オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」
娯楽記事

北村はじめの『ちょっと立ち読み』


シンガポール血の粛清 陰で救った篠崎護

05/08/2013

このエントリーをはてなブックマークに追加

 
 北村はじめのちょっと立ち読み20 2012年は「国際協同組合年」:日本のテーマ
"若者:協同組合の未来" 「震災復興のために 協同組合に何ができるか」
シンガポール血の粛清 陰で救った篠崎護






1.日本占領時期死難人民祈念碑

シンガポールの市庁舎前の広場の一角に建つ、高さ120メートルの白い尖塔。気温30度を優にこえる蒸し暑い日、久しぶりに足を運んでみた。大理石の礎石には、「日本占領時期死難人民祈念碑」という字が刻まれている。

「死難人民」とは日本軍が占領中に粛清した華僑住民を指す。その数、5000人から7000人まで諸説あるが、相当な規模の犠牲者が出たことは、日本軍側の資料でも間違いない。改めて粛清された方々のご冥福を切に祈りたい。

 

ユダヤ人へのビザ発給で約6000人もの尊い命をナチス・ドイツの迫害から救った杉原千畝(ちうね)は、腕が腫れあがり、万年筆が折れてもビザを書き続けた。今年はシンガポールの血の粛清から70年。第二次世界大戦という特異な環境の中で、シンガポールで、人間としてひたすら偉大な行為を見せたもうひとりの杉原千畝と言われた人物を追ってみたい。


2.イギリス軍の降伏

昭和17年2月15日、イギリス軍が降伏して、シンガポールは日本軍の手に陥落した。2月15日日曜日、ストレーツ・タイムズ紙は、「ジャップ大攻勢ー英軍頑強に抵抗中」、と大見出しが踊っていた。

 午前9時半から始まった指揮官会議では、4日前の第25軍山下奉文(ともゆき)司令官の降伏勧告受諾と決した。キャセイ・ビルの屋上から日本国旗が10分間振られた。それはパーシバル中将が山下司令官の条件に同意し、フォード工場で山下と会う、という合図だった。

午後4時半、パーシバルは山下と会見した。

 シンガポールの降伏の翌日の2月16日と17日のラジオはシンガポールの特別番組になった。著名人たちの戦争賛美が行われ、ラジオ番組で高村光太郎の「シンガポール陥落」という詩が朗読された。

「シンガポール陥落」

シンガポールが落ちた。

イギリスが砕かれた。

シンガポールが落ちた。

卓上の胡桃割に挟まれた

胡桃のように割れてはじけた。

シンガポールが落ちた。

彼らの扇の要が切れた。

大英帝国がばらばらになった。

シンガポールが落ちた。

ついに日本が大東亜を取りかえした。

「高村光太郎詩集」(ハルキ文庫)より


軍にさからいきれなかったのか、高村の詩作の真意は私にはわからない。

また、太宰治は、志賀直哉のことを書いた。

「こういう作家は、いわゆる軍人精神みたいなものに満されているようである。手加減しないとさっき言ったが、さすがに、この作家の『シンガポール陥落』の全文章をここに掲げるにしのびない。阿呆の文章である。東條(英機)でさえ、こんな無神経なことは書くまい」

日本の画壇も然り。検問・粛清が行われたばかりの1942年3月、藤田嗣治は陸軍の依頼で従軍した。その時の作品は、12月、東京府美術館第一回大東亜戦争美術展に「シンガポールの最後の日」という題で出品された。

藤田だけではない。当時の人気画家が動員されたのだ。

 







3.華僑ゲリラ掃討作戦

イギリス軍降伏の4日後、1942年(昭和17)2月19日、街角に日本軍司令官の名で次の布告が張り出された。

布 告

昭南島(占領の翌日シンガポールは昭南島に改称された)在住華僑18歳以上50歳までの男子は、きたる
2月21正午までに左の地区に集結べし。(以下略)

集合場所

アラブ街及ジャラン・ブッサー広場

リババリー路南端広場

カランとゲーラン交叉点のゴム園

タンジョンパーカー警察附近

ハマレバー路及チャンギー交叉点

右に違反する者は厳重処罰さるべし。

尚各自は飲料水及食糧を携行すべし。

大日本軍司令官

この布告で、発刊されたばかりの昭南新聞にも掲載され、市民はパニックになったという。満州事変以来、軍の厳重処罰とは、死刑を意味した。

粛清の対象は、

一、義勇軍

二、共産党員

三、抗日団体に所属する者

四、重慶献金者及抗日軍への資金援助者

などであった。

 華僑たちは、恐れていたことがついに来たと悟った。山下司令官率いる第25軍がシンガポールに入ると、マレー人やインド人は歓迎の態度を示したが、逆に一部の華僑たちは恐れをなした。長い間蒋介石の重慶政府に莫大な財政援助をなし、反日運動を積極的に行い、戦争開始と同時に華僑義勇軍を組織して日本軍と交戦していたからである。

   

特に日本軍を悩ましたのは、マレー共産党員を中心とする約3000の抗日華僑青年の一隊であった。イギリス軍からゲリラ戦の特訓を受けた華僑達は、進撃する日本軍を背後から襲い、多大の被害を与えていた。

   

英軍降伏後も、華僑ゲリラは隊服を捨てて市民の間に紛れ、方々で放火や集積弾薬の爆発事件を引き起こしていた。



左:降状条件を話しあう山下大将とイギリス軍のバーシバル中将 右:辻政信参謀


この時点で、日本軍がなぜ華僑の粛清をしなくてはならなかったのか。

「マレー作戦後、近衛師団はスマトラに、18師団はビルマ(現ミャンマー)に転戦せねばならなかった。そうなると、南方の最重要兵站基地となる昭南ががら空きとなる。日本軍は、ジョホール水道渡河作戦や、ブキテマ高地の争奪戦で有名な華僑義勇軍の猛烈な抵抗にあって多大な損害を受けたため、25軍司令部の華僑に対する憤激も極めて強かった。(中略)軍としては占領後の治安確保が何よりも急務とされた」(篠崎護著シンガポール占領秘録 原書房。42頁)

 

山下奉文軍司令官からは「速やかに市内の掃討作戦を実施し、これらの敵性華僑を剔出(てきしゅつ)処断し、軍の作戦に後顧の憂いなきようにせよ」との指示が出された。山下はシンガポール攻略にあたって、「焼くな、奪うな、犯すな」を厳守すべし、と命令を下し、また占領後も市内には憲兵隊のみを入れて治安維持に当たらせ、戦闘部隊は市外にとどめて不祥事の発生を予防するほどの配慮をする人物であった。この命令があくまで国際法違反の華僑ゲリラを対象としたものであったことは疑いないと主張がされているが、「マレーの虎」と呼ばれた山下のことだ。そんな主張はにわかに信じがたい。

   

しかし、18歳以上の華僑男子は約20万人いる。その中からどうやって「敵性華僑」を見つけだすのか。ゲリラを掃討しようとすれば、一般市民に累が及ぶことは避けられない。


4.辻政信の越権
シンガポールが陥落するや、華僑粛清を主導したといわれているのが、作戦主任参謀・辻政信中佐であった。中国系共産党ゲリラ討伐という口実で、彼は、3000人から1万人の中国系シンガポール住民の殺害命令書を書いたと言われる。何千人かの華僑住民を集めたシンガポール駅前広場を通りかかった辻は、その地域の管轄責任者であった久松憲兵中尉に、「殺(や)ってしまえ!」と命じた。久松中尉は、私のところに指示を仰ぎにやってきた。「残忍な辻のやりそうなことだ。彼は軍の一幕僚ではないか。貴官らに命令する権限なんかありゃせん! その住民らは即刻退散させよ。私は、こう指示した。この簡単な指示ひとつで何千か何万かの命が拾われたのである」(上官の城朝龍少佐の手記「血路歴程」。城朝龍少佐は、戦犯裁判では終身刑が言い渡された)


5.篠崎

シンガポールの日本総領事館に勤めていた篠崎護は、開戦前に参謀本部スタッフによる島内偵察に助力したかどでイギリス軍に逮捕され、チャンギー監獄に入れられていたが、日本軍のシンガポール占領によって解放され、その後は警備司令部の嘱託として、現地人保護の仕事を与えられていた。

   

篠崎は、戦前から知っていた華僑に「この者は戦前より我が方と関係ある者に付き、途中通行の安全並びに保護供与あいなりたく」という保護証を発行してやったところ、それが絶大な効果を発揮することが分かり、現地人が我も我もと殺到して発行を求めた。篠崎はやがて保護証を印刷して、まとめて慈善団体や宗教団体に渡し、各自姓名年齢を書き込むようにさせた。敵性華僑にも渡る恐れはあったが、戦乱の直後で世情を安定させるには、こうするしかないと判断したのである。

   

ある時、XX(名を秘す)が次から次へと人々を連れてきて保護証を懇願するので、とうとうガリ版で印刷して発給したが、噂を聞いた人々はホテルに殺到してきた。篠崎は、日本敗戦後の戦犯裁判で、「ガリ版刷りで毎日数千枚出していたが、占領の初期だけで3万乃至4万くらいであろう」と答えている。

 

これは、氏名、生年月日を書いた簡単な文章だった。

 

保 護 証

 

氏名

生年月日

右の者、戦前より我方と関係ある者に付、途中通行の安全並びに保護供与相成度

年 月 日

 警備司令部特外高 署名 印

 

 「警備司令部特外高というこの肩書が何よりも威力を発揮した。占領直後の混乱無秩序の際、この1枚の保護証は市民唯一の安全通行証であるばかりでなく、華僑にとっては生命を守る一札ともなった」―篠崎は、こう書いた。

 

「やがて宗教団体、慈善団体などに、姓名年齢は各自で書き込むようにしてひとまとめにして渡したが、不特定多数の市民に渡ることを考えると若干のためらいも感じた。しかし、このドサクサの際、市民の不安を救うのはこれより外はなかった。

 

敵性華僑掃討のための検問が始まった時、日本人医師のもとで働いていた華僑の看護婦が、父と兄弟が連れて行かれたので、何とか助けて欲しいと篠崎のもとに泣きついてきた」

   

篠崎は看護婦と共に、数千の華僑青年を拘束している検問所に行き、その家族の釈放を求めた。そこの責任者の憲兵中尉は篠崎の顔見知りで、「ご苦労さんです。どうか連れて行ってください」と簡単に釈放してくれた。篠崎は、後に残された数千の華僑たちの哀願を込めた視線を感じたが、それ以上はどうしようもない自分の力の至らなさに唇を噛みしめた。

 

 
▲チャンギ刑務所


6. マレー半島での殺害
太平洋戦争初期の17年2月、日本軍は英領マレー連邦(マレーシア、シンガポール)を占領した。同連邦には、多数の中国系住民が在住、日本の中国侵略に反発して抗日気分が強かったため、日本軍は直後から中国系住民の「粛清」工作に乗り出し、2月下旬から3月初めにかけて、シンガポール市内で中国系の成人男子の住民約20万人を集め、このうち「抗日分子」を選び出して殺害。その後、3月までにマレー半島に部隊を展開、徹底的な「治安粛清」を行った。

 

しかし、シンガポールを除くマレー半島での華僑殺害ついては、日本側の当時の具体的資料は極めて少なく、現地の研究でも解明されていない部分が多い。(沖縄タイムス 1987・12・8付け)


7. 旧日本軍の陣中日誌発見
ところが、太平洋戦争初期、マレー半島を占領した日本軍の第5師団(広島)歩兵第11連隊第七中隊(約90人)が、昭和17年3月の3週間に「治安粛清」した事実を記録した日本軍の公式文書「陣中日誌」が、開戦から946年の1987年12月8日を前に発見されたのだ。

 

陣中日誌によると、第7中隊は、17年2月15日のシンガポール陥落後、「抗日分子を一掃し、中国・蒋介石政府への支援を防ぐ」ためマレー方面に進攻した第25軍司令部(司令官・山下奉文中将)が決めた「迅速ナル治安粛清」に基づき、ネグリセンビラン州の警備を分担した。

そして17年3月末までの約1ヵ月間、六次に渡って「支那人の掃討」を行い、3月4日から21日までの間に計584人を刺殺した。特に3月16日には、同州中央部クアラピラーの南西部を掃討。当日の日誌は「支那人部落多数ニシテ全部落民ヲ集メ訊問(尋問)調査シタル後不貞(てい=逞)分子156人を刺殺」と記述している。

 


▲陣中日誌(イメージ)



8.華僑協会発足による救出
話は、シンガポールに戻る。篠崎は何とか、もっと大勢の華僑を救う方法はないか、と考え、一計を思いついた。それは日本軍に協力するという名目でシンガポールの有力華僑全員をメンバーとする組織を作ることだった。軍政部長の馬奈木少将に相談すると、少将は華僑粛清に批判的であったので篠崎の案にたちどころに賛成してくれた。

   

篠崎はちょうど、警備司令部に連行されていた華僑長老の林文慶博士を説得して会長になってもらい、昭南華僑協会と名付けた。篠崎に付き添われて家に帰った博士は、その肩を抱いて、「もうわれわれ華僑は安全だ」と叫んだ。

   

篠崎は捕らわれている有力華僑を協会メンバーとした名簿を作成し、それをもとに次々と釈放に成功した。一般華僑達は、尊敬する長老・林博士が会長に就任して、有力華僑達が続々と釈放され始めた、というニュースに、安心感を抱き、明るさを取り戻しはじめた。

   

しかし、篠崎の成功はつかの間だった。彼の後ろ盾であった馬奈木軍政部長が左遷された。これは彼の華僑に対する同情的態度を手ぬるいと批判する参謀たちによる陰謀だと噂された。

後任の渡辺渡大佐は、篠崎に「今後は華僑協会は軍令部で直轄するので、手を引くように」と命じた。

   

渡辺大佐は昭南華僑協会に1000万ドル、マレー半島の他の華僑協会に4000万ドルの献金を命じ、憲兵隊による過酷な取り立てを行なった。粛清と強制献金と、「今日もシンガポールの華僑たちが恨みとして忘れないのは日本軍のこのふたつの失敗です」と篠崎は書いている。

 
9.どうぞ私を罰せられよ
1945年9月2日、日本政府及び連合国代表が降伏文書(休戦協定)に調印したことにより、第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結した。

 

1946年(昭和21年)1月26日、戦後最初の軍事法廷がシンガポール地方院で開かれた。英軍は、戦時中日本軍に協力した華僑、インド人、マレー人などの民族団体のリーダー達を次々に逮捕した。ユーラシアン協会の会長パグラー博士もそのひとりで、篠崎に協力して、占領中の英国籍の民衆を護った人物である。パグラー博士起訴の趣旨は、交戦中の敵国の元首である天皇の誕生日に忠誠を誓う献辞を朗読したことは、まさに祖国に対する反逆罪を構成する、ということであった。篠崎が主証人として検事の横に座らされた。対日協力者を、日本側の責任者に告発させて、有罪にしようという老獪な手口に、篠崎は義憤を感じた。

   

篠崎は、あらかじめ検事が作成した質問に、イエスとしか答えることしか許されていなかった。

   

意を決した篠崎は、裁判長に発言の許しを求めた。

   

「式辞の朗読は軍からの命令であるが、日本の国体も天皇も知らない現地の代表は、どのような式辞を読めばいいかわかるはずもない。それで、私が書いた文章を被告に渡し、この通りに読めと命じたものである。(中略)パグラーをこの状況に追いやったすべての責任は、この私にある。もし誰か罰せられるべき者があるとすれば、それは私だ。どうぞ私を罰せられよ」(篠崎護著シンガポール占領秘録 原書房。158頁)

   

篠崎は、涙を押さえ切れず、見栄も外聞も構わず、証言台に突っ伏して声を放って泣き出した。法廷はシーンとなったかと思うと、傍聴席からウォーンという感動の響きがあがった。

   

英国憲兵に両側から支えられて退廷する篠崎の体を、傍聴人が撫でたたきして讃えた。1ヵ月後に出た判決は、「被告の自然死に至るまで、本裁判を延期して、その拘束を解く」という大岡裁きで、パグラー博氏は自由となった。

 

 





終わりに

観光客で賑わうセントーサ島。2つのゴルフコース。2つの5スターホテルに、ユニバーサル・スタジオまである。年間500万人訪れるという。かつて、この島はブラカン・マティ島という名前だった。

ブラカン・マティとは、背後から死が忍び寄るという意味だ。中国語では絶后と書く。島名は、1972年に公募で「セントーサ」に変わった。マレー語で「平和と平穏」を意味する。この島から、かつてマラヤ義勇軍の兵士が日本軍の粛清を目撃していたと聞いた。

私たちは、恥ずべき歴史から顔を背けるべきではないし、ひとりでも多くの人を救おうとしたひとりの男の事実を知らしめる必要もある…と、私は確信する。

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

1752年、ベンジャミン・フランクリンによる有名な凧による雷の実験。雷が電気現象であることを実験によって解明したのがフランクリンの凧揚げ実験である、と教えられてきた私たち。凧が雷雲の中に消えていき…などと、見たような説明も独走している。実は、彼は凧揚げ実験をやっていないのではないかという学者がでて、すでに15年ほど。少し真相に迫ってみた。

この記事を詳しく見る

第二次世界大戦は、一九三九年から一九四五年までの六年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソ連、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争だった。

この記事を詳しく見る

落語には枕がつきものだ。枕とは、演目へ入るさいの導入部分のこと。客席が本題の演目に入りやすくするための工夫のひとつである。 春風亭小朝師匠の枕話で、有名なのがある。「うちの師匠が脳梗塞で倒れまして。命はとりとめたんですが左半身がマヒしちゃうようなことになりましてね。看護婦さんが師匠にそのことを言いましたら、そっとおちんちんを右に寄せました」。 ある落語家が、枕で、日本の三大シツゲンというのがありまして…尾瀬沼、釧路、渡邊ミッチー…結構の笑いを客席からとった時代があった。ミッチーこと故渡邊美智雄代議士の

この記事を詳しく見る

プロローグ NSW州最西部の町ブロークンヒルに、シドニーからドライブしたことがある人は、少ないだろう。シドニーから陸路一千キロは、ジェフリー・ブレイニーの著書のタイトルではないが、やはり“距離の暴虐”を感じる。 最寄りの最大の町は、南に三百キロ行ったVIC州のミルジューラ。最寄りの大都市では、南西に五百キロのSA州の州都アデレードだ。このような遠隔地での位置関係のために、ブロークンヒルはSA州と強いつながりを持ち、NSW州にありながら、東部標準時間より三十分遅れた中部時間で生活している。 かつてこの

この記事を詳しく見る

CATEGORY

北村はじめの『ちょっと立ち読み』

フランクリンは、ほんとうに凧を揚げたのか? もう一人の命のビザ発行者 卓袱台(ちゃぶだい)をひっくり返す言葉  ブロークンヒル 日本のウィスキーの父と母 元奴隷・元スパイ 豪州と日本に見るドイツ人捕虜 不毛の大地を潤した日本人水利技師 八田 與一 宇宙の銀河の数 学生三大駅伝三冠 箱根駅伝三連覇へ王手だ! キリシタンの夢を叶え続けた オバマ大統領の広島演説を読む ウズベキスタンの抑留日本兵のこの偉業! ロシア・バルチック艦隊発見 気高き 真白の 新年だ!御神酒あがらぬ神はなし 世界最長の郵便配達~QLDの空飛ぶ飛脚~ 鉄道王雨敬 ベルリンの壁 世界一 質素な大統領 いま、イギリスの ストーンヘンジがすっごく面白い! 台湾人日本軍兵士数百名を救った 「よお、備後屋、相変わらずバカか?」 日本の城物語(4/4回) 日本の城物語(3/4回) 日本の城物語(2/4回) 日本の城物語(1/4回) 2014年は「国際農家年」 2014年は「国際農家年」  おもしろ歴史散歩! 監獄の島 造船の島 故吉川利治教授からの聞き書き 2014年は「国際農家年」 江戸城に激震を起こした 絵島事件! 日米開戦阻止に 奔走した日本人がいた! 野口英世 この母ありて この息子あり 歴史の聞き書き ベトちゃん・ドクちゃん看護秘話 北村 はじめの『ちょっと立ち読み』 バレンタインデー雑学誌 ネッド・ケリーの前座を つとめた盗賊たち シンガポール血の粛清 陰で救った篠崎護 2013年は「国際水協力年」: アウトバック de 廃車復活戦 ルポ:彷徨える ベトナム軍退役兵士 東京大空襲から66年 ナナメ後ろから見た タスマニア物語 倫敦 ゴーストハンティング タイタニック沈没から100年(2012年) 戦争から平和へ ダンシングマン逝く

CATEGORY

娯楽記事

Side 1
Side 2

FOLLOW US

SNSで最新情報をゲット!

NEWSLETTER

メールで最新情報をゲット!

メールを登録する

COUPON

オトクなクーポンをゲット!

全てのクーポンを表示
Suitecase