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娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


ルポ:彷徨える ベトナム軍退役兵士

02/09/2011

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序章  トラウマとは…

『PTSD(心的外傷後ストレス障害)』とは、日常からかけ離れた強烈なストレスによって、心に深いトラウマ(心的外傷)を負った後に発症する心の病気だ。今年三月十一日、千年に一度の大震災に遭遇した東北の方々の中にも、そのトラウマがみられる。 元々、PTSDの病理研究は、ベトナム戦争に参加したアメリカ人兵士の悲惨で残虐な戦争体験による後遺症の研究によって始まった。ベトナム戦争から無事帰還したアメリカ兵の中に、不安や恐怖、睡眠障害、幻覚様症状、フラッシュバック(過去の外傷体験を生々しく思い出すこと)といった精神症状の苦痛を訴える人が大勢現れた。PTSDの発症率は、ベトナム帰還兵の約三十パーセントにも上ったと言われ、ベトナム戦争がどれだけ過酷で悲惨な消耗戦だったかが想像される。その事実から、生命の危険がある強いストレスにさらされると、心の深い傷・トラウマが形成され、その後遺症である様々な精神症状で日常生活に支障をきたすPTSDの存在が明らかにされた。 『地震・津波・火事・交通事故などの事故・災害場面』、『暴行・レイプといった犯罪場面』、『戦争やテロの体験』、『殺傷など残酷な場面の目撃』、『児童虐待』などの非日常的な体験がなかなか癒されない深いトラウマを刻み、そのトラウマが原因となってPTSDという一連の苦痛で不快な後遺症群を生み出す。今回ご紹介するのは、ベトナム国内の退役軍人の話だ。

 

 

第一章  B・クリントンの息子に迎えられて…

後ろを振り向けば、長く続いた三つの戦争(抗仏、抗米、中越)の戦跡がくっきりと見えるベトナムは、国家として、アメリカとの国交正常化、アセアン加盟から始まって国際社会の復帰を果たしてきた。だが、国家のために極限状態で戦った人たちの中に、未だ社会復帰を果たせないままの人々がいる。
ハノイから南下すること百キロ弱。ニンビン省ホアルー郡ホアンロン村。蓮の花が一面に広がり、水牛が少年少女を乗せて、草を食む。貧しくものどかなホアンロン村である。

そこに、ひっそりと立つホアンロン精神リハビリセンター。先にあげた三つの戦争で精神障害を起こした退役兵士が収容されている。ベトナム全国に十二箇所あるうちの最古参の精神リハビリセンターだ。外国人はおろか、一般のベトナム人がここを訪れることは滅多にない。私はいく度かの交渉の末、ある年、この精神リハビリセンターの取材を許可された。
ここには、取材当時、戦争が原因となる精神障害の患者百八十人が収容されていた。

新聞読書室。 
「クアンホー(※1)を歌うぞ。
かわいい時には、皆船着場に押しかけて迎えに来るのに、美しさが失せると、朝早く出かけて、昼に帰ってきても、誰も振り向いてはくれない
私には夫がいるのに、あなたたちには妻はない
昔、私のふるさとでは、男も女も衣装をつけて、婚約式をしたものだ
あなたに恋人はいますか?
私には夫がいるのに、あなたには恋人はない」
(註1)ベトナム北部のバックニン省の民謡。恋愛歌。クアンホーの歌祭りがあり、村の男女が掛け合いで歌い合い勝敗を決める。歌垣のこと。

体格の良い男性が情感をこめて歌った。心に響く声だ。

(筆者に向かって)「あんた、ハンサムだね…。なつ子はおしんの嫁なんだ。映画の最後では、おしんと嫁が一緒に海に行くんだ。その時、おしんは八十九歳。…日本は金持ちだけど、まだアメリカには負けている。アメリカのビル・クリントンは、俺の本当の父親だ。四千億円をベトナムに援助しろって、帰ったら日本政府に言え。(その後フランス語で話す)私は、アメリカ大統領の息子だ…今日は暑いのでたくさん汗をかいた。心臓がドキドキしている。何も聞こえてこない。頭にノン(※ベトナムの菅笠)をかぶっていると、ノンがとても熱くなる。さあ、撃っているところを少し見せてやれ…ああ疲れた」

看護婦さんがクスクス笑う。彼が私に握手を求めた。強烈な握力だった。


▲風光明媚な観光名所ハロン湾になぞらえて、陸のハロン湾と言われる所でもある。 


▲新聞読書室。新聞を普通に読んでいる人はもちろんいるが、新聞の1点から目を動かない人、新聞を持ったままうつろな人等さまざまだ。


▲リハビリセンターでは、夜の睡眠がとれるように、昼間に適度の疲労感を覚える労働を取り入れている。庭の手入れと草取りも、そのひとつだ。



第二章 心の傷は深い

 リハビリセンターにはベトナム戦争の歴史が刻まれている。抗仏、抗米、中越の各戦争を戦った兵士が収容されている。祖国の独立と自由のために命を捧げて戦ってきた人たちだ。
重症患者の病棟で、朝の全員体操を見た。
「止め! 右向け右! スローガンを叫ぶ時は、みなはっきりと調子をそろえて叫びましょう」
「体を鍛えよう! 健康を管理しょう! 体を鍛えよう!政治を守ろう! 体を鍛えよう! 学習能力を高めよう!」
リーダーの声に合わせて全員が唱和するが、極小労働組合のシュプレヒコールのようで力は入っていない。 

ひとりの男性が、私たちに近寄ってきた。やさしい話し方で話しかける。
「社会の優しさは、川や海のように広い。天地は無限で、哀れみの情を決して阻めない。こういう点は、ベトナム人は中国人とそっくりなんだ。中国人は、その時に、先生の家にやってきた。私のふるさとヴィンフーでの破壊戦争の時に、中国人の一団がやってきた。先生は六ハオ(註2)のサトウキビを売って、中国軍はそれを買ったんだ。サトウキビが大きくなったら、中国軍がその後、雲南省に持って行って国際無産階級ができたんだ。私は、こうして。祖国中国に別れを告げた。世界人民、万歳! 青年先鋒隊、少年先鋒隊…。カメラマンの皆さん、さようなら」
(註2)ドン(銅)は、ベトナムの通貨単位。補助単位はハオ(毫)と、シュウ(樞)であり、一ドン=十ハオ=百シュウ。現在はどちらも使われていない。
★添付のように学校を絞込みして表示させる (顧客へのメール用)

起床が午前七時。体操を行って、常時服用する薬の配給があり、朝食をとり、三々五々解散する。

床にねそべる老人の話

「謙遜とは人間の装飾品だ・・・。戦術とは敵を軽視すること。戦力とは味方を重視すること。これは毛沢東の言葉だ。中国人民の偉大なる主席。偉大なる中華人民共和国。中華人民共和国は、長い間モスクワと衝突していた。だから、三百二十八個の爆弾が一九六八年、初めて世にでることになった。本当なら、もっと早く出現するべきだった」

片足の男性の唄

爆弾の爆風に足を吹き飛ばされたのか、片足の男性が元気に歌を歌う。
「みなの者、俺に歌ってほしいか? 歌うぞ!

チュオンソンの森で一緒にハンモックを吊るして寝た二人/ 一緒に仲良く暮らした二人/ あなたと戦場に向かった道は、今ならきっときれいだろう/ チュオンソンの東にいては チュオンソンの西を想う/ あなたが行った西を/ あなたはそこで私を想ってくれますか?/ 米を担いで雨の中を歩く…/ 今、なお、雨は冷たく、寒い/ 野菜が終われば、筍を取ろう/ 冬のチュオンソン/ あなたは西で 私を想ってくれますか?/ いくつもの隊列が連なって 戦地に向かう/ 長く連なる 私たちの無尽の愛情のように/ チュオンソンの東よ チュオンソンの西よ/ あなたが車に乗った時 雨が降っていた/ ワイパーは懐かしい気持ちをかき消すように/ あなたが山に登った時 日が強く射していた/ 樹の枝は愛しい気持ちを 押しやるように」/ (註3)ベトナムの南北を貫く長山山脈のこと/
この歌は、アメリカとのベトナム戦争中に北ベトナムの国民や解放戦線の人々に歌われた『チュオンソン東 チュオンソン西』という超人気の恋愛歌だ。

話をしたり、歌を歌っている時は、まだいい。患者に発作が起こり、興奮して暴力を振るったりすることが必ず起きる。ここでは、そういう被害に遭わなかった職員はいない。心の襞にできた傷は深いのである。


▲朝の体操風景。

▲食事風景。



第三章 面会者は少なく…

重症患者のひとり、T・A・ゴックさんの奥さん、チン・ティ・フオンさんが半年ぶりに面会にやってきた。
ゴックさんは、今年五十五歳。一九七二年から南ベトナムで戦車部隊の一員として従軍。一九八四年に除隊後、精神的な異常が認められ、ここに入院した。家族にしてみれば、長い年月である。
奥さんはご主人より四歳年下。学校の同窓生だった。「主人は学生時代頭が良く、優しかった」と言う。子煩悩なゴックさんは、時々、八歳の息子と六歳の娘に思いを馳せるらしい。ゴックさんは、家族に会いたくて、センターを抜け出し、バスに乗って故郷をめざしたこともあった。 「お前、(俺に)土産持ってきたか?」
「甘い蜜柑を少し持ってきたのよ。それから、皆さんにお茶とタバコ、ふるさとの蜜柑よ。タインホア省から持ってきたの」
僅かな量だが、百キロも南の離れた所から混んだバスでやって来るのでは、これが精一杯の差し入れだ。だが、包丁で皮を剥くような果物の差し入れは、ここでは危なくてできない。
「あなたに会いにきたのよ、一緒に帰れると思う? 家に帰りたいの?」
ご主人が素直にうなづく。
「じゃあ、明日家に帰りましょうね」
ご主人、はっきりしない。
「それとも、この施設で楽しく暮らすの?言ってることわかってる?」
「食べる飯は全部 腐っているんだ」…と、いきなりご主人が話した。
「腐ってるって…どうしてそんなこと言うの?」

センターの中庭で、病のトンネルに出口がみつからない夫に奥さんは困り果てるのだった。



第四章 症状は? 治療は?

 PTSDが発症すると、自分の力ではコントロールできないような激しい恐怖や不安が襲いかかってくる。PTSDで湧き上がってくる恐怖や混乱は、通常の理性や意志では制御できないほどに強烈なものであることが特徴だ。

どういう症状が一番多いのですか?
ハイン・ティ・ヅン(看護婦)さん「発作が突然起こったり、患者がひどく興奮して人を殴ったりすることがよく起こります。発作が起きて行動に移るまでとても速く、仕事で見回りしている時に、運悪く医者や看護婦がいきなり患者さんに殴られることもあります。発作が起きると、患者は罪悪感から私たちを殴るのです。また、罪悪感で、自殺しそうな患者、人を死に至らしめる可能性のある患者には、医師の治療法に従って見守る必要があります」 彼女も、これまでに三十回ほどの暴力を受けているという。

どういう経験がトラウマになるのかは、ストレスへの耐性や環境への適応力、物事の受け止め方、性格などの個人差が背後にあるようで、一概には言えない。

戦争のどんなことが原因で精神障害に繋がりますか?
ヴー・ドゥイ・トゥ博士(精神リハビリセンター在勤)「ここに来ている患者の疾患の主な原因は、戦争の傷です。戦争中の事故、爆弾の風圧、頭に入った爆弾の破片などが原因となることがひとつ。また、密林の中での生活中にかかったマラリアも、精神病の原因となります」

精神障害の治療に一番必要な環境は何ですか?
トゥ博士「患者の状態を最も良くするためには、静かな環境が必要です。特に夜、患者が落ち着いて眠られる環境です。また、昼間は患者が心理的に解放された状態で日常生活を送れるようにすることです」

フランスとの戦争を戦った老戦士がいた。ハノイ出身のKさん。取材した時には七十二歳。三分刈りにした白髪の老人、みるからに温厚そうなこの紳士は、一九四六年に、南ベトナムに行って抗仏戦争に参加した。三十年間もこのセンターで治療を受けている。もう、治らないのだろうか? 引き取り手もなく、身内は今となっては、実兄だけになってしまった。

ベトナム外務省の通訳にフランス語で聞いてもらった。
フランス語わかりますか?
「私は、フンイエン省のキムドン学校で勉強していました」
長く?
「長く」
キムドン学校ですか? ハイフン省ですか?
「ハイフン省です…ナムディン省です」
軍隊に入っていましたか? 何年くらい…三十年 四十年 五十年?
「とても長い間…」
どこで戦っていたんですか? 南? 北? 覚えてますか?
「わかりません」
フランス軍と戦っていたんですか?
「フランス軍…ヨーロッパ軍。イエス(キリストのこと)…マリア」

Kさんの答えは正解がどこにあるか分からないほどブレるが、フランス統治時代の学校の(レ・ヴァン・ド)校長先生や担任の先生の名は、正確に覚えていた。ここには、抗仏戦争に参加した元兵士は、Kさんを含めて四人いる。話す内容や話す外国語で、どの戦争を戦ったかわかる。

別の個室の老人。なぜ盲目になったのかは聞かなかった。「ザン(自分の名前)は、自分の人生を呪うぞ! 俺は呪うぞ。はっきり言うぞ、俺は自分自身を呪うぞ、呪うぞ! 盲のザンは、自分の人生を呪うぞ!」と、声の限りに怒鳴り続け、時としてベトナムの詩を吟じた。

PTSDの最大の問題点は、PTSDの原因となる過去の衝撃的出来事が、心の中でフラッシュバックや悪夢などの形を取り、続いてしまうことだ。PTSDの症状に対処すると同時に、トラウマ体験を過去の出来事として終わらせるために、薬物療法や心理療法を行うのが、最近では普通である。
だが、ベトナムでは…

一番良い治療法は何でしょうか?
トゥ博士「戦争中の傷や経験が原因となって起きた精神異常に最も良い治療方法のひとつには、薬による治療です。薬を飲んで患者の発作が収まった時に、治療を始めます。つまり、患者がふだんの生活を心地良く過ごせるようにすることです。また、患者への教育は、日常生活で普通の歩行運動をさせることで、精神が安定します。つまり、薬による治療と運動の二つを結合することで、患者は良くなっていきます」

重症者病棟の関係者ははっきり言う。「野戦病院より薬は少ない」と。薬品の棚には薬がほとんどなかった。加えて乏しい設備とスタッフで入院患者の普通の病気治療から、精神治療までもしなければならない。暴れた人にいつでも打てるように、モルヒネの注射器がひっそりと用意されているのを、私は見つけた。


▲フランス語堪能なKさん。

▲誰が差したか、個室の窓辺に花が・・・。

▲長い療養生活の末に、ここで息を引き取る人も少なくない。「祖国が功績を讃え顕彰する」と書かれた顕彰碑の前で、多くの人が眠りについている。



第五章 社会復帰を勝ち取った人

ディン・コン・チュオットさんは、砲兵の特殊部隊員として、敵の平定計画を粉砕する特殊任務を与えられ、南ベトナムのメコンデルタ地帯、ロンアン省でアメリカ軍と戦った。アメリカ軍の掃討作戦中に、チュオットさんは、M79の銃弾を受け、戦争終結と同時に、このセンターに収容された。一九七五年から一九八七年まで、十二年間の療養生活。チュオットさんは、このセンターで親身になって世話してくれた看護婦さんと一九七九年に結婚して、第二の人生を歩みだした。息子二人に恵まれた。しかし、今でも頭の中には、銃弾の破片が二つ残っていて、危険な手術になるので、摘出しないままだ。精神的には安定したが、右半身マヒは治っていない。

「火と水を見ると、恐怖感が起きます。…発作が度々起きて意識がなくなり、自分では何もわからなくなります」
「水を浴びるための水を汲んだり、煮炊きするための火をみると、怖くなって発作が起きます。発作がおきると…一層火が怖くなり、何も分からなくなります。水を浴びている時に発作が起きても、もう何もわからなくなります。発作の怖さは、こういうことです」



第六章 バンさんの門出

私は、取材中に、二人の退院に巡りあわせた。そのうちのひとり。グエン・フイ・バンさん。バンさんの従軍は一九六七年、中部ベトナムのフエから始まり、一九七一年にラオスに転戦。同年、ラオスのシエンクアンで、掃討作戦中に迫撃砲の破片を受けて、頭部に重傷を負ったが、弾片は今はすでに摘出済みだ。
一九七二年の入所当時は、①音が聞こえるたびに体が震えた。②手が一日中震えていた。③物忘れが激しかった。④喧嘩が絶えなかった。ナイフをもって喧嘩。⑤脱走は数々。農村の牛まで捕まえた。と、当時を知る職員は話す。ナイフを持っての喧嘩。立ち回り。脱走も数えきれなかったバンさん。痙攣が起きて、十人で抑えつけたこともあった。

二十二年間療養生活に終止符を告げる退院が明日に迫った日、運びなれた食事の当番もいよいよ最後になった、うれしさが顔にこぼれる。

いよいよ社会へ飛び出す日。
「一度は、社会復帰などだめかと思ったこともありました。自分でもよく頑張ったと思います」と、バンさんは振り返った。荷物も退院の日の前日までにまとめた。世話になったゴック院長との別れの時がきた。ひとりでも多くの人の、一日も早い退院を願う院長にも、やはり嬉しい時だ。

ゴック院長は、「家に帰るんだね。気持ちを込めて見送るからね。頑張りなさいね。生活のすべての条件を安定させるようにするんだよ。ホーおじさんがこう言っています。『障害は役立たずではない』と。元気でね。機会があったら会いにいらっしゃい。もう一度しっかり生活を立てなおしていきなさい」と励ました。

何人かの患者が集まり始めた。「ビル・クリントンが親父」と言っていた男性が見送りの言葉を贈った。
「ハンサムな男が妻をもらって…それから二人(バンさんと自分のこと)、それぞれの道へ別れていくんだな。クアロー(ゲアン省の地名だが、帰る場所は全く違う)に帰るんだな。握手をしよう。マインに会ったか? 奴は第三師団の兵士だ。車に乗れ、出兵だぁ」

看護婦さんも駆けつけてきた。
「子供さんが結婚したら教えてね。出席できないけど、ここでお祝いするから」


▲食事当番。

▲世話をしてきた看護婦さんも見送りに…。



最終章 失った年月を取り戻す…

バンさんは、二百五十キロ離れた故郷のハティン省タックハー郡タックビン村役場に着いた。小中学生が人垣を作り、その中をバンさんが進む。顔は引き締まったままのバンさんのうなじを、木漏れ陽が斑に染めていた。村人の大歓迎を受けた。国のために献身した人を最大にもてなすベトナム風伝統的歓迎風景であった。

バンさんが、二十二年間、一回も帰宅しなかったというわけではない。センターでは、何回も帰宅させて社会復帰への可能性を探ってきた。だから、現在、養魚場を経営するかたわら、植林の品種改良にも力を注いでいる。子ども五人で跡継ぎもできた。この退院はバンさんにとって本格的な社会復帰の始まりだ。

自宅でゆっくりと寝たバンさんは、翌朝、「素晴らしく、活き活き、伸び伸びとした気持ちです。ベトナムの経済が発展し、強力になり、国家が進歩し、国際化への道をたどることが平和ではないかと思います。今病院に残っている友人たちに、こう伝えたいです。われわれがいた戦場では、すべてのことが敵でした。今は、病気に勝利すれば、家族のいる故郷に帰ることができます」と、答えた。それが、バンさんの退院翌日の心境である。戦ったアメリカのことをことさら悪くは言わなかった。

トラウマから解放されるまでに、戦闘に参加した年月の四倍近い時間を病院で過ごしたバンさん。失った年月は誰も戻してはくれない。もう、あのリハビリセンターには戻りたくない。バンさんの右手には、戦争中に彫った刺青(いれずみ)が消えることなく残っている。〝敵を忘れるな〟。生きて帰還したバンさんの今の敵は、何なのか? 退院したことによる自身の心の緩みか、それとも戦争の風化か…いずれにしても、平和ほど尊いものはない。


▲迎える奥さん。

▲村の歓迎行事。

▲バンさんの答礼宴。



取材協力
ニンビン省ホアンロン精神リハビリセンター
ハティン省タックビン村役場
ベトナム外務省プレスセンター

写真…北村 元

 

 

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