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04/10/2019

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ゲーテ生誕から二百七十年

一七四九年八月二十八日、フランクフルトで生まれた文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、先月、生誕二百七十年を迎えた。
今月は、生誕二百七十年に因んで、生誕地のフランクフルトから始まって、終焉の地ワイマールを経て、学生時代を過ごした街ライプツィヒまでのゲーテ街道の中から、エアフルトをご紹介しよう。ゲーテ街道は全長約四百キロ。ご当地でいえば、シドニーから北のタムワースくらいの距離になろうか。
ドイツ中部にあるテューリンゲン州の州都エアフルト。中世から商業都市として栄えてきた一二〇〇年もの歴史をもつ花の都。美しい町並みの故に、そして教会が八十もある故に「百塔の町」、「テューリンゲンのローマ」などと称えられてきた。この街を「テューリンゲンのローマ」と呼んだのは、かの文豪ゲーテ。全長百二十メートルで、ヨーロッパ最長の現存する家屋付の石橋・クレーマー橋(写真)は商店街になっていて、川は全く見えない。
ナポレオン軍がエアフルトに侵攻したのは、一八〇六年。一八〇八年十月に開かれたエアフルト王侯会議の時、ナポレオンは、マインツ選帝侯国総督邸に滞在し、ゲーテを招いた。
ナポレオンは書物を読了する人ではなかったという逸話がある。なのに、ゲーテの著作の熱心な読者であったナポレオンは、戦地にまでゲーテの出世作「若きウェルテルの悩み」を持参し、七回も読み返していたといい、エジプト遠征の陣中にも持ちはこんでいた。ナポレオンは、自らが「ファン」であるゲーテの姿を目にした瞬間、「ここに人あり」と大きな声で挨拶し、ゲーテの類まれなる才能をたたえ、レジオン・ド・ヌール勲章を授けた。そういう意味でこの対面は、戦勝国の将軍と敗戦国の宰相というよりも、二つの偉大な人格の邂逅である。 
こんな逸話もある。イエナ・アウエルシュタットの戦い(一八〇六年)に勝利したナポレオン軍がワイマールに侵攻した時、酒に酔ったフランス兵がゲーテの家に侵入した。未だ内縁の妻であったクリスティアーネが、駐屯していた兵士と力を合わせてゲーテを救った。ゲーテはその献身的な働きに心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じ、二十年も籍を入れていなかったクリスティアーネとの結婚を正式に決めた。カール・アウグスト公が結婚の保証人となり、式は二人だけで厳かに行なわれた。
青年期から重い病に襲われたゲーテ自身は、結婚後は、妻や五人の子に全て先立たれた。苦難が途切れない人生に決して「絶望」することなく、いかにして「希望」を紡いでいったのか、学ぶことは多い。
 

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