27/02/2014
"They are by far one of the hottest funk bands on the planet!"
Marva Whitney
「68~72年のファンクサウンドを現代に蘇らせる」ことに執心し、20年に渡り第一線を走り続けてきたてきたオーサカ=モノレール。ジェイムズ・ブラウン・スタイルを基本として、ソウルファンクの魅力に真摯に取り組むグループが再びシドニーに現れる。“CHINA & AUSTRALIA & NZ TOUR 2014”を目前に控えたオーサカ=モノレールのリーダーでボーカルの中田亮さんに現在の心境をうかがった。
昨年の1月に初のオーストラリア・ツアーにてシドニー、メルボルンなど6公演を行ったオーサカ=モノレール。シドニーで参加したシドニーフェスティバルでは、初公演にしてチケットがすべてソールドアウトするという快挙を成し遂げた。1年ぶりに再びシドニーに戻って来る彼らが抱くオーストラリアの印象とは。 英語圏ですがマルチカルチャーな雰囲気で、アジア人にとっても居心地が良いように見受けられたのが印象的でした。私はカナダには少し住んだことがあるのと、ヨーロッパへはツアーで度々行くのですが、比較すると、白人中心の文化圏でこれだけアジア人が溶け込み、にこにこと商売や生活をしているのは衝撃的でした。ローカルの抵抗感のなさはアジア人に対しての優しさだと感じています。これからも毎年になるか間隔はわかりませんが、できるだけ来豪できるようにしたいですね。
日本人の高いクオリティがこの地で露出されることは、住んでいる日本人にとっても実に誇らしいことだ。そんなオーサカ=モノレールが結成されたのは1992年、大阪大学のジャズサークルから産声を上げた。リーダーは奈良で育った中田亮さん。高校生のときはレイ・チャールズやジェームス・ブラウンにとても影響を受けていたという。
1980年代後半の時代背景と、奈良という土地柄から、当時は手に入る情報も限定的で、今から考えるとあの頃はファンクのことをよく分かってなかったですね。当時サントリーのCMでレイ・チャールズの「What'd I Say」を新しいアレンジで使った映像を見て、「これはなんや!」と雷に打たれたような衝撃を受けました。それから「なんか知らんけどこれがファンクっていう音楽らいしぞ。今流行ってるらしぞ」ということで、影響されやすい私は、幸か不幸か勘違いをして、ファンクに興味を持ち始めました。大きなCDショップなどはなかったので、雑誌や貸しCD屋で情報を得る日々を過ごしました。
当時高校1年生だった中田さん。すぐにファンクバンドを作ろうと決意したが、住んでいたのが田舎だったため、なかなか周りにもミュージシャンがいない。結局ファンクバンドができたのはそれから3年後のことだった。
大学へ入ると私は、1950年代のカウント・ベイシーの曲を演奏するようなジャズのビッグバンドサークルでトランペットを吹いていました。そこでサークルの仲間に、「カウント・ベイシーもいいけど、ジェームス・ブラウンとかそういう音楽をみんなでやろう」と、かねてから考えていたファンクバンドのアイデアを提案しました。これがオーサカ=モノレールの始まりです。
気になるバンド名の由来とは。
ジェームス・ブラウンの1974年の曲で、「It's the JB Monorail'」という曲があるんですが、じゃあオーサカ=モノレールでいいか、と誰かが言ったので、じゃあそれでいいやということであっさり決まりました。実際に大阪モノレールが僕らの練習場の横に走っていたのも理由のひとつですね。
その頃の日本ではファンクをやっているアーティストはほぼいなかった。世界において、ファンクミュージックというのはどのような立ち居地だったのか。
80年代当時、たとえば米米クラブが「ファンク」という言葉を使っていたと記憶しています。でもそれは僕の思うファンクとは随分違うものでした。一方ロンドンでは、1980年代後半から1990年代前半にかけて、そういう音楽をみんなで聴いて踊りましょうというムーブメントがありました。レアグループと言いますが、それがCD化されてクラブカルチャーとして東京にも入るようになりました。一方アメリカでは1980年代後半はヒップホップが台頭した時期でした。ヒップホップというと、昔のレコードを再利用して曲を作るというのがひとつの大きな柱で、ファンクにも日の目が当たることになりました。ロンドンとアメリカでそれぞれ流行り方は違いましたが、どちらにせよ、1970年代前半のソウルミュージックをもう一回みんなで聴きなおそうという大きな流れがありました。
アメリカのヒップホップ文化に影響を受けたジャパニーズヒップホップのパイオニアたちからオファーを受けて、2000年3月に、ブッダ・ブランドの「病める無限のブッダの世界」にてイントロを担当。オーサカ=モノレールの音源がついにメディアに現れる。
バンド結成後は、大阪などの地元のバーやナイトクラブで演奏をしていました。90年代後半になると、アメリカで流行っていたヒップホップの大きな波が日本にもやってきました。「日本語でラップ」。今では普通なことですが、当時では衝撃的なムーブメントが起こります。そしてその世界にいる人たちが「大阪にジェームス・ブラウンのサウンドを一生懸命出そうとしているバンドがあるらしい」ということを知ってくれたようで、東京から声をかけてくださることが頻繁に起こり出しました。一番お世話になったのがブッダ・ブランドのデヴラージさん。当時を代表するアーティストが声をかけてくださったときにはびっくりしました。
その後、自身のバンドから12インチの EP盤『What It Is...What It Was』を発売。世間の反応はどうだったのだろうか。
その頃の僕らはインディーズアーティストだったのですが、すでにヒップホップ好きな人たちが僕らの音楽にも興味を持ってくれている状況でしたので、反応は良かったと思います。ヒップホップという追い風が吹いていましたね。リリース後、すぐに東京からライブの依頼などが来るようになりました。
1967年から1970年までジェームス・ブラウンと一緒に歌っていた故マーヴァ・ホイットニーは、彼らが高校生の頃からレコードで聴いていた、雲の上のような存在のファンクシンガー。そんな彼女に、オーサカ=モノレールの音源が人の手を伝って届くことになる。そして2006年にマーヴァ・ホイットニーの来日ツアーで初対面を果たす。
僕らの出していたシングルを、ロンドンで有名なダンサー兼DJのペリー・ルイスさんに渡したんです。そこからロンドンのいろんなDJなどに音源が広まりました。そのときにドイツ人のDJパリの手にも渡りました。彼はほぼ引退気味だったマーヴァ・ホイットニーさんをカムバックさせて、ヨーロッパでのツアー開催に奮闘していた人物で、私たちの音を気に入ってくれて、これで日本にも行ったら僕らにバックバンドを任せて日本ツアーができるんじゃないかということで、連絡をくれました。ホイットニー本人にも音源を聴かせたら気に入ってくれていたようでした。レコードで聴いていた憧れの人のために日本でのイベントをオーガナイズ。初めての体験だったけど、とてもいいチャレンジでした。
日本ツアーは大成功を収め、さらに彼女の約36年ぶりとなるニューアルバム『I AM WHAT I AM』のプロデュースをオーサカ=モノレールが手がけることに。ヨーロッパを巡業するカムバックツアーも、ともに実現する。
日本に来るタイミングで、アルバム『I AM WHAT I AM』も作りましょうとマーヴァ・ホイットニーに提案したら了承してくれました。その時点ではまだ会ったことがなかったんですが、信頼してくれていたようでとても嬉しかったことを覚えています。その後は一緒にヨーロッパでカムバックツアーを行いました。憧れのシンガーと一緒に仕事ができて夢のような思いでいっぱいでした。
2006年11月、フランスやドイツなどを回るオーサカ=モノレールとして初のヨーロッパツアーを行う。この時期から現在まで、ヨーロッパやアジアなどでの活動が多忙になり始める。日本以外の国でも音楽が受け入れられていく過程で、不安などはなかったのだろうか。
正直あんまり考えていなかったですね。僕らはそもそもアメリカで作られた1960~70年代のソウルミュージックに憧れて音楽をやっていたので、自分らが日本人ということもあまり意識していませんでした。また、日本の中でも外国人が集まるバーとかクラブなどの出演も多かったので、ある程度の感触はすでに持っていたので、西洋人の前でやるということに関して抵抗はなかったです。
ソウルミュージック、ファンクミュージックのファンは世界各地にいて、オーサカ=モノレールの名前を知っている人や、呼びたいと思ってくれているプロモーターは多かった。しかし最初の段階からヨーロッパまでの旅費を捻出してくれるほど甘くないのがこの世界。そこでとった彼らの行動とは。
「最初だけ自費で行きます」と言ったら、「じゃあうちの町にも来てよ」「うちの町にも来てよ」と言ってくださったりしました。いくら人気が上がっても最初のステップは自分でやらないと何ごとも扉が開かないですからね。最初の1回2回こそ赤字でしたが、それ以降は変な話黒字にはなりました。オーストラリア、ヨーロッパでもそうですね。
次第にプロモーター側からのオファーが増えていき、海外でパフォーマンスを行うにつれて徐々に変わっていく心境。「最初は日本人だから日本人の奏でる音楽を聴いてもらいたいと思って、外国でパフォーマンスをしていたわけではなかった。単純にミュージシャンとして色々な人に聴いてほしいと思っていただけ」という気持ちから、徐々に自分たちのなかに日本人としてのアイデンティティを感じ始め、オーディエンスの気持ちと共鳴する。
ヨーロッパ各地のオーディエンスからすると、当然のことですが、「日本人のグループが来た」という風に捉えられます。日本人がアメリカの音楽をやっているという、ある種の面白さを感じてくれる方もいました。その通り、僕らは基本的にはアメリカへの憧れだけで音楽をやっていたわけなんですが、ところが僕らの知らない間に日本人らしさというのが、僕らの音楽の中に結構生まれていました。例えばスーツを着て演奏することだったり、ライブの中でお辞儀をすることだったり。演奏が凄く精緻で、細部まで気を配って演奏していると言われるようになっていきました。いい意味でそれらを形容して日本人と言ってくれるようで嬉しかったですね。日本文化を簡単には説明できないですが、細かいところまで気が行き届く、和の精神、和をもって尊しとなすといったように、調和を重んじる、グループで動くような長所などがあって、海外でそれが意外と通用したり、有難がってもらえることもあり、それが面白いところですね。
2012年に結成20周年を祝して、ヨーロッパ及び北米の38公演を回る大規模なワールドツアーを行ったオーサカ=モノレール。毎日ライブをしながら移動を繰り返すなかで特に印象に残っているのはカナダ。世界最大級のジャズの祭典、モントリオールジャズフェスティバルには、8000人ほどが訪れ、見渡す限りが人という状況だった。スティーヴィー・ワンダー、レイ・チャールズ、ボブ・ディランなど、そうそうたるメンバーが過去に参加しているそのフェスティバルに、その年日本人では、上原ひろみとオーサカ=モノレールが参加。ノラジョーンズなどの著名人と並びこの舞台に立ったときの心境を聞いてみた。
外国のフェスティバルに出演すると、とんでもなくランクが上のジャズミュージシャンと名前が連なっていることが多くて、僕らはムズ痒くなります。しかしそういう名前が並んでいるポスターの写真を撮ったりして喜んでいます。モントリオールのときは、そのフェスに出ることがその年の一番大きな目標だったので、意気込んでいったわけですが、実際にはスケジュールもタイトで、着いた瞬間に演奏して終わったらすぐホテル、といった感じでした。無我夢中でやっているうちに演奏が終わり、横を見たらフェスティバル進行役が「早くはけてください」って合図を出していて、さっさと終わらしたという感じでした。
2012年11月、XEX日本橋で行われたイベント「Hennessy Artistry」にて、ジェイムズ・ブラウンの音楽監督として知られ、ファンクの黄金時代を支えたJ.B.'sのトロンボーン奏者、フレッド・ウェスリーと共演。ファンクの重鎮とのコラボレーションライブを果たした。 フレッド・ウェスリーさんは1968年から1975年まで断続的にですがJBのところで働いていた方で、アレンジャーとか音楽監督として知られた、ブラックミュージックの栄光を築いてきた方のひとりでした。ヘネシーの製作担当者が、オーサカ=モノレールとフレッドのコラボレーションを発案してくれました。フレッドさんとは共通の知り合いもいて、音も聴いてくれていたので、すんなりOKしてくれました。結成当初から夢に思っていたことがまた実現したのです。40過ぎまで好きなことをやり続けたら、いいこともあるんだなあ、と胸一杯になりました。
フレッド・ウェスリーさんとの共演を経て、自身の中での変化はあったのだろうか。実際生の音を聴いてみて感じる世界の音。
これはミュージシャン的な話になるのですが、隣で音を出してみて、プっと吹くだけの話なんですけど、やっぱり音が全然違う部分があるんですよ。ライブをやっても感じたし、録音したものを聴いても感じたし。僕たちはそこに憧れてやってきたので、本物に触れたことは僕らにとってものすごく大きな財産となりました。僕らが偽者かどうかはさて置き(笑)。何年もかけてその謎を解明してそこへ一歩でも近づけるようにと、僕らの中で共有の意識ができたことは大きな喜びでした。
生ライブとスタジオで作られたレコードから聴く音。
レコードだけ聴いていると、いっぱい抜け落ちた情報があり、本当のところは分からなかったりするんですね。例えばプロ野球でもテレビと実際球場で見るのとでは臨場感が違いますし、演劇でも会場で観るのとでは感激の具合は明らかに違いますよね。メディアで分かった気になったり、聴いた気になったとしたらそれは大きな間違いかもしれません。ユーチューブなんかはその典型ですね。実際音楽家だったら、CDやDVD、プロモなどのビデオを作ることももちろん大事なことなのですが、ライブが一番楽しいし、後から嘘の飾りつけができないライブこそが本物の音楽だと考えています。それがアカンかったらアカンですね。
オーストラリア人のファンクに対しての耳は肥えている。ソウルやファンクミュージックをリスペクトしている国。
主観的で大雑把な話になりますが、オーストラリアは実は案外ソウルファンクというジャンルにおいて、世界トップクラスの国なんじゃないかなと感じています。特にメルボルンは、ソウルファンク専門のラジオ局もあって、バンドもかなり多く、シーンが盛んです。一方でアメリカはある種過去を振り返らない国民性で、彼らにとってファンクはただの懐メロでしかないように思います。カナダもそれに近い。イギリスはソウルミュージックに対するリスペクトはあるんですが、流行のひとつなってしまって、その波の満ち引きが早い印象を受けます。一方で、同じ英語圏でもオーストラリアは一過性の流行ではなく、長く愛してくれる方が多い。懐メロ的な感覚と再評価するという意味で聴いてくれている、その両方をいいバランスで保っているイメージですね。英語圏外の日本、フランス、ドイツなどもファンクに対して、ものすごく価値を見出していますが、言葉の壁などがあるのか、独自の解釈で進んでいる部分がありますね。
海外でのパフォーマンスや交渉事は常に英語で行う中田さん。英語に関してはどのように覚えたのだろうか。
中学生から洋楽を聴き始め、高校では1年間だけカナダに留学していました。ソウルミュージックをテーマにした映画なども大好きなので、そういうのを繰り返し観て、台詞を覚えました。若気の至りでそういった映画の権利を買ったこともありました。1年間カナダにいたときに、日本人と話すときも英語を心がけましたが、結局1年では不自由なく英語で喋る域には達しず苦労したので、その悔しい思いやもっと英語を喋りたいという向上心は常にありますね。いまでも歩いているとき、英語で独り言をいって訓練したりしています。お風呂でもなんでも独り言を呟いています。
今回のオーストラリア、ニュージーランドツアーを経て、夏には初のアメリカツアーを控えているオーサカ=モノレール。ファンク発祥の地でのパフォーマンスは大学の入試の心境にも近いと語る。「〝三味線弾いてんだったら、いつか日本にいかなあかんやろ〟ってことで、1回怒られに行ってこようかなと思います。」
アメリカツアーは自分の人生で非常に大きな出来事だと捉えています。「三味線やっていて日本に行く」という感じですね。三味線をやっている人間がずっと自国で、教則本片手に演奏をやってきて、ついに日本に行くという日が来たら、今まで自分でやってきた三味線の弾き方が、たぶん間違っていると言われるんだろうなという不安はあります。そのこと自体が良い悪い楽しみとかよりも怖い、と言ったほうが正しいですが、とてもチャレンジングなことですね。そのアメリカ入試のビックデーを目指し、今一生懸命勉強しています。
世界を代表するファンクの重鎮たちに認められてもなお、謙虚な姿勢が日本人の慎み深さを感じさせる。これ以上語らずとも彼らの音を聴けばその本質が理解できるはず。3月7日はロックスのザ・ベースメントでファンクに酔いしれよう。
プロフィール
1980年代後半のレアグルーヴの影響を強く受け、ジェイムズ・ブラウン・スタイルのグループを考案していた中田を中心に、1992年に大学のジャズサークル内で結成。「68~72年のファンクサウンドを現代に蘇らせる」ことに執心し、20年に渡り第一線を走る。現在は8人編成。2000年4月、ブッダ・ブランドのアルバム『病める無限のブッダの世界』の冒頭を飾るフィーチュアリングトラックが初めて世に発表される。2002年に関東へ移住。2005年、知人に渡した音源がロンドンを中心とした海外での評価が高まり、ヨーロッパでの流通も確立。2006年6月には、「ソウルシスター・ナンバーワン」ことマーヴァ・ホイットニーの初来日ツアーを企画実現。彼女の約36年振りとなるニューアルバム『I AM WHAT I AM』のプロデュースも行い、ヨーロッパを巡業するカムバックツアーも共に実現。2006年11月に初のヨーロッパツアーを行う。2011年8月には最新アルバム『State Of The World』を発表。結成20周年の2012年には、ヨーロッパや北米を巡る計33公演のワールドツアーを敢行。カナダ・モントリオール国際ジャズフェスティバルへ出演。11月には最も敬愛するファンクマスター、フレッド・ウェスリーと共演。2013年は、初のオーストラリアツアーを果たしチケットソールドアウトの快挙を成し遂げる。
CHINA & AUSTRALIA & NZ TOUR 2014 日程
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