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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


北村はじめのちょっと立ち読み第二部⑰西アフリカの「イスラム文化」の古文書を守った人たち

21/09/2019

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西アフリカ・マリ共和国中部のトンブクトゥは、古くから金や岩塩、奴隷などの交易繁栄で、イスラム文化が花開き、十六世紀には百以上のコーラン学校やモスクが建てられた「いにしえの学術の都」である。各家庭でひそかに保存されてきた往時の手彩色の古文書の多くが図書館に収められて数年後、アルカイダ系の過激な武装勢力がマリ北部を制圧した。イスラム文化としての民衆の珠玉の遺産の古文書が、はるか遠いアフリカ西部で、どのようにして守られたか、これが今回の特集だ。

伝説の黄金都市

西アフリカ・現マリ共和国の首都バマコから約千キロ北、サハラ砂漠の端にある伝説の砂漠都市トンブクトゥはかつて、イスラム世界の「知の都」だった。
「三百三十三聖人の町」「砂漠の真珠」などの異名を持つ町の名は、「辺境の地」を指す代名詞でもある。それらの多くは、到達することの困難さに由来するものであり、「ここからトンブクトゥまで」という言い回しも生まれた。
トンブクトゥは、遊牧民トゥアレグ族の特定の季節だけの野営地が起源であるが、その後、金や象牙、奴隷、塩などの交易品が行き来するサハラ砂漠の通商路において重要な中継地として都市へ成長し、この地に興隆したガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国を通じて莫大な富が集まる重要都市となった。
トンブクトゥの繁栄は、一五〇〇年初頭に頂点を迎え、その途方もない富の物語や伝説が伝えられたことを動機として、多くのヨーロッパ人がアフリカへの探検に向かうこととなった。十六世紀の旅行家・地理学者であるレオ・アフリカヌスが、一五一二年に繁栄の絶頂にあったソンガイ帝国を訪れて次のような記述を残している。「トンブトの富める王は、金で出来た杯や笏(しゃく)を数多く持ち、その重量は千三百ポンドにもなる。(中略)また常時三千人の騎手を揃え、(中略)さらに多くの医者や裁判官、司祭、学者がおり、彼らは王の財によって手厚く養われている。」
しかし、ポルトガルや他のヨーロッパ諸国から来た探険家や奴隷商人が海路から西アフリカに上陸し、サハラ砂漠を経由しない通商路を開拓したため、トンブクトゥに陰りが出始めた。

「知の中心地」から「歴史遺産の地」へ

十三世紀から十六世紀までサハラ砂漠の南縁に位置した、トンブクトゥは世界の知の創造の場所だった。その街の歴史あるジンガリベリ・モスクやシディ・ヤヒア・モスクだけでなく、コーランを学んだ二万五千人もの学生を擁したサンコーレ大学をも含むトンブクトゥの歴史地区は、一九八八年、ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。伝説の都市トンブクトゥが騒乱に巻き込まれたのは、一回だけではない。
トンブクトゥがその名を世界にとどろかせたのは一三二四年、マリ帝国の皇帝マンサ・ムーサ(一三〇七年~一三三二年)がメッカを巡礼したときだ。皇帝はエジプト・カイロ経由でメッカに向かったが、その際、人夫六万人にそれぞれ三キロずつの黄金を運ばせていた。皇帝は、その黄金は全てトンブクトゥで入手したと語ったという。以来、トンブクトゥはアフリカの謎の黄金都市として地図に載るようになったという。
巡礼から帰ったムーサ皇帝はトンブクトゥの三大モスクの一つ、ジンガリベリ・モスクを建造した。ジンガリベリ・モスクは七百年が過ぎた今も現存している。
西アフリカ全域を最大版図とするマリ帝国(一二三〇年~一六〇〇年)の至宝だったトンブクトゥはその後、トゥアレグ人の支配を経て、歴史上最大のイスラム帝国の1つ、ソンガイ帝国の領土に組み込まれた。
ヨーロッパがまだその道を模索している暗黒時代の間、トンブクトゥは知的啓蒙の狼煙を上げ、そして恐らく地球上で最も蔵書愛好家の都市であった。科学者、技術者、詩人、そして哲学者が、そこに集まってきて、考えを交換し、討論し、それをアラビア語や各種アフリカ言語で数十万の原稿用紙に書き留めていた。

隆盛から衰退へ

トンブクトゥで起こった中世の学問の爆発。十六世紀までに、アラビア半島ほどの遠方からもはせ参じて、十万強の人口の四分の一が学生であった。一つの諺がある。「塩は北から、金は南から、銀は白人の国からくる。しかし、神の言葉と知恵という宝物は、トンブクトゥにしかみつけられない」。 聖典だけではなく、これらの宝物は、詩、代数学、物理学、医学、法律学、魔法、数学、歴史、植物学、地理や天文学の著作が含まれている。倫理学者は、一夫多妻、高利貸し、もめごと処理、喫煙に関する道徳問題を討論した。トンブクトゥの古文書には、五百年におよぶ人間の喜びがあふれている。
だが一五九一年、攻め入ってきたモロッコの軍勢が略奪をはたらき、図書館に火を放ち、学者たちを殺した。以降、知的活動は衰退して行った。


 

世界の最も貴重な古文書 保存に掛けた男

隆盛を誇った知的活動。あらゆる学問を網羅したサハラ以南のアフリカの黄金時代は、数十万点の手書き史料にその足跡を残している。
一九八〇年代に、政府機関の図書館に働く一人の若き冒険家であり収集家のアブデル・カデル・ハイダラは、世に埋もれた何十万という古代イスラムの、世俗の古文書を保存しようと探し求めてサハラ砂漠を横切って、ニジェール川に沿ってマリ全土を旅した。それは、古文書を、しばしば数世紀をかけて守り続けてきた人々から、売ってもらえるよう、カタログに載せ、広く公示できるように説得する難しい仕事だった。
ハイダラがトンブクトゥに秘宝があると知ったのは、幼いころ。父親のマンマ・ハイダラが自宅の倉庫に出入りしては、本をもって現れ、寄宿させていた学生に写本を見せた。父親の家には、先祖が集めたたくさんの古文書があった。
ところが、一八九七年のフランス占領後、トンブクトゥの町の愛書家たちは、収集した古文書をなかなか見せてくれなくなった。商品や書物が自由に往来した時代は終わった。トンブクトゥを訪れたフランス人学者や兵士は古文書を盗み出して母国に持ち帰った。それが、フランス国立図書館を初め、大学などでコレクションとして展示されたからだ。
マリに「隠ぺい」という伝統が生まれた。マリでは、いたるところで住民がこれらの値千金の古文書を隠すようになった。革のカバンに詰めて、家の中や、庭に掘った穴に埋めたり、使われなくなっだ砂漠の洞窟に隠したり、自宅の書庫の扉に泥を塗ってふさいだりした者もいた。
トンブクトゥの知的継承は、世界で最も豊かで、最も知られていない秘密中の秘密であった。

アブデル・カデル・ハイダラ   という人

アブデル・カデル・ハイダラ。独特の素晴らしさを持つ手書き古文書収集家の相続人であり、庇護者である。また、トンブクトゥのイスラム研究を集めはじめたイスラム高等学習・研究のアーメド・ババ研究所に代わって、一九八〇年代に手書き古文書の収集を始めた、優しい学者肌の人である。二十年以上にもわたって、ハイダラと古物専門研究家は、遠隔地の村々を探し回っては、古文書を買いあげた。
ハイダラの書物を見極める目は時とともに磨かれ、交渉方法にも磨きがかかった。
ハイダラは、呼び止められたある家で、金箔が入った手書きの本を見つけた。
十七世紀に筆写されたコーランだった。
「おいくらをご希望ですか?」
「払いたいだけでいい」
「値段を付けてください」
「では、5千CFAフランで」
「これは価値あるものです」
「じゃあ、一万だ」
「だめです」
「二万で…」
ハイダラは、十万CFAフランを払った。
翌日、ハイダラの宿舎をノックする音がした。前日の男が、ラクダ皮の大袋を担いで、中に入って来た。袋を開けて。写本の山を、床に作った。さらに外に出ると、地域一帯の男が、大袋を背負って長い列を作って待っていた。どの袋も、写本で一杯だった。売り手の言い値で千冊近くの写本を全部買った。
アフマド・ババ研究所の所長は驚いた。ハイダラは、同研究所に勤め出して一年で、前任の調査員八人が十年かけて集めたのに匹敵する量を手に入れた。

アルカイダによるトンプクトゥ制圧

二〇一二年に、北西アフリカからやってきた何千というアルカイダ武装勢力が、マリ共和国のほとんどを制圧した。トンブクトゥも例外ではなかった。二十一世紀の聖戦士を名乗る勢力。イスラーム・マグリブ諸国のアル=カイダ機構(AQIM=アルジェリアに拠点を置くイスラム主義の軍事組織のこと)は、イスラムの不寛容さをもつ組織だ。二〇一二年三月に、母国の独立を求めて戦っているトゥアレグ族反乱軍と結合し、崩壊したリビアのカダフィ政権の武器で武装し、「イスラム教の豊かさを産む孵化器」といわれたトンブクトゥを急襲した。
トンプクトゥ制圧後、テロ組織は、テレビとラジオで、「古文書には危害を加えない」と話した。ハイダラはもちろん、友人たちはその言葉を真に受けず、単なる口約束にすぎないと思っていた。
イスラム武装勢力がトンブクトゥを制圧した時、ハイダラは、「古文書が置かれているのは、戦闘地域だ。武装勢力が政治的な意図で、古文書に目を付けるかもしれない」と危機感をもった。聖戦士(ジハド)の反知性への根強さからみれば、彼の危機感は当然であった。

古文書疎開作戦へGO

武装勢力によるトンブクトゥの支配強化で、ハイダラは、37万七千巻全部をトンブクトゥからマリ南部の安全な場所にひそかに運びこむ危険を伴う作戦に踏み切った。
トンブクトゥにある四十五の図書館には、約三十七万七千冊の本が保管されている。古文書の多くが、理性的な論考と知的探求の典型とも言うべきものである。それは、イスラム武装勢力にとっては許せないはずだった。
ハイダラは、幼いころから自分を手伝ってくれている甥のモハメド・トゥーレを仲間に引き入れた。そのモハメドが、叔父と一緒に信頼できる人たちに接触を始めた。古文書保存の専門家、トンブクトゥの観光ガイド、ハイダラの甥や従兄弟たちだ。こうして集まった人達が、市内で目立たないように、金属製の大型の箱を買い集めた。一か月後、箱の数は二千五百個となった。
古文書の疎開にかかる膨大な費用。ハイダラは、フォード財団から受けたイギリス・オックスフォード大学の短期留学の費用としておりた助成金の1万二千ドルを当てた。
二〇一二年四月下旬のある日の午後七時に、ハイダラとモハメドを含む有志が、マンマ・ハイダラ記念図書館に集合。古文書を大箱に入れて運びだす危険な作業を実行に移すためだった。図書館での作業を怪しまれないため、日没から一時間後の午後七時にした。九時以降は、アルカイダの「夜間外出禁止令」があるので、作業時間は二時間しかない。暗闇の中で、古文書を大箱にぎっしり詰め込み、箱に施錠した。次の日、大箱を毛布にくるみ、ラバの荷馬車に乗せて、安全な保管場所へ。作業する有志は二十名。同じ作業が、トンブクトゥ中の図書館で毎晩行われた。ハイダラは家族にも内緒だった。
ハイダラが十五年働いたアフマド・ババ研究所の新本部を、トンブクトゥ制圧後すぐ、アルカイダの武装勢力が占拠していた。ここには、ハイダラが自分で集めたおよそ一万四千冊の古文書が隠されている。
二週間夜通しの作業で、旧本部にあった二万四千冊の古文書すべてを、隠し場所に移し終え、三十七万七千冊の九十五%を市内の隠し場所に移動させた。気になるのは、新本部の一万四千冊である。
ハイダラの片腕だったモハメドが、古文書の運びだしで泥棒容疑で、アルカイダに逮捕された。幸いにも、イスラム法廷からかろうじて無罪の判決を勝ち取ったが、マリ北部の経済が崩壊して、ハイダラは残された時間の少ないことを身に沁みて感じた。
ハイダラは、運び役と運転手、トラック、四駆、タクシーなど使用車両、必要な場合の賄賂、ガソリン代、修理代など運搬総額を七十万ドルと踏んだ。国際的財団などの支援で、なんとか賄えるくらいの資金があつまった。運び役も最終的に数百人確保出来た。運び役を固定させないようにして、数多くを集めた。殆どが十代の若者で、トンプクトゥの図書館関係者の家族や親戚筋だった。
古文書の輸送中に、モハメドは、一週間にわたって辛酸をなめた。軍の駐屯地で拘束されたときには、ハイダラが、モハメドの所に行き、独房の中でパンとお茶で一緒に食事をした。看守に賄賂を贈り、モハメドを釈放させた。
二〇一二年七月、イスラム勢力はトンプクトゥを完全に支配下においた。厳格なイスラム法施行で、ハイダラは、第一夫人と残りの子どもを首都バマコに呼びよせた。
古文書の救出作戦がピークを迎えたころ、甥のモハメドがまたトンプクトゥで捕まった。危機管理委員会が、モハメドの身元保証をして四十八時間後にトンプクトゥ総督はモハメドを釈放し、荷物と共にバマコ行きを許可した。

一難去ってまた一難

南部にある首都のバマコまで武装勢力が占拠すれば、ハイダラ自身も数十万冊の古文書も安全が危うくなる。
イスラム武装勢力が、首都バマコを陥落させマリにイスラム国家を樹立する狙いは、フランス軍の介入で潰れた。しかし、トンプクトゥ市内の隠し場所には、大箱八百個近く、およそ十万冊が滞っている。ハイダラは、小舟を使った水路の使用を、ためらっていた。流れも速く小舟が転覆したら、元も子もない。だが、ハイダラは作戦を切り替えた。ラバを使って、ニジェール河畔を目指した。
二〇一三年一月二十五日、イスラム武装勢力の十五人が、アフマド・ババ研究所の新本部に向かった。研究所に置き去りにされた古文書が目当てだった。武装勢力は、四二〇二冊の古文書を集めて中庭に運んだ。数世紀まで遡る物理学、化学の本、数学、天文の本が入っている。武装勢力は古文書にガソリンをかけ、マッチの火を投げ入れた。何世紀も守られてきた貴重な古文書が、一瞬で灰になった。トンブクトゥを撤退する武装勢力の最後っ屁だった。
武装勢力が古文書を狙っているに違いないという、ハイダラの確信が証明された。
実は、この研究所の地下には、修復済みの古文書一万六〇三冊が保管されていた。武装勢力は、地下の保管庫には気づいていかなかった。アフマド・ババ研究所の収集した古文書の中でも優れた書籍が、地下に眠っていようとは。

未完の輸送旅

ハイダラは、わずかな貯えだけを元手に、信頼できるボランティアを何人も集め、「野蛮」対「文明」という壮大な図式を突きつけて国際社会に支援を迫り、資金援助をしなければ名折れになると数々の財団を奮い立たせ、一〇〇万ドルを集め、トンプクトゥや周辺から数百人の素人運び屋を雇った。ハイダラのチームが用いたのはじつにローテクな手法である。二一世紀に入って一〇年以上経つとは思えないほど古くさい。車や船を走らせ、喧嘩腰のテロリストの目をかいくぐり、疑りぶかいマリ兵の検問所を抜け、追剥やヘリコプターの攻撃をかわし、命にもかかわりかねない幾多の障害を乗り越えた。そして、トンプクトゥが誇る古文書三十七万七〇〇〇冊のほぼすべてを守り通したのである。運ぶ途中で失われたものは一冊もない。(282頁)
ハイダラたちは、みごと古文書三十七万七〇〇〇冊を守り切った。しかし、彼には、未完の仕事が残っている。疎開先から古文書をトンプクトゥに戻す往還の旅が。


 

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