17/04/2023
◆会津若松は桜が満開であった。お目当ての「鶴ヶ城(若松城とも)」に行ったら人がたくさんいて、ここぞとばかりに店を開き、商売に専念している。桜は素晴らしくきれいであったがなぜか残念な気持ちになってしまった。そしてもうひとつ行って見たかったところが、町の東のはずれにある「飯盛山」でかの有名な白虎隊の隊員たちの墓があるところである。幕末、それも戊申戦争の最後のころ、政府軍との熾烈な戦いで死んでいった若い少年隊員たちを祀ってあるところである。城から遠く離れた戦いで敗走してきた彼らが、町を遠望できる小高い山に登ると、目指す城は黒煙に包まれていた。それを見て少年たちは、落城したと思い込み早々に自死を決め、それぞれが辞世の歌を残して命を絶ったところである。下の道から、平らではない、蹴込みの浅い危険な階段を上がり切ると、開けた場所がありその左側が墓所であった。線香が焚かれ薄青い煙が漂っている。このオヤジも線香の束を手向けた。帽子を脱ぎ、心から冥福を祈った。14歳から19歳までの20人の少年たちである。武家の習(ならい)とはいえあまりにも若すぎる。しかしそれゆえの純粋さだったのだろう。あとから戦況を調べてみたら、何も死に急ぐ必要はない状況であったらしい。だから、少々早まったのではないかという評論もあったらしい。
これは司馬遼太郎さんのエッセイに書かれていたことだが、明治になってずいぶん経った頃、会津若松の青年商工会議所か何かが、鹿児島県の同様のところから交流しようと話を持ち掛けられたが、断固として断ったというのである。他県との交流はやっていたが、鹿児島だけは許せないというのである。幕末期、会津藩は幕府から京都の治安維持を命じられた。その任に当たる際、自らの藩の人間は数に限りがある。そこで浪志隊を作りそれへ治安維持及び警察活動をさせた。それが新選組であった。当時、討幕方針を鮮明に掲げていた長州は、政治活動のため京都に何人もの藩士を潜入させていた。それを新選組が厳しく探し出し、検挙していたのである。一方の薩摩藩は旗幟を鮮明にせず、どちらにもつかず離れずの態度であった。幕末の再末期、長州と薩摩は密かに連合して討幕を図りそれを具体化していった。その中で幕府を助け長州人を厳しく検挙していった新選組と会津藩は目の敵にされた。だから会津藩の人間としては、初めから反幕であった長州はまだ理解できる。しかし薩摩はそうではなかった。まるで騙して会津を潰したではないか、という理屈らしい。21世紀になった今でもそうなのかは聞き漏らしたが、何か白虎隊の潔(いさぎよ)さというか、直線的な筋の通し方というか、会津人の心のありようが分かるような気がする。
◆会津盆地から山を越えて日本海に出た。新潟は初めてであったが空の広い、明るい街のような気がした。それもそのはず、日本有数の米どころ、越後平野である。山はかなり遠くに引っ込んで見える。そしてまっ平である。市立美術館は特にこれという展示はなく常設展もなぜかやっていなかった。ぜひ行って見たいところはあるか。それがあったのである。昔から頭の片隅に「燕(つばめ)」という地名がひっかかっていた。その町は、戦後すぐに日本が世界一になった「Cutlery」で有名である。ステンレス製のナイフやフォーク、スプーンである。今はどうやら他の国々にその地位を譲っているらしいが、それでもお隣の三条市と一緒になって金属加工では日本でも有数らしい。Netで調べるといくつかの見学できる生産者が見つかった。で、早速出かけた。有料道路・フェリーを使わない条件でGPSに誘導させると街を抜け、すぐに越後平野のまっ平な田園風景の中を走らされた。目的地は「藤次郎」である。何を作っているかと言えば包丁である。このオヤジは、和包丁でも洋包丁でも、調理器具には人一倍興味がある。田園風景に飽きたころようやく燕市に入った。クネクネと工場地帯を抜けお目当ての「藤次郎」に着いたらちょうど「昼休み」の看板がかかっていた。「従業員一同の昼休みの時間です、1時にお越しください」と書かれていた。何となく「潔(いさぎよ)い」というイメージを持ってしまった。のべつ幕なしの日本の企業に、少しは「藤次郎」の爪の垢でも煎じて飲ませたい気分であった。近くのラーメン屋で「柚子ラーメン」というのを食べ、これがまた絶妙であった。時間を見て戻ると、愛想よく挨拶され、実に人懐こく案内された。見学コースの初めに入ったところに鍛造機が置かれ、どうやって真っ赤に焼けた鉄の塊をたたくのかを実際に見せてくれた。あらかじめ型どりされた包丁型の鉄を、炉から取り出し、機械の下に置いて足で踏むと上からハンマーがたたくのである。しかしそれは昔のやり方で、今では型抜きをするらしい。鍛造した鋼と軟鉄を張り合わせ、それを薄く伸ばしたシートを、まるでパイの型抜きをするような要領らしい。
見学コースは外見に似合わず実にきれいに整備されている。通路に沿って、各工程の部屋が並び、その横をガラス越しに作業が見学できる。包丁の形に抜かれた鋼材に刃を付け、どんどん鋭く削り、最後にピカピカに磨かれてゆく。それも和包丁は出刃・刺身・菜切り・三徳、洋包丁は筋引き・骨さし・肉切りがある。そのうえサイズも3~5種類ありそうである。何よりも驚いたのはそこで働いている人が皆若く、真剣に作業をしていることである。身ぎれいなユニフォームを身に付け、整然とした作業場で真剣に働いているのである。そして順路は最後にショールームに導かれる。ここも明るい照明で、モダンでお洒落な造りである。担当者にそれとなく業績や海外向けの需要などを聞いていたら、「あっ、すみません、ちょうど今団体が着きましたので失礼します、ごゆっくりどうぞ」と挨拶をして行ってしまった。外を見ると2台の大きなバスが到着したところであった。そしてまた驚いたのは、バスから降りてきたその団体客はなんと小学生だったのである。4年生か5年生か、低学年の小さい子供ではなかった。このオヤジは感心した。社会見学を地元の主産業である金属加工業に行くというのはなんと賢明なことか。工場の中で黙々と研磨作業をしていた若い工員は、昔ここに見学に来たのではないか、などと想像を働かせてしまった。昼休みを堂々ととり、労働環境を整え、小学生に見学をさせる。何か背筋に一本筋が通っている気がした。
◆あれはどこで見たのだろうか。四国のどこか、あるいは京都のホテルだったか。テレビで地元の特産か名物かそんなものを紹介する番組だったと思う。繭を薄く剥いで、それが花弁となって、きれいな花束を作る、そんな手芸のようなものを紹介していた。新潟県の北の方、もうすぐ山形県になるというような所だったとだけ覚えていた。新潟の街から日本海沿いに北へ向かった。丘を越え、川を渡り田園の間を走る。時々遠くに海が見えたりする。いくつかの町、いくつかの村を通り越し、国道沿いの「道の駅」で休憩した。広い敷地には温泉までもある。なるほど、こういうところでキャンピング・カーやキャラバン・カーは泊まったりできるのだなと納得した。ふと壁の地図を眺めるともうちょっと行くと山形県になる、だったら例の繭の花はここらへんかも知れないとお店の人に聞いたら「隣でやっています」と言われた。
そこはプレハブ風の建物で、中は作業室であり、展示もしまた販売もしているという雑然としたところであった。中央のテーブルで何人かのお客さんが繭の花を作っている。このオヤジは質問魔である。責任者である中年女性に、昔見た、富岡の製糸工場の記録映画で、女工さんがお湯に浮かんだ繭から、細い糸を引き出し、製糸機にかけている白黒の映像の記憶を話した。そうしたら、もし「紡ぎ」をやりたいのであれば準備します、というではないか。うちの奥さんは花造りをしたいという。昼食後、再び訪れると準備ができていた。花造りは染色した繭を真ん中から半分に切り、カラカラに乾いた中の幼虫を取り出す。これは鯉の大好物の餌になるという。親指の頭ほどのキャップ状態の繭から薄紙を剥ぐように剥いで行く。聞けば4枚か5枚取れるという。それをギザギザの刃をした手芸鋏で切ると花弁の出来上がりである。その花弁を色を合わせ、緑の葉をあしらい花束にする。一方「紡ぎ」は熱いお湯に浸した10個ほどの生の繭から、極細の糸を一本づつつまみだす。それを合わせて手回しの糸車で紡いでゆく。曲がった針が10本の糸に「撚り」をかけてゆく。実際に教えてもらい、紡いでみると柔らかい「生の絹」の感触となんとも言えぬ充実感が生まれる。これは何だろう。昔々から、人間が営んできた何か…。それも歴史に裏打ちされた確たる技術…。これを文明というのだろうか。
天照大神(あまてらすおおみかみ)がなぜ天岩戸(あまのいわと)に隠れたかというと、弟の須佐之男命(素戔嗚尊=すさのおのみこと)が、天照が機織り部屋で仕事をしているところへ窓から汚物を投げいれ、それに驚いた下女が陰部を打ち付けて死んでしまった。それに怒った天照が岩戸の奥に隠れたということになっている。この話を読んだときこのオヤジは中学生か高校生か。なんともあけすけでそれでいて何となくみだらな印象を持ったことを覚えている。そんな大昔の、神話に近いことを思い出させてくれた「繭の花」であった。
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