zone (2018年9月12日アクセス)

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