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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


北村はじめのちょっと立ち読み第二部⑮

明治百五十年 戊辰戦争の陰で動いた横浜

21/03/2019

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去年は、明治維新から百五十年。慶応四年(一八六八)一月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗北。その後各地は戊辰戦争の戦雲に包まれ、日本は戦乱の一年を迎えた。
三月、東海道を進んできた薩長の兵士が横浜にあらわれた。しかし、外国軍が駐屯する開港場では戦闘は発生せず、四月、横浜は新政府軍に平和裡に接収された。その後、戦火は奥羽に広がる。諸藩は横浜港でも武器を調達し、戦争で負傷した新政府軍の兵士は横浜の病院に送られた。横浜は戦場にはならなかったが、戊辰戦争と深い関係があった。

鳥羽・伏見の戦い

慶応四年(一八六八)一月三日、「戊辰戦争」の最初の戦い、鳥羽・伏見の戦いが発生。新政府軍の兵力が四千~五千人、旧幕府軍の兵力は約一万五千人だったという。
徳川慶喜(よしのぶ)は病と称して実際には参戦せず、大坂城に留まった。旧幕府軍は敗北した。慶喜が大坂城を脱出して、海路江戸に戻ったことはよく知られている。幕府軍の敗戦を大坂城で聞いた将軍・慶喜は、慶応四年(一八六八)一月六日の夜…わずかな側近だけを従えて大坂城を脱出し、幕府の軍艦・開陽丸で江戸に帰ってしまった。その側近とは、京都守護職の会津藩主・松平容保(かたもり)と京都所司代の桑名藩主・松平定敬(さだあき)。
この慶喜の行動は、「大将の敵前逃亡」として非難の対象となる。この時の慶喜は、戦う意志が無かった、決断力が無かった、逃げ腰だった…からだろうか。
実は、彼が大坂を捨て、江戸に帰って間もなく、フランス公使・ロッシュが彼のもとを訪れ、「フランスが全面協力するから、薩摩を倒せ」と言ったのを、慶喜はキッパリと断っている。
慶喜が一番恐れていたのは、この内紛に乗じて、外国勢力が日本を支配してしまう事…「それだけは、絶対に避けなければならない」と考えていたはず、ととりたい。
鳥羽伏見の戦い勃発の前後、大坂城内にいた慶喜の思いはただ一つ。「日本人同士が戦う事を避けたい…」
慶喜に戦う意志がまったくない事を、敵味方に表明したのは、計画的行動である事を示していると考えたい。だからこそ、江戸城を出て上野寛永寺に移った時も、故郷・水戸に戻った時も、静岡に移された時も、彼は、実に恭順だった。
弱腰と言われた敵前逃亡は、混乱を避け、外国につけ入れられない前に、すみやかに日本を一つにまとめるための智慧だったのではなかったか?

「日本一安全な場所」横浜

日米修好通商条約に基づく開港五港として、函館・横浜・神戸・長崎・新潟が世界へ開かれた。
その横浜には、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の敗残兵が上陸していた。
さて、甲斐国東八代郡東油川村(現山梨県笛吹市石和町)から横浜の開港場に進出した売込商に篠原忠右衛門(甲州屋)がいる。一八五九年、横浜開港で、養蚕業は国際的な輸出産業となった。絹糸を貿易品としていち早く海外に売りこみ、甲州商人たちの先頭に立ったのが篠原忠右衛門。
篠原は、一八〇九年東油川村(今の石和町)に生まれた。一八五九年、横浜本町に甲州屋を開業、六月に中国人ハショウの手をへてイギリス人バーバーに絹糸を売りこんだ。日本最初の生糸貿易であったといわれる。
この篠原が故郷に送った手紙が大量に残っている。生糸貿易史として価値のある『甲州屋文書』だが、明治元年の横浜の情勢を知る数少ない史料でもある。
一月十八日付の忠右衛門の手紙には、鳥羽・伏見の戦いの情報が記されるとともに、横浜に「追々怪我人舟にて送り来り、十四日には大怪我人三拾六人、当浜御役所へ上り薬用中にこれあり」と、戦いの負傷兵が上陸し、横浜の役所で治療を受けていることが書き記される。また、死去した兵士の処置で横浜が「大混雑」している様子なども描かれており、横浜の人々は傷ついた兵士の姿から、戦争を身近かに感じ取ったことだろう。
しかしながら、忠右衛門は「横浜は当節にては日本一安全の場所に候、安心致さるべく候」とも故郷に書き送っている(「横浜篠原忠右衛門より息正次郎宛書簡」山梨県立博物館蔵、写真左)。同じ見方は、上州出身の商人吉村屋幸兵衛も「(横浜は)日本第一の大(太)平の地」(『吉村屋幸兵衛関係書簡』閏四月二十九日付)と記していることから、開港場・横浜は安全地帯だったと言える。
横浜の山手には文久三年(一八六三)以降、イギリス・フランスの軍隊が駐屯しており、戊辰戦争期の横浜で戦闘が起きることはなかった。諸外国は横浜における貿易を保護することになによりも重点を置き、日本が戦乱の渦に飲み込まれることを望まなかった。横浜が「日本一安全」であるという商人の感想は、横浜を一層際立たせていた。

篠原忠右衛門の手紙(慶応4年(1868)1月18日付 山梨県立博物館蔵)

武器売買の先達①トーマス・グラバーのケース

ここで、皆さんご存知のトーマス・ブレーク・グラバーの話をしておこう。彼は一八三八年にスコットランドに生まれた。十九歳で上海にやってきて貿易ビジネス術を身につけ、長崎が開港した安政六年(一八五九)に来日し、そのニ年後、グラバー商会を設立した商人だ。
グラバーが長崎にやってきたのは、安政の大獄(井伊直弼が尊攘派に対しておこなった弾圧事件、安政五年に起こる)の翌年であり、尊王攘夷が外国人排斥を訴えている時代背景での来日だった。
今も長崎の地に邸宅跡を「グラバー園」としてその名を残すトーマス・グラバー。有名なオペラ「お蝶夫人」。つまり、お蝶さんの愛人はグラバーをモデルにしている。グラバーは「談川ツル」という日本人女性を妻とし、長女・ハナ、長男・倉場富三郎の二子をもうけている。明治四十四年に東京で死去。
長崎には出島が置かれ、長い間、幕府はオランダ、中国とのみ貿易を行っていたが、一八五四年(安政一)の日米和親条約以来、外国列強との不平等条約を次々に締結した。当時、長崎に居住していた百五十人の外国人の半数がイギリス人だった。
長崎に来たグラバーは、海運と武器弾薬の販売を行うことを目的とした貿易商社「グラバー商会」を開設。東アジア最大の貿易商社、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店となり、船舶や武器の調達経路を握り、諸藩へ販売を行った。
マセソン商会の強力な資金力を背景に、幕末期にグラバー商会が売った船は二十隻。長崎に輸入されたすべての船の三割を占めた。幕府は尊皇攘夷の方針の下、フランスと手を結び軍隊の近代化を進めた関係で、グラバー商会は、徳川家とは距離を置き、薩摩・長州・土佐など討幕派を支援した。坂本龍馬の亀山社中とも取引があった。西南の雄藩が争って外国武器を買い始めたので、グラバー商会はたちまち発展した。
グラバーは、本国の英国と取引相手が対立した際も武器の販売は止めようとはせず、それでも罪を着ることなく、巧みに、したたかに激動期を生き抜いた。あまり知られていないが、明治以降は高島炭鉱の経営にあたった。蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。造船の街、長崎の基礎を作った。
武器の販売だけでなく、自らの危険を顧みず、伊藤博文(当時二十代前半)、井上馨(当時二十代後半)らの討幕派をイギリスに留学させた。

武器売買②仙台藩のケース

しかし、日本一戊辰戦争前夜、日本一安全と言われる横浜港でも武器や軍艦の輸入が行われていた。実際、一八六七年の横浜港での小銃の輸入量は十万二千三百三十三挺で、六万五千三百六十七挺の長崎をはるかに上回る(石塚裕道『明治維新と横浜居留地』)。
江戸・横浜で武器・艦船の輸入に動いていたのは、仙台藩。仙台藩の公義使(江戸留守居役)で、大童信太夫(おおわらしんだゆう)という人物がいる。
仙台藩江戸留守居役(江戸に在駐する藩の外交官)の大童 信太夫(一八三二年=天保三年生まれ)は、陸奥仙台藩士。彼は、安政六年、二十八歳でこの職に就き、広く開国派と交流し、福沢諭吉とも知りあう。戊辰戦争後佐幕派として追及されるが、福沢諭吉の奔走で許された。維新後は、福澤諭吉の斡旋で大蔵、文部、内務の各省や警視庁などにつとめ、宮城県内で郡長を歴任。明治三十三年、六十九歳で死去。宮城県「仙台文庫」創設者の一人。
仙台藩自体にも積極的に洋学を学び取ろうとする開国派がいた。残念ながら、仙台藩の開国派は尊皇攘夷派に実権を握られた後、官軍に敗れ去った。大童信太夫も処刑されそうになったが、福沢諭吉の尽力で助けられた。
彼は、慶応三年(一八六七)七月十一日、「ライフル銃御買上の儀」について藩上層部に上申した。八月十四日、大童はライフル銃の購入資金を受領し、江戸の藩邸を出発して横浜に向かい、「五時九分前」に神奈川宿の羽沢屋に到着した。翌日大童はアメリカ商人のユージン・ヴァン=リード(別掲)と会見して「小銃の談判」を行う。
十六日にはヴァン=リードの店で「雷銃(ライフル銃)」を点検、十七日に「ウヱンリート方より雷銃五百廿挺受取」ったのである。大童はこの取引について神奈川奉行水野良之にも報告している(「慶応三丁卯日程記上」、個人蔵(大童家文書))。ヴァン=リードは幕末の横浜にさまざまな顔をのぞかせているが、仙台藩の銃器購入にも関与していたのである。
さらに、仙台藩は横浜で外国艦船を購入する動きを見せる。慶応三年十一月三十日、仙台藩はアメリカの蒸気船の購入のため、公義使・入生田(いりゅうだ)虎之助たちを横浜に派遣する。この船は軍艦奉行勝海舟の「世話」によってオランダ商人が取り扱っている船であった。翌慶応四年一月五日、出入司松倉良輔が「蒸気船御買上」のために「出張、十二万弗(ドル)にて御買上」となった(「慶応三丁卯都下勤番記」「慶応四戊辰都下公私志」、個人蔵(入生田家文書))。出張先は横浜であろう。
横浜が武器・艦船輸入港として東北地方の諸藩と外国商人の取引の現場となり、戊辰戦争に関わっていたことは、生糸貿易だけではないこの時期の横浜港の性格を考えるうえで重要である。

武器売買③ヴァン=リードのこと

さて、前出のヴァン=リードのことに、少し触れたい。
香港でオーガスティン・ハード商会に職を得たヴァン=リードは、その後日本にきた。安政六年六月五日(一八五九年七月四日)、発効した日米修好通商条約で神奈川が公式にアメリカに開港された。横浜を見下ろす神奈川の丘の上にあるアメリカ領事館・本覚寺で正式な領事館開館式を行った時、ヴァン=リードは領事館書記官の職を得ていたように見える。
アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヵ国が軍艦を派遣した下関戦争でも、アメリカはまだ南北戦争の最中で日本には小型帆走軍艦一隻しかなかったから、当時のプルーイン公使はオーガスティン・ハード商会から蒸気商船・ターキャン号を借り入れ、これに武装を施し帆走軍艦の海兵隊を乗組ませたが、このターキャン号の賃貸契約にもヴァン=リードが関わった。オーガスティン・ハード商会は、この四年ほど前に英仏連合軍が支那(おおむね現在の中華人民共和国にあたる地域)と戦い北京を占領した時も、支那で戦略物資の調達・輸送や船舶の軍事傭船契約で大きなビジネスをしたようで、これを知るアメリカ領事館元書記のヴァン=リードがいち早くその必要性に気づき、動いたのだろう。
そして自身でもこの蒸気船に乗って下関に行き、戦記を書いた。更に下関戦争終結後には、幕府が大江丸と命名することになるこのターキャン号を購入したが、この商取引にもヴァン=リードが関わり、「諸費用差し引き後、商会には六万ドルの入金になる」、とオーガスティン・ハード商会へ報告している(「Japan through American Eyes」の注)。

横浜軍陣病院

戊辰戦争の時期、横浜の野毛に「横浜軍陣病院」という病院があり、戦争の負傷者の治療にあたっていた。(中西淳朗「「横浜軍陣病院」の歴史地理学的再検討」など)。
「奥羽出張病院日記(陸別町 関寛斎資料館蔵)」は、奥羽出張病院頭取に任ぜられた徳島藩の医師・関寛斎が記した「野戦病院」の日記である。日記は近年全文の解読本(翻刻)が刊行され、ようやくその全容を知りうるようになった。

「奥羽出張病院日記一」慶応4年(1868)陸別町 関寛斎資料館蔵


慶応四年六月九日、前日に新政府から東北地方への出張を命じられた関寛斎は、外科の治療道具が江戸で調達できなかったため、横浜に使いを立てて町なかに道具がないか探す。「万一横浜市中にて払底」の場合は「横浜病院備え置きの機械」を譲ってもらうことも考えていた関だが、十一日朝、使いが江戸に戻り、「市中ならびに病院とも外科大道具払底」との情報をもたらした。

 

関寛斎


横浜の病院で治療にあたったイギリス人医師ウィリアム・ウィリスは、六月二日西暦七月二十一日)付け報告で、「緊急治療を必要とする負傷兵が(横浜に)送られて来た」ことを記し、その総数百七十六名のうち百二十六名が「江戸の北で会津討伐のために派遣されて傷を負った人々」であることを報じている(大山瑞代訳『幕末維新を駆け抜けた英国人医師』)。すでに戦火は北関東・東北にひろがり、戦争の負傷者は横浜に運び込まれた。関に外科道具を渡す余裕は当時の横浜にはなかったのである。
十四日、品川から出港した寛斎は早くも十五日に平潟(現茨城県北茨城市)に到着、平潟の寺院に病院を開き、負傷兵の治療にあたる。日記の二十一日条には「兼ねて参謀衆より手負いの分、日間取り御見込にては横浜病院へ差し送り」にして、平潟の病院では「軽便に」処置するようにとの指示が記される。同様の記載は二十五日にも見え、「今日三国丸出船に付き、手負人急卒全快覚束なき分は横浜へ差し送」るようにと参謀より命令があった。つまり、平潟の野戦病院では負傷者に応急的な処置を行い、治療に日数や手間がかかり、全快の見込みのない重傷者は船で横浜病院に送っていたのである。横浜軍陣病院は「中央病院」の役を果たしていたのだ。

 

おわり ヴァン=リードの逸話

朝廷が幕府へ派遣した勅使護衛として薩摩藩の島津久光が江戸に来て、文久二(一八六二)年八月その帰り道の生麦で、行列を乱したとイギリス人・リチャードソンを殺害したいわゆる「生麦事件」を起こしたが、その直前に東海道でこの久光の行列に行き逢ったヴァン=リードは、馬から下りて道脇で静かに行列をやり過ごし、久光の駕籠には帽子を取って敬礼し、難なく江戸に向かった(「後は昔の記」林董述、時事新報社、明治四十三年十二月)。機を見るに敏な男でもあるようだ。(おわり)

参考文献:
開港のひろば 141、142 横浜開港資料館館報
明治維新150年を考える ─ 「本と新聞の大学」講義録 4 (集英社新書)
一色 清 (著)、 姜尚中 (著)
現代思想 2018年6月号 総特集◎明治維新の光と影
(現代思想6月臨時増刊号)
維新の影 ─ 近代日本一五〇年、思索の旅 (新書企画室単行本)
単行本 – 2018/1/26 姜 尚中著
石井孝編『横浜売込商甲州屋文書』有隣堂、1984年/横浜開港資料館編『吉村屋幸』
兵衛関係書簡 復刻版』横浜開港資料館、1989年/石塚裕道『明治維新と横浜居留地』吉川弘文館、2011年/仙台市史編さん委員会編『仙台市史 通史編五 近世三』仙台市、2004年/關内幸介解読・陸別町関寛翁顕彰会編『關寛齋 奥羽出張病院日記』陸別町教育委員会、2016年/中西淳朗「「横浜軍陣病院」の歴史地理学的再検討」『神奈川医学会雑誌』22巻1号、1995年/大山瑞代訳・吉良芳恵解説『幕末維新を駆け抜けた英国人医師-甦るウィリアム・ウィリス文書』創泉堂出版、2003年

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