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オーストラリアの歴史を知って、もっと在豪を楽しもう!

オーストラリア・デーの起源

29/01/2016

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オーストラリアの歴史を知って、もっと在豪を楽しもう!

 

 オーストラリア・デーの起源

 

 

オーストラリアは、3万年前にニューギニアから渡来したとされるアボリジニと呼ばれる先住民の文化と、1788年にイギリスから渡来した囚人を含む入植者の文化との融合で成り立った国。しかし、イギリス人の渡来以前にも多くの人間が上陸を試みていたのは意外と知られていない。今年も1月26日にオーストラリア・デーを迎えるにあたり、今回はオーストラリアに上陸を試みた冒険家たちを追いながら、オーストラリア・デーの起源に迫りたい。

 

まず、西暦100年頃から長い年月をかけて、ヒンズー教徒や中国人、回教徒などのアジアの商人が、新たな領土と資源を求めてオーストラリアに渡来を試みたという。しかし自国の政治的理由や航海の技術的な問題で上陸までには至らなかった。16世紀が始まる頃になると、造船や航海の技術力の高いヨーロッパ人のカトリック教徒によって、物資獲得と未開人種の教化を目的とした布教活動のため、〝幻の南の国〟を求めて突き進んだ。このさいにオーストラリアに初めて足を踏み入れた白人はポルトガル人の探検家という説があるが、正確な記録が残されているわけではない。16世紀後半には黄金発見とスペインの宗教改革が生んだ崇高な伝道精神に刺激され、探検家トレスを含んだスペイン人も〝幻の南の国〟を求めたが上陸には至らず、パプアニューギニアとオーストラリア北の玄関口ヨーク半島の間の海峡に名前を残すのみとなった。

 

そして1606年、オランダの探検家であるウィレム・ヤンツ(写真上)がついにヨーク半島西岸のキアウィア岬に達している。ヤンツの報告書によれば「そこはよいことの役にはなにもたたない」と記されていたという。これがヨーロッパ人がオーストラリアを記述した最初の文章となる。それ以降も黄金と物質獲得を求めてオランダ船がカーペンタリア湾にやってきたが、黄金や物質はおろか、「肌の黒い野蛮人のほかにはなにもない」と語っている。

 

1642年に入るとオランダにある東インド会社の役員会の決定で、再びオーストラリアの肥沃な土地や金などを得るために、世界で名高い航海士アベル・タスマン(写真上)に探検の命が下った。タスマンは1642年に行われた一度目の航海でタスマニア島を発見し、東インド会社の総督ヴァン・ディーメンにちなんでヴァン・ディーメンズランドと命名した(後にイギリスからの移住民により、タスマニア島と改名されている)。さらにニュージーランドの南北両島を発見して、ステイテンランドと呼んだ。その2年後に行われた2度目の航海では、ヨーク半島の西海岸からインド洋を海岸沿いにぐるりと進み、ウェスタン・オーストラリア中程まで進んでいる。この2度の航海でタスマンはヨーク半島から西海岸を通り、グレートオーストラリア湾を経てタスマニアまでの海図を作ることに成功した。しかし、大陸への上陸は、群雄割拠するアボリジニの敵意に満ちた態度と、あまりにも広大すぎる大地を目の前に、東インド会社の役員が利益を見込めないと判断し、上陸を断念している。

 

タスマンの2度目の航海から40年後の1682年、イギリスの海賊バッカニアに属するウィリアム・ダンピア(写真下)が、世界周航中に、現在のウェスタン・オーストラリアの町、カーナーヴォン付近のシャークスベイに錨を下し、ダーク・ハートグ島へと上陸した。しかし、いままでのオランダ人と同様に、あまりにも荒涼として干からびた大地を前に引き揚げている。ダンピアはこの探検とアボリジニの印象について本を出版し、イギリスで広く読まれる文学作品の原典として知れ渡った。

 

ここでキャプテン・ジェームス・クックが登場する。1768年にイギリス海軍はクックにタヒチ島での金星の観測の任務と〝幻の南の国〟の探索任務を課した。タヒチ島での任務を終えオーストラリアへと探検航海船エンデバー号を進めると先にニュージーランドへとぶつかった。南北両島を一巡した一行は、西海岸を通るタスマンの海路ではなく、未知の東海岸を通り、ジャワ、南アフリカを経由してイギリス本国へと戻るルートを選んだ。こうして偶然発見された東海岸に、クックは2年後舞い戻ることになる。

 

1770年4月、現在のシドニー空港付近にあるボタニー湾にクックは上陸を果たす。東海岸を調査したのちに、当時のイギリス国王ジョージ3世の名においてオーストラリア東部の領有を宣言し、ニュー・サウス・ウェールズと命名した。当時クックはオーストラリアについてこう説明している。「ダンピアをはじめ何人かの人々が発見した西海岸のように、荒漠とした惨めな土地ではない。この広い土地にあらゆる種類の穀物、果物、根菜類が繁茂するであろうことは疑う余地がない。この国に運んでこられる限りの牛を一年中飼って余りあるだけの飼料がある」。また原住民については「ある者の目には地球上でもっとも惨めな人々に映るかもしれないが、現実に我々ヨーロッパ人よりはるかに幸福な人々である。彼らは不必要に余分なものはもちろんのこと、ヨーロッパ人が最低限必要なものとしてぜひともほしがるものさえ知らない。こういう物の使い道さえ知らずにいる事実が、彼らを幸福にしている。彼らは生活条件の不平等が引き起こす不安を知らないので、平和な生活を営んでいる。大地と海がすすんで与える物で自分たちが生きていく上に必要なあらゆるものをまかなっている。立派な邸や家具もほしがらず、温かくよい気候条件に恵まれて澄んだ空気を存分に吸っているので、衣類をほとんど必要としない。このことは彼ら自身がよくわかっているらしく、我々が衣類やそのほかの物を与えた原住民は、結局どうにも使い道がないとでもいうように、海岸や森の中に無造作に投げ捨てていった。原住民たちは我々が与えたものには何ひとつ価値を認めないで、所持品の交換には全然応じなかったが、これは〝生きていく上に必要な物はすべて与えられているから余計な物はほしくない〟と彼らが考えている証拠だと私は思う」と述べている。クックはその後もう一度再調査にオーストラリアに向かうと、海軍に〝幻の南の国〟は存在しないことを告げた。

 

クックの調査から3年後の1779年。クックの航海に同行した植物学者のジョセフ・バンクスがイギリス政府に、ボタニー湾の植民地計画を提案した。その背景には1976年まで流刑先であったアメリカとの間で、同年に起こった独立戦争の影響により、囚人の流刑が不可能になったことに起因した。新しい流刑場所を探す必要に迫られた当時の内務大臣シドニー卿は、約750人の囚人と食糧品やその他の必需品、、開墾に必要な農耕器具などをボタニー湾に輸出するための船団を用意するよう海軍に指示した。そして、ボタニー湾植民地の初代総督に任命されたのは退役海軍将校のアーサー・フィリップだった。彼に課せられた任務の一部を紹介したい。

 

・ボタニー湾に植民地を開くこと。
・穀物その他の農作物を自給自足をはかるために最善と思われる方法で囚人の労働力を配分し、土地の開墾を進めること。
・沿岸部の探検。
・原住民に接触し好感を抱かせ、植民地の住民全員と原住民と仲良く生活できるようにすること。
・住民に信仰を尊び秩序を守らせること。
・模範的行動と勤勉さとで釈放に値すると認めた囚人は、釈放して30エーカーの土地を与え、結婚した場合には妻の分として20エーカー、子供が生まれて植民地に移住する場合はひとりについて10エーカーをさらに加え、その上に政府の貯蔵庫から12ヵ月分の食料と飼料を、植民地の公共物資の中からは農業器具をはじめ種子、牛、羊、豚その他の家畜のうち分与できるものを与えて開墾にあたらせること。

 

そして1787年初頭、第一次移民団がポーツマス港に集まった。フィリップを含めた役人、軍の将校、海兵隊、そして約750名の囚人たちだ。この流刑では彼らを犯罪から遠ざけて更生の機会を与えると同時に、植民地の労働力供給源とすることを目的としたものであった。ちなみに犯罪者の年齢は20代前半の若い男女が多く、貧困に喘ぎ窃盗や泥棒、追いはぎなどの犯罪をした者が大半だったと言われている。国王への反逆罪や政治犯など悲劇の英雄などではなく、比較的軽犯罪者ばかりだったという。流刑になる2~7年前に逮捕されたことを逆算すると、世間もしらない未成年のうちに捕まり投獄されて、そのまま未知の土地へ流刑されたことになる。もし知識を持った政治犯などが大勢で流刑になっていたとしたら、オーストラリアの植民地時代のストーリーも違った意味で深みが出たのかもしれない。話しを戻して、これらの人々を輸送するために内務省は6隻の船を用意し、海軍は軍用輸送船シリウス号と物資輸送船4隻を提供した。そして同年の5月13日に第一次移民団は外洋へと旅立った。

 

1788年1月20日、11隻の船団がボタニー湾に投錨すると何千マイルもの海を越えてきた冒険家たちの顔は喜びで溢れ、歓声が沸きあがった。フィリップは数人の将校を連れて小舟で北へと上がり、ポートジャクソンへと調査に向かうと、世界一の天然の良港になりえるであろう入り江を発見した。フィリップはその入り江を、彼の後援者であり、当時の内務大臣シドニー卿トマス・タウンゼントにちなみ、シドニー湾と命名した。そして、当初の計画だったボタニー湾を放棄してシドニー湾に植民地を開くことを決めた直後…悪天候の中、国籍不明の2隻の大型船がボタニー湾に現れたのだった。世界の派遣を競っていたフランスの艦隊であることに気が付いたフィリップは、フランスより先に上陸して、イギリスにおけるニュー・サウス・ウェールズの領有を明確にする必要に迫られ、1月25日に悪天候のなか座礁の危険を顧みずボタニー湾を離れ、船団をシドニー湾へと移した。そして無事26日に現在のロックスに上陸すると原住民アボリジニが現れて、鋭い雄たけびをあげながら、投石をして彼らを出迎えた。フィリップは武器を放棄して武装したアボリジニに友好的に近づくと、アボリジニも武器を置き、フィリップの示した態度に応えたという。その夜、シドニー湾にイギリス国旗が掲げられ、祝砲が轟くと、初代総督に任命されたフィリップにも祝盃があげられた…。

 

こうして1788年1月26日は、オーストラリアにおけるヨーロッパ文明発生の日として、今日までオーストラリア・デーとして祝福されている。その後、植民政策は北にニューキャッスル、西にブルーマウンテンズと進み、さらに5つの自治王領植民地が設立、原住民アボリジニとの戦いや、産業の改革などを経て、6つの植民地が連合し、植民地からオーストラリア連邦へと進んでいくのだが…その話はまた次回に。 (文・大庭祐介)

 

 

参考文献:
オーストラリアの歴史 -距離の暴虐を越えて-
出版:サイマル出版会
著・マニング・クラーク/訳・竹下美保子

オーストラリア歴史の旅
出版:朝日選書
著・藤川隆男

オーストラリアアドベンチャー -神秘の大陸冒険の旅-
凸版印刷
著・ステファン・スミス、ジョーン・キーニー

参考サイトおよび写真提供
0 Wikipedia (en.wikipedia.org)
Sydney Living Museums (sydneylivingmuseums.com.au)

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