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北村はじめの『ちょっと立ち読み』


ネッド・ケリーの前座を つとめた盗賊たち

05/08/2013

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 北村はじめのちょっと立ち読み19

2012年は「国際協同組合年」:日本のテーマ

 



盗賊ジョン・ギルバートとジョン・オミーリーは、カーコア村のメインストリートにあるコマーシャルバンクの銀行強盗を計画。1863年7月30日に、バサースト側のブレイニー方向から街に近づいた。

 

街に向けて静かに馬を進めているときに、ヘンリー・ヒックルズという名の男が、ギルバートらを追い抜いていった。ヒックルズの馬の速度が遅かったので、彼はすぐに捕らえられた。盗賊がヒックルズのポケットを検査した後、彼は木に結わえられた。「帰りに紐をほどいてやるから」と言い残して、彼らは馬に乗りカーコアに向けて進行した。

 

ギルバートとオミーリーは、一時頃、カーコアに到着したと伝えられている。ゆっくりとコマーシャル・バンク・カーコア支店に馬を向け、そこで下馬した。彼らは、支店に侵入した。

 

銀行の支店長、ジェームズ・マクドナルドは銀行近くの路上で、商店の人と話をしていた。怪しげな男どもが、銀行に向かっていった、と当時支店長は証言している。

 

銀行の中には、窓口担当のジョセフ・パーカーだけがいた。ギルバートが窓口に向かい、オミーリーは、銀行のドアを塞いだ。ギルバートが窓口にいき、古い小切手をパーカーに差し出した。パーカーが顔をあげると、すでにリボルバーが向けられていた。

 

この時に、マクドナルド支店長は支店の入り口まで来た。オミーリーは、「旦那!中に入んなよ」と言った。一瞬、ギルバートの気がそれた瞬間、支店長が銃を払いのけると、銃はカウンターの下に落ちた。支店長が、天井に向かって2発銃を発射して、助けを求めた。

 

支店長は銀行を抜け出して助けを求めた。何の騒動が起きたか、人々が通りに出てきた。ひとりの勇敢な女性、ミス・ハリソンが、盗賊の馬の紐を解いて放そうとしたが、彼らにとめられた。彼らは、闘争を妨害するものは射殺すると威嚇した。

 

彼らは馬に乗り、来た方向に猛烈な速さで馬を走らせた。彼らはヘンリー・ヒックルズを結いた場所に戻り、彼の縄を解いて(唯一情状酌量の余地のある行為だが)、カルーラ方向に逃げた。そこでまた、別の強盗事件を起こしたのだった。

 

 

 

 

カーコア地域で最も裕福な牧畜家、トマス・アイスリー。彼が、カーコア南部に移住してきたのは、1830年。カーコアの街が創立される2年前だった。彼の牧畜農場は、クーミング・パークと名付けられて、オーストラリア有数の競馬厩舎となった。彼の厩舎の誇る馬は、コマスⅡだった。

 

1863年8月2日、ベン・ホールに印象付けるために、ミッキー・バーク、ジョン・ヴェインの2人が、コマスⅡを盗むことを決めた。バークは、以前アイスリーに雇われたことがあり、厩舎の内部事情には詳しかった。

 

強盗事件が起きたときには、モリセット警視は、アイスリー家族と夕食を共にしていた。厩舎は、アイスリーの家から150ヤード離れていた。

 

厩舎には、ジェームズ・デイヴィッドソン警部の灰色の馬もいた。この馬は、コマスⅡの異母兄弟だった。デイヴィッドソンは銀行強盗未遂事件を追って外出しており、彼の馬をクーミング・パークに入れてあった。

 

厩舎の鍵のありかを熟知していたバークは、ヴェインと、コマスⅡとデイヴィッドソンの灰色の馬を外に連れ出した。アイスリーの娘婿が事件に気づいて、馬を取り戻そうとした。銃の応戦があり、娘婿が口に銃弾を受けて大怪我をした。銃弾は彼の唇に入って、舌を貫通し、最終的には首の筋肉ところまで達した。

 

アイスリーと訪問客たちは、銃の音を聞いて飛び出したが、盗賊は闇に消えた後だった。アイスリーは、カーコアの医者を呼びにやったが、傷は大したことがないことがわかった。ただ、娘婿には、長年傷の後遺症が残った。

 

クーミング・パークがやられたとニュースを聞いて、カーコアの人々は怒った。そして、事件が再発するに違いないとふんだモリセット警視は、すぐさま、街を守るために22人の特別警察を組織した。

 

アイスリーは、犯人逮捕100ポンドの報奨金を出すと申し出るとともに、犯人逮捕のために、警官とともに相当の時間を潰した。

 

実は、1863年8月6日付のシドニー・モーニング・ヘラルド紙によると、この厩舎ではこの2ヵ月で、これが2回目の事件であった。最初の強盗事件では、ハーネス、サドル、クツワなどが盗られたという。まあ、規模は小さい犯罪だった。

 

 



 






 

ベン・ホールは、1837年5月9日、NSW州のハンター・バレーのマルルンディで生まれた。彼の両親は小規模な窃盗の罪で、イングランドからNSW州へ送られてきたコンヴィクトだった。彼らは1834年に結婚。8人の子どもに恵まれ、ベン・ジュニアは、4人目の子供で三男だった。

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1856年2月29日に、ベンはバサーストの聖マイケル教会で、ブリジット・〝ビディ〟・ウォルシュと結婚した。新郎19歳、新婦はわずか16歳だった。1859年8月、息子ヘンリーが生まれた。妻の姉たちは、フランク・ガーディナー、ジョン・マクガイアーという名うての盗賊に嫁いでいた。

 

1860年に、義兄のジョン・マクガイアと協力して、ベンは、フォーブズの南およそ50キロにある1万エーカー(40平方キロ)の土地のリース権を得て、サンディ・クリーク牧場をたちあげ、2人は牛と馬の飼育で安定収入を得た。1860年中頃に、近くのランミング・フラット(現ヤング市)でゴールドが発見されると、彼らはゴールド採掘のために、自分たちの牛を肉屋に売却した。このころまでの彼は遵法精神が高く、勤勉な青年との評判を得た。

 

ベン・ホールの人生に転機が訪れた。1862年前半、妻ビディが、息子ヘンリーとともに、地元の若い牧夫、ジェームス・テイラーと駆け落ちした。ホールの不在中の出来事だった。ベンは、この駆け落ちに動揺し、家庭や仕事の関心を失った。妻子に逃げられたベンホールの盗賊稼業は、悪名高い義兄のフランク・ガーディナーとかかわり始めた1862年に始まった。




 

1862年4月には、ホールはフォーブスへ向かう路上で、トラック運転手を襲撃し、ガーディナーの共犯として捕まったが、証人の証言で刑事事件は成立せず、ベン・ホールは釈放された。

 

その後まもなく、ガーディナーは、フォーブスの採掘現場から毎週オレンジにゴールドと現金を運ぶ車の護衛車を襲うという大胆な強盗を計画した。6月15日、ベン・ホール、ダン・チャーターズ、ジョン・ギルバートら8人の手下を引き連れて、ユーゴウラの近くで、ラクラン・ゴールド護衛車を襲った。

 

ユーゴウラ(シドニーの西340キロ)という地名は原住民の言葉で、「砂が丘を洗い流す場所」を意味する。キャンベラの新議会建設に使われた2千枚以上の花崗岩板は、このユーゴウラ産である。

 

この襲撃は、オーストラリア史上最大のゴールド強奪事件とされ、植民地は大騒動になった。奪った2700オンスのゴールドと現金の総額は14000ポンドと推定され、2011年での時価総額でほぼ1250万豪ドルという。

 

追跡する警察はフォーブス近くの丘陵でこの窃盗団を逆襲し、ゴールドの多くは騎馬警察によって回収された。残りのゴールドの行方は未だ謎のままとかで、今もこの地域にトレジャー・ハンターが来るというから、二世紀をまたぐ欲深い宝さがしに敬意を表する。

 

ベン・ホールと弟のビル、義兄のジョン・マクガイアらが、7月にゴールド強奪事件の共犯容疑で逮捕された。ベン・ホール復讐に躍起になっていた警察は、逮捕・拘禁中の数週間に、べン・ホールの家を襲撃し、農場を焼き払い、すべての家畜を殺してしまったのである。しかし、警察は、証拠不十分でホールを起訴に持ち込めず、彼は8月末に釈放された。

 

この頃には、ガーディナーとマクガイアは相当の法的出費を強いられたため、サンディ・クリーク牧場のリース権も他人に手放し、八方塞がりになった。ベン・ホールは一層フランク・ガーディナーと運命を共にし、ジョニー・ギルバートとジョン・オミーリーらの盗賊とかかわった。

 

ベン・ホールたちは、バサースト、ヤング、ヤス間の路上で、頻繁に郵便車を襲撃した。ベン・ホールの特徴は、使役馬よりも競走馬を使うことにあった。彼は、仲間の中でもモラル?は高く、挑発を受けない限り、武力は使わなかったと言われる。

 

1863年に、彼らは3日間カナウンドラ村に立てこもり、地元警察判事を人質にとり、全商店、ホテル、銀行を配下に置いた。双方の銃撃戦で、警察官2人とベン・ホール側にも死者が出た。ベン・ホール自身も負傷した。彼らはロビンソン・ホテルで指揮をとり、地元の人を交えて大々的なパーティを開いた。人質を解放したとき、ホールはホテル経営者に支払いを済ませ、町民には「弁償」すると言って譲らなかった。彼らの狙いは、盗賊の力を誇示することで、警察をあざ笑うことにあった。

 

さらに10月に、彼らギャングは、「バサースト」襲撃事件を起こした。土曜日の夜、街に馬で乗り入れ、スポーツマン・アームズ・ホテルに押し入り、夜陰に乗じて無傷で逃走し、道中の宿屋や商店に片っ端から強盗に入ったが、警察は常に彼らの後手後手に回っていた。

 

一方、フランク・ガーディナーは、いつのまにか、ベンの元妻の姉キティと共に、金護衛車襲撃で得た盗品をしこたま持って、クイーンズランドに逃亡した。

 







 

1864年後半には、ガンダガイでの郵便車強盗事件で、ジョン・ギルバートがパリー巡査部長を射殺し、1865年1月に、ジョン・ギルバートによるコレクターのホテル侵入事件では、ジョン・ダンがネルソン巡査を射殺したことを受けて、ついに当局は、犯人ひとりにつき1000ポンドの懸賞金をかけた。ジョニー・ギルバートとジョン・ダン、ベン・ホールを非合法化し、この植民地から追放することを目的に、フェロンズ・アプリヘンション法がNSW州議会を強引に通過した。ホールらを警告なしでいつでも殺してよいとされた。

 

1865年5月5日の夜明けに、無用心のベン・ホールは、馬を集めるために、藪から空き地に出てきたところを、8人の武装警察官が発砲した。かつてベン・ホール一味に援助と保護を与えた男性が、莫大な報酬が手に入るとみて、彼らの居場所をフォーブス警察に垂れ込んだ。ホールは多勢に無勢とみるや、1発も応戦せずに逃走した。逃げる途中で背後から撃たれた。彼が倒れた時には、ライフルとショットガンで30発以上撃ち込まれていた。

 

翌日、ベン・ホール(1837年5月9日 ~1865年5月5日)の遺体は、公式審理が開かれたフォーブスに戻された。審理で、警察裁判所判事は、彼の死を「正当殺人」であったとの評決を下した。

彼の遺体は、1865年5月7日(日)にフォーブス墓地に葬られた。なんと、ネッド・ケリーの妹、ケイト・フォスターの墓の近くである。享年28歳。彼の葬式に、数百人が参列したという。同時代の多くの山賊とは異なって、人を殺したことはなかったと言われるが、それが『勇者ベン・ホール』と呼ばれる所以だろうか。彼の大胆な急襲劇の狙いは主として警察を物笑いにすることだった。墓石は1920年代に建てられた。今でも訪問客が絶えない。

 

射殺や殺害も許すという「1865年フェロンズ・アプリヘンション法」のもとで行動した警察に、彼は射殺された。この殺害の合法性をめぐっては、2007年に、ベン・ホールの弟の子孫であるピーター・ブラッドリー氏が、審理の再開を求めた。「ホールが殺されたときは、あの法律はまだ施行されていなかった。ホールが警察に射殺された5日後になって初めて法律が施行された」と、ピーター・ブラッドリー氏は主張する。墓場で眠るベン・ホールはこの論争をどのように聞いているか。

 

そして、駆け落ちした元妻のその後は? 彼女とジェームス・テイラーには3人の子どもがいて、駆け落ちしてから14年後の1876年に結婚した。しかし、その1年後に、彼女は未亡人になった。その後、バークに近いフォード・ブリッジで長年暮らし、地元の人から「テイラーおばあさん」とよばれて地域で尊敬された。彼女は、80をゆうに超えて1923年に亡くなった。

 

 



 

フランク・ガーディナー(生年は、1827年、1829年の両説がある。アメリカ、カリフォルニアで没)は、スコットランドで生まれて、1834年に両親とともにオーストラリアに移民。19世紀に名を馳せた盗賊である。ザ・ダーキーの異名をもつ。彼はガーディナー、クラーク、クリスティといくつかの名前を使い分けていたが、本当の名前はフランシス・クリスティだ。その苗字は、おそらく、数年間家族と暮らし、馬を使った悪事を教えた男性の名に因んでガーディナーを名乗ったと思われる。彼がサインするときは、『フランク・ガーディナー』とした。

 

ガーディナーは身長175センチながら体格はよく、海賊風の顔立ち、声の良い魅力的な男だったという。

 

1850年に、ヴィクトリアに引っ越したガーディナーは、ひとりの男と組んでロッドン・バリーで24頭の馬をひとりの移民から盗んだ。ポートランドで馬を売りさばこうしていたが、馬の所有者に捕まり、ガーディナーは1850年10月にジーロングで裁判にかけられ、5年の重労働に処せられた。

 

1851年3月10日に、ガーディナーはペントリッジ刑務所の外で鎖につながれていたが、労働作業中に囚人の一団が警備員を襲って脱走した。この機に、ガーディナーはNSW州に舞い戻り、プライアーという若者と組んで、馬の盗みを再開した。1854年2月、ガーディナーはクラークと名乗り、プライアーとヤス(キャンベラの近く)で盗んだ馬を売ろうとして捕まった。彼は14年の刑(ヴィクトリアでの犯罪とヤスの犯罪で7年ずつ)を宣告された。監獄で、彼はジョン・ペイズリーに出会った。 

 

カーコアから出ないことを条件に、ガーディナーに、1860年に仮出獄許可が出ると、彼は獄中で知り合ったペイズリーと行動を共にした。牛を盗んだ容疑で彼に逮捕令状が交付され、仮出獄許可は取り消された。 2人の警官と撃ち合いの末にガーディナーは捕えられたが、警官を縛り上げることに成功したペイズリーとジョン・ギルバートによって奪還された。

 


1863年~4年には、ガーディナーは、クイーンズランド州のロックハンプトンの近くで、雑貨屋を経営しながら、ベン・ホールの妻の姉キティ・ブラウンと暮らしていた。彼はシドニーにでてきて面が割れ、NSW警察に逮捕された後、312年の重労働に処された。

 

ガーディナーは10年間服役したところで、2人の姉妹の訴えが功を奏し、出国を条件に、早期の出獄が認められた。1874年後半、ガーディナーは、香港経由でカリフォルニアに到着した。彼はアメリカでも、ガーディナー姓を名乗っていた。コンヴィクトを送り込まれた植民地オーストラリアが、コンヴィクトを外国にばらまいたのは彼だけではない。

  





(フランク・ガーディナーの作と言われるが、真偽の程は不明)

 

『さあ、みんな!』と、目に悪魔が光るダーキーは言った:

『さあ、働こうぜ、準備はいいか: 夜の帳(とばり)が下りる前にな、

我々の前にはおいしい仕事があるぜ 我々は実行するか、死ぬかだ

日暮れの前にユーゴウラ・ロックスで、

我々は倒れるか、さもなくば、戦うかだ。

我々は、粉末と弾丸で、オレンジ行きの護衛車を止めるんだ、

鉱夫の金を取り上げ、すべての金を失敬せよ、

車を粉々にし、お巡りを打ち負かすんだ

こころせよ、お前の銃が殺人者になる、俺の仲間は勇敢で大胆だ:

相手は警官4人だ、我々は全部で10人だ』

 

バン! バン! ライフルが発射した: 戦いは始まった:

ああ! 護衛車が走ってきた: そして、いま、強盗団は大胆だ、

略奪品をしっかり掴むんだ、太陽が沈むぞ。

彼らは、金を積んでユーゴウラからやってきた。

そして、野蛮な笑い声をさせながら、彼らは運命の場所を離れた

ガーディナー ―奴は腹黒い― は大声で叫んだ。

 

『万歳!万歳、我々は大当りだった:

我々は、障害物競走に勝った

我々は今日ユーゴウラ・ロックスで巨万の富を仕留めた』

そして、邪悪な冗談を言いながら、無法者は走り去った。

 





 

1863年から65年にかけては、山賊や無法者が最も多く活動した期間だった。ベン・ホールの犯行はおよそ610回、ジョン・ギルバートは、警察の馬小屋に埋葬されるまでにおよそ630回の犯行を重ねた。当時のカッブ社の旅客バス運行表には、「ベン・ホール次第」と書かれていたというから、その出没の頻繁さがわかる。

 

だが、ギルバート、オミーリー、ベン・ホール、ヴェイン、ミッキー・ヴァーク、5人の若者全員が真面目そうな青年だったという。誰ひとりとして酒は飲まない。皆が皆、常に冷静沈着だったという。こういう盗賊たちが前座を務め、このあと出てくるネッド・ケリーが真打として登場して、オーストラリアのブッシュレンジングは幕を閉じるのである。(おわり)

 

 

 

  

 

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